Dialogue/[対談]ロジャー・ペンローズ+佐藤文隆

佐藤――でも,他の人たちは,通常,状態収縮の原因は別の原子にあるというふうに考えています.何か別の周辺状況(surrounding),エクストラがあるのは確かですから,大半の人は別の環境なり別の原子なりで十分だと考えている.

ペンローズさんの時空のイメージはじつに内容豊かなものだと思います.例えば,空間は無を意味しているにすぎないと言われることもある.構造も何もない.しかし,ペンローズさんの空間のイメージは,より構造化されているように思えます.

ペンローズ――実際には,物質は厳然として存在しています.ある意味で,一般相対性理論では時空はそのようなかたちで機能するんです.時空を物体と同様,このうえなくオブジェクティヴなイメージとして捉えることで,明確な方程式が満たされるわけです.

佐藤――時空は完全な物理的実体である,と.

ペンローズ――単なる物質の非在ではない.

佐藤――それは決定的な違いですよ.

ペンローズ――アインシュタインもそう言っているんですよ.結局のところ,アインシュタインはそのポジションに追いやられてしまったのでしょう.実際,時間と空間を結びつけなければならないという事実を最初に公にしたのは,確かミンコフスキーだったと思います.しかし,一般相対性理論を了解するには――おそらく特殊相対性理論を了解するには,と言ってもいいと思うのですが――,きわめてオブジェクティヴな時空がそこに存在しているものなのだと,いうイメージが必要で,それがないと,了解するのがとても困難なんですね.

私は常々,「相対性」というのは大変よろしくない言葉だと思ってきました.「相対性」という言葉は,実際の主題に関して誤った印象を生み出しています.「すべては相対的なのだ」――そういった印象です.しかし,そこには絶対的な概念(notion)がある.時空というのは絶対的な概念です.だから,空間と時間が相対的な概念だとしても,時空というのはオブジェクティヴなのです.ただ,こうした考えが,相対論者のあいだでは一般的ではないのかどうか…….私はごく当たり前だと思うのですが,もしかしたら間違っているかもしれません(笑).

佐藤――「存在」についてのゼノンのパラドクスを思い出しました.通常われわれは,このバラドクスを克服できないと考えています.存在の判断基準は何かを空間のうちにイメージしてみることだというあのパラドクスです.リアルな時空について考えようとするのなら,この時空を空間のうちに置いてみなければならない(笑).

ペンローズ――視覚化するという観点からですか?

佐藤――みんな,常に,視覚化することで存在を認識しようとしています.

ペンローズ――そうですね.でも,時空を相対論で扱う場合は,みんな計算をし,方程式を書くだけです.何が起こっているのかを絵に描いてみてくれということはない.

佐藤――ええ.でも,それにはいくばくかの訓練を要しますからね.一般の人たちは抽象化の作業に慣れていない.そこで,存在とはすべてイメージできるものだ,空間にある何ものかだ,と考える.時空そのものが物理的実体ならそれを置く時空が要る.例えば,時空が存在しないことをイメージするのは大変難しい.かくして時空の創出にはいつもトラブルがつきまとう(笑).

ペンローズ――しかし言うまでもなく,相対論を扱う場合,リアルな構造は簡単に示すことができますよ.

佐藤――われわれは扱っている対象を知っているのだから,それは当然です.しかし,イメージするのは難しい!

ペンローズ――そうですね.四次元を厳密なかたちで想像するのは,とても難しい.

佐藤――どうして,このような意識のかたちが人間には生じたのでしょう?

ペンローズ――先ほどの「突然」の問題に立ち戻ったようですね.これは,突発的に現われ出るようなものなのかどうか? 繰り返しておけば,私はこれが人間に特異な性質だとは思っていません.動物界をどこまで下ればいいものかはわかりませんが,例えば,犬を飼っている場合,何らかの意識と呼べるものが存在していないと考えるのは難しいでしょう? 動物にも意識や心があるということに,私はほとんど疑いを抱いていません.猿には間違いなくある.私が実際に見聞したところからすると,象にもある.しかし,動物界の階梯をはるか下方にまで下った場合,果たして意識と呼べるものはあるのかどうか.魚に十分な意識があるのかどうか,私には何とも言えない.ないわけがないとも思えない.でもまあ,あるとしてもごくちっぽけな意識でしょうね.ここには量的な側面があります.多分,魚にはごく少しの意識しかない.それでも,その魚の振る舞い方にとっては大きな意味をもっている,というふうに思います.動物たちが,自分を取り巻く外部世界で何が起こっているかを少しでも理解しているとすれば,まったく理解していない場合と比べて,より効果的な振る舞いをするでしょう.

このように,意識は,動物たちにとっては選択的に有利に働き,そうして発達してきた.でも,潜在的には常にあったに違いない.でなければ,使うこともできないわけですからね.要するに,これも自然選択に見られるのと同じような一つのプロセスだったと言えるでしよう.ある時点で,何ものかが他とは異質の優位性を獲得し,それが一定の構造を発達させることを可能にした場合,今度はそれを別のことに対して使うことができるということを発見する.これはもう意識そのものと同じようなものだと言っていいと思いますね.まあ,単細胞生物には意識はないだろうけれど(笑),それでも発達させることのできる構造はある.そして,これは純然たる推論ですが,彼らは量子のコヒーレンスを利用できるようになるかもしれない.これは,たとえ意識がなくても,彼らにとって大いに価値あるものとなるはずです.まあ,このあたりの考えはすべて想像の域を出ませんけれどね.

前のページへleft right次のページへ