Symposium

LUIGI NONO

シンポジウム

ルイジ・ノーノと《プロメテオ》
Luigi Nono and Prometeo

ヘルムート・ラッヘンマン
磯崎 新
浅田 彰
長木誠司
Helmut LACHENMANN, ISOZAKI Arata,
ASADA Akira and CHOKI Seiji


進歩と退歩の弁証法

ヘルムート・ラッヘンマン──私は1958−60年のあいだ,ルイジ・ノーノのもとで作曲を学びました.これはちょうど,ダルムシュタット[★1]で新しい音楽が模索されていた時代と重なります.当時ダルムシュタットで中心的な役割を担っていたのが,ブーレーズ,シュトックハウゼン,そしてノーノの三人でした.私がノーノに弟子入りをした頃は,三人ともに同じような技法を用いてはいたものの,他の二人に対してノーノがまったく異なる道を歩みはじめていることが明らかになっていた時期です.他の作曲家の目には,ノーノはネオ・ヴェーベルン[★2]主義者として表現主義的な傾向にとどまっているように映っていました.58年,シュトックハウゼンは《グルッペン》[★3]を発表し,ブーレーズも《マラルメによる即興》[★4]のような,装飾的で名人芸的な作品を発表しました.ノーノは,この二人の作品に対して,後退的な,旧態依然としたブルジョワ的な音楽に舞い戻っていると批判していました.ノーノはダルムシュタットで始められた,音楽を「点」としてとらえていく考え方を深めていった作曲家だったわけですが,ブーレーズとシュトックハウゼンはこういった考え方から離れて装飾的になっていった.それだけではなく,やはりノーノとブーレーズ,シュトックハウゼンとでは,音楽の裏にある哲学,イデオロギー,自由の概念が根本的に違っていったと言えると思います.当時,ノーノが私にくれた手紙に次のようなことが書かれていました.「ブーレーズには気をつけろ.彼の音楽はまるでストラヴィンスキーの音楽のようだ.狩に行く代わりに宮廷に閉じこもって音楽を聴いていたルイ14世の宮廷の音楽のようなものを再現しようとしている」.

 一方でノーノは,ブーレーズたちが構造論的な思考の中で排除したような,一つ一つの楽器がもっているアフェクトのかたち,例えばファンファーレのもっているパトスのような表出的な要素をそのまま使いつづけてもいました.それまでの音楽と違うのは,そうした音が独特の方法で粉砕されたかたちで登場するということです.ノーノは,これらの響きを装飾的にあるいは名人芸的に,モニュメンタルに駆使するのではなく,響きそのものに内在しているさまざまな側面に解剖学的に接近し,壊したもののただ中で創作していきました.その例が《ヴァリアンティ》や《イル・カント・ソスペーソ》といった作品です.当時のノーノの作品には進歩と退歩の弁証法を学びとることができます.例えばトランペット・パートには,ベートーヴェンのファンファーレとあい通じる意味合いがあったし,ティンパニは軍楽のような印象が与えられていた.また声のパートでも,それまでのヨーロッパの伝統の中にあるベル・カント唱法のようなものを聴くことができました.でも,それをそのまま受け容れて使うのではなく,ねじ曲げて自分なりの表現として生み出していったということになります.従来の西洋音楽で使われてきた楽器や声を旅行や散歩をして見て回るような,単なるエキゾチックな博物館的な観点でふたたび用いるのではなく,古いものを保持しながらも壊してゆくというのが,当時としてはスキャンダラスな試みだったと言えます.よくノーノの作品について語るときに,弦楽四重奏曲《断片=静寂,ディオティマへ》や《プロメテオ》をもって作風に大きな転機が訪れたと言われているのですが,私はそうは思いません.《プロメテオ》を聴くと,巨大なマドリガルのように思えてなりません.すなわち,古いカテゴリーを使いつつも,これを信じられないくらいに変形させていって,聴く行為の新たな道を開拓したと言えるのではないでしょうか.

磯崎──ノーノと初めて会った頃の私の個人的な話,その後どういういきさつでこの秋吉台国際芸術村のホールがまさに《プロメテオ》を日本で初演するためのホールとしてできたかなどをかいつまんで申し上げます.

 パリにラ・ヴィレットという名前の公園があります.もともと比較的郊外だったのですが,現在はペリフェリックという環状線に接したところにあります.80年代の初め,ミッテランの「グラン・プロジェ」[★5]の一環としてここを新しい公園に作り替えるという国際コンペがありました.このコンペには,大きな展示場と音楽学校とコンサートホールなどの芸術センターを作ろうという意図がありました.
全世界から20人弱の国際審査員団が選ばれ,僕は建築家サイドからそこに審査員の一人として出たのですが,その審査員団に,アーティスト・音楽家の代表としてノーノがいました.他の審査員はレンゾ・ピアノ[★6]など建築家が数名と,同数以上の造園家,世界の造園協会の会長とかで,いわば世界の造園の全力をあげてここでデザインを作ろうという意図でした.建築家,アーティストなどはその「うわもの」を作るための副次的なメンバーとして呼ばれていたというのが実状でした.言ってみれば,パリが次の世紀に届ける贈り物としての公園を国際的なアイディアでまとめたいという意図だったのです.全世界から送られてきた1000点近くの案を審査し,議論をしているうちに,造園家が提案をしたものは全然面白くない,19世紀の考えから抜け出ていないではないかという意見が建築家の中から出てきました.建築家の提案には面白い案があったのですが,みんな実現不可能ではないかという意見がありました.この二つのプロフェッションが激突して大議論になり,格闘技みたいな状態になりました.

