Dialogue/[対談]ロジャー・ペンローズ+佐藤文隆

量子力学と意識

佐藤――一ところで,ペンローズさんご自身の仕事について,少し詳しく話していただけますか?

ペンローズ――そうですね.私が意識や心の問題に関心をもちはじめたときは,みなとてもびっくりしたようでした.ずっと物理学と数学をやってきましたからね.でも,意識や心の問題にしても,ある時点で突然,関心の対象になったというものではないんです.私がこれまで著書に示した観点は,多かれ少なかれ長年にわたって私がもちつづけてきたもので,なかには大学院生時代からというものもあります.ゲーデルの定理とチューリング・マシンのことを知ったのは,その頃のことです.

ケンブリッジの大学院に入った最初の年に出た講義のなかで,大変大きな影響を受けた特別の講義がいくつかあります.私の専攻である純粋数学とは直接関係のない講義です.まず,ゲーデルの定理に関するコースの講義,数理論理学ですね.それとチューリング・マシンについての講義.ゲーデルの定理は,私にとって次のようなことを明確にしてくれたと思います.すなわち,定理は決してそれで十分であるという地点には到達しないのだから,われわれが数学を理解するかたちは所与の公理を介してではない.しかし,われわれは常に公理の体系を超越する認識のかたちをもっている.もし公理を信じるとすれば,同時に公理の帰結ではないものも信じることになる.これは基本的に,チューリング・マシンすなわちコンピュータの問題です.要するに,われわれの理解のうちにある何ものかは,計算(computation)によって達成しうる領域の外部にあるという観点です.こうした考えを,私は間違いなく大学院の最初の年に定式化したはずなのですが,でもこれは一つの観点にすぎず,その後,それほど突っ込んで考えることはありませんでした.哲学的な問題に対しては,みなそれぞれに異なった考え方をもっているものです.

私はまた,ディラックから量子力学を学びました.これは大変な体験でしたね.素晴らしい連続講義でした.さらには,ボンディから相対性理論を学びました.ディラックとはまったく異なったかたちではありましたが,これまた素晴らしく啓発的な講義でした.これらは,私の専攻するテーマではまったくなかったものの,のちに私がやることになった仕事に対して,はかり知れないものをもたらしてくれました.
しかし,私が,意識や心とは計算の過程ではないという私の考え方を実際に書くにいたったのは,じつを言うと,かなり極端なポジションをとっている多種多様な人たちが出演していた,あるTV番組を見たからなんです.筆頭はマーヴィン・ミンスキーでしたが,彼らの話は,もし私たちの行なっていることすべてが計算であると考えるならば,完璧に論理的であると思えました.しかし,私はすべてが計算だとは考えていなかったので,こんなふうに思ったのです.科学に関して,一般向けもしくは準一般向けのレヴェルで何かを書こうと思っているのなら,このテーマに焦点を合わせるべきだ,と.こうして私は,他の人はまだ誰も書いていないが,私にはきわめて重要で書くだけの価値があると思えるこの観点を著書で示そうと決意したのです.それにしても,あの本[『皇帝の新しい心』]に対して,あれほど怒りをあらわにする人たちがいようとは,まったく予想もしていないことでした.

そこで,2冊目の著書『Shadows of the Mind』では,私が,向こう側の誤解であると考える,そのようなポイントを中心にまとめました.でも,みんなまだ誤解しているようです.みんな,まだ腹を立てていますから.この本はすいぶん時間がかかりました.結局のところ,本当に書きたいと思っていることから大きく離れてしまいましたからね.要するに私が書きたいのは物理学の側面に焦点を合わせたものです.精神性がどのようなものなのかを理解する点において,われわれはまだそれほど進んではいない.これが私の基本的姿勢です.精神がいかなるものかを知るには,物理性がいかなるものかをもっと知る必要がある.物理的世界に関するわれわれのイメージは,まだごく貧弱なものであって,現在の理解を完全に超えた重要な事象はまだまだ無数にあります.なかでも最大のものは,量子力学的状態収縮の問題でしょう.別の言い方をすると,微小スケールの量子現象がどのように大スケールの現象と関連しているのか.これは,現時点では根本的に解明されていない問題です.ですから私はまだまだ語ることができるというわけです(笑).

佐藤――一通常,量子力学の研究をしている人は,意識の問題など考えていませんね.この組み合わせは大いに珍しいものでしょう.要するに,ペンローズさんの考えでは,突然,脳が出現したということになるのでしょうか.これはちょっと奇妙に思えるのですが…….

ペンローズ――突然? いや,そんなふうには考えていません.外界の自然に存在するさまざまな事物を利用するというかたちで,脳はゆっくりと時間をかけて進化してきたわけです.突然のプロセスだとはまったく思っていません.さらに,意識(consciousness)というものは「オン/オフ」的なものだとも思っていません.脳はゆるやかな時間をかけて進化してきたものであり,選択的な優位性をもっている.こうした質の理解能力をもつ生物,こうした知覚力(awareness)を必要とする生物は,十分に発達したこの種の質の意識をもっていない生物に対して,優位な位置にあります.いずれにしても,突然のプロセスだとは思いません.非常に長い時間をかけて進化してきたものであり,この原初的な側面は,現在の動物界のはるか下方にいる他の動物たちに現われているにちがいないと思っています.要するに,それほど人間に特異な性質だとは思っていないわけです.

佐藤――人間だけの特質ではないとしても,いずれにしても,意識のメカニクスは,外界とのインタラクションを介して創られたというふうに考えておられるわけですか?

ペンローズ――それは間違いなく重要な点ですね.でも,私はそれが決定的なことだとは思っていない.外界とのインタラクションが意識の本質的な部分だと考える人もいますが,私にとっては必ずしもそうである必要はない.例えば数学では,おそろしいほどの内的な思考を展開します.これは外部世界とは,ほとんどと言っていいほど関係がありません.完全に内的に進行することが無数にあって,それは意識ときわめて密接に関わりあっている.もちろん,最初にアイディアを得るとき,外部世界からピックアップしてきたり,外部世界とのアナロジーを用いたりということはありますが,それでも,外界とのインタラクションが本質的なものだとは思いませんね.

佐藤――種の内的観察でしょうか? あるプロセスは内的なものであって,しかし,意識そのものはこの系の外部にあるわけではない,と?

ペンローズ――明確な線を引くことはできませんが,でも,私は意識を外部のものとは考えません.奇妙なことですが,われわれの脳で組織されるかたちとは,外部世界に依存する,ある潜在力(potential)を利用することだという意味においては,意識は外部世界に存在している,潜在的に外部に存在している,と言うことができます.その意味で私は,意識が完全に内的な存在であるとも思いません.実際,そうではないわけですから.しかし,意識のかなりの部分が外部にあると考えているわけでもない.このテーブルがそれほどの潜在力をもっているとは思わないが,しかし,潜在的にこれは自然のうちに存在している.世界が機能する,そのあり方で,潜在的に存在している.いかなるかたちであれ,この潜在力を利用できる存在は,そうでない存在に対して上位に立つということです.

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