コンペをプロデュースしたフランス文化省が,このままいくと将来,世界の建築家と造園家が口を利かなくなるくらい危機的な状態だと考えはじめたのです.そのとき突然ノーノが立ち上がって,「これまで二つのプロフェッションの意見を聞いてきたけれど,何のことはない,21世紀を示すようなものは何もないではないか.造園が19世紀的,建築家が20世紀的といっても先のことは誰も読めていない.こんな審査につきあうのはごめんだ」と言って帰ってしまったのです.僕は,そのスタンドプレーが大変気に入りました.というのは,僕はその2年前にロサンゼルスの現代美術館の設計をやって,クライアントと衝突して同じようにパッと席を立ってウォーク・アウトしたことがあったのです.
これを思い出して,「あいつやるな」と思いました.ノーノという人に親近感を覚えました.もちろん彼は,2回目の審査のときには戻ってきて一緒に審査をしたのです.そこで決まったのはベルナール・チュミ[★7]というスイス生まれの建築家の提案したものでした.造園家が敗退したのです.その次の段階のコンペで《シテ・ド・ラ・ミュジック》という公園内の音楽施設を審査して選ばれたのがクリスチャン・ド・ポルツァンパルク[★8]というフランスの建築家でした.その二人の組み合わせで,この公園と施設ができあがりました.政治的ないろいろな状況が生まれてくる中で,これをバーンと切り裂くためにどうすればよいか,どういう姿勢をもって動いたらよいのかということがあるわけですが,ノーノが立ち上がったそのときに,僕はそれがわかりました.われわれを力づけてくれるような動き方のできる人だと思いました.それが彼を尊敬しはじめた一つのきっかけです.

 それから彼がサントリーホールに呼ばれて東京に来たとき[★9]など,いろいろなかたちでおつきあいすることになり,最後にはサン・ミケーレ島に埋葬された彼のお墓を設計したという,個人的なつきあいでした.秋吉台にホールを作る計画ができ,細川俊夫[★10]さんから「こけら落としに《プロメテオ》をやりましょう」というお話があったとき,僕は大喜びをしたわけです.じつは審査員で一緒にいたレンゾ・ピアノが84年のヴェネツィアでの初演の空間を作っている.
先ほどのコンペは82年の終わりから83年の初めだったと思いますから,ちょうどノーノが《プロメテオ》を構想をしている真っ最中であっただろう.その時期に僕は彼に会ったのです.それを日本初演するというのが細川さんのアイディアで,僕は大変うれしく思いました.ところが,一つ問題がありました.僕は音楽のスコアはほとんど読めません.音楽に対して建築家としてどういうふうにアプローチしていくかという手がかりがないわけです.細川さんから,「いや,普通にスコアを読めても《プロメテオ》のスコアは読めません,これは全然普通のスコアではないんです」と聞いて安心しました.それなら白紙状態でこれとつきあうことが一番良いだろう.唯一手がかりになったのは,アンドレ・リヒャルト[★11]さんが,《プロメテオ》の空間的な構造をどう理解したらよいのかを具体的に話してくれたことでした.僕なりに解釈すると,《プロメテオ》は,第一の島,第二の島というふうに各章を「島」と呼んでいるわけですが,マッシモ・カッチャーリ[★12]が現代思想の中で彼の一番ユニークな貢献だと言われている「群 島」という考え方を頭に入れてシナリオの提案をし,それを受けてこの「島」を時間系列において組み立てていくことが,《プロメテオ》の構成になっている.そういうふうに僕は理解しました.それなら空間内に「島」を作ればよい.島も立体的であって,浮島とも考えられる.観客席になってもいいし,ステージになってもいい.現在あるものをバラバラにして空中に浮かす.具体的な位置関係に関しては,リヒャルトさんと通信しながら,また彼が日本に来たときの打ち合わせを通じて,オーケストラの位置や大きさを決めました.われわれの世界を「群島」として考えるという世界観と,「群島」を立体化して演奏空間にしようという考えを,空間的にパラレルにもっていきたいと僕は考えました.
もう一つ,このホールのイメージとしては,ここが秋吉台であるということがあります.秋吉台はカルスト台地であり,鍾乳洞がある.いわゆる洞窟ですね.ですから,洞窟というイメージと群島というイメージと,この二つを重ね合わせてホールの空間を作り上げていくのはどうだろうということを設計過程で考えました.ガラス張りにして水を張った中庭がすぐ前にあります.この舞台は,その浮島の一つでもあるわけです.じつは,宿舎も島みたいにして浮いています.ですから,それぞれ別な機能をもつ島の集合状態を組み立てていくというアイディアを,ホールだけではなく全体の配置のコンセプトにも広げていきたいと思ったわけです.すなわち,この芸術村の全体の空間構成は,ノーノとカッチャーリが《プロメテオ》で構想した世界を日本の秋吉台という条件の中で組み立て直そうとしたものです.昨日,この《プロメテオ》の日本初演を聴きまして,ここで作られた空間での音の流れは非常にうまくいっていたと思いました.

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