Dialogue/[対談]ロジャー・ペンローズ+佐藤文隆

人間は「抽象」を理解する

佐藤――純粋数学の美というのは,専門家でない人にとっても感得しうるものでしょうか? それとも,それを感知するには特別の訓練が必要なのでしょうか?

ペンローズ――私としては,専門の訓練を受けていないと,理解するのはなかなか難しいだろうと思いますね.数学においては特にそうです.数学は一種の奥義と言っていいものですから,あるアスペクトを十全に理解し味わうには,絶対にエキスパートである必要があります.いや,数学者ですら,別の領域を専門とする数学者がやっていることを十全に理解し,その美しさを味わうのに困難を覚えることもあります.そういった美的な価値を伴う部分は伝えるのが大変難しいものなんですね.したがって,数学者でない一般の人が,このテーマにおけるアーティスティックな価値を理解し味わうのがきわめて難しいというのは,間違いないところでしょう.それでも,そういう事物/事象が存在することを理解するのは可能だと思います.ごくシンプルな例を介して,美的な価値が存在することを感知することはできる.これを感知するだけなら,多大な数学的理解というものは必要ありません.

それでも,数学の世界には常に一種のジレンマというか,大変なフラストレーションがあって,例えば,あるテーマ領域において,それが驚異的な美を備えていたがゆえに,いくばくかの仕事ができたとします.その結果今度は,その美しさを誰か他の人に伝えたいと思い,伝えようとするのですが,しかし,相手がそれを十全に理解できないために,ちゃんと伝わらない.他の人たちが,その意味するところを十全に理解し味わうことができないというのは,本当にがっかりすることであり,多大なフラストレーションをもたらすものです.

佐藤――純粋数学というのは極端なまでに専門化されている.しかし,幾何学的な記号や幾何学的な美,単純さといったものは,一般の人々にも感得しうるものだ,と.

ペンローズ――そうです.その点で,いつも大変皮肉だと思うことがあって,よく,一般の人たちにこれこれの考えを説明してくれと頼まれるのですが,その際,できるだけ図をたくさん使ってくれ,幾何学的な形で説明してくれと言われます.ところが,数学を専攻する学生たちは,幾何学的な捉え方が非常に苦手だという場合が往々にしてあるんですね.計算をやっているほうがずっと楽らしい.数学の専門家ですら,幾何学を十全に理解し味わうのはたいそう難しいという場合が多いのです.もちろん幾何学が大の得意だという数学者もいますが,私の見るところでは,これはあまり一般的ではありませんね.私がこれに気づいたのは,まだ学部の学生だった頃です.幾何学が得意だという学生はごくごく少数,大半にとって幾何はきわめて難しいものだったんです.

佐藤――なるほど.幾何の場合は,入試問題を解く際でも,最初に何らかのインスピレーションが必要なわけですからね.

ペンローズ――幾何の場合,オートマティックに問題を解くというわけにはいきません.徹底的に深く考えることが必要なんです.

佐藤――代数を扱う場合は,基本的な手法というか,一種のマニュアルがありますよね.どうやって手をつけるかとか.そうすると,これまた,数学を一般の人々にとってさらに遠いものにしてしまうようにも思えます.

ペンローズ――それはそのとおりです.しかし,人はさまざまで,数学の世界でも,ある人がごく簡単にやってのけることが,他の人とにとってはまったくそうではないということがありますし,他の人とまったく異なった反応を示す人もいます.

佐藤――ペンローズさんは幾何のほうがお好きなんでしょう?

ペンローズ――ええ.私はどうもそちらのほうに向いているみたいですね.でも,これは少数派で,幾何のほうが考えやすいというのは数学者の中でもごく少数なんです.

佐藤――とすると,数学者に限らず一般の人々も含めて,なぜみんなあれほどたやすく「円」をイメージできるんでしょうね.円というのはこのうえなく抽象的な概念なのに.

ペンローズ――ラフにスケッチできるような円のことではなくて,本当の円のことをおっしゃっているわけですね.抽象的な円の概念を理解すること,これはプラトン的問題です.人間は抽象的な対象を理解する能力をもっている.おもしろい問題です.

佐藤――円も三角形も直線も,実際に存在していないとは誰も言えない.でも,概念そのものは,このうえなく抽象的です.

ペンローズ――では,一般の人々はなぜ,そうしたきわめて抽象的な対象をたいした困難もなくイメージできるのか.実際のところはおそらく,一種の近似にすぎないということだと思いますよ.円について考える場合,一般の人々は,手で描いてみたらとか,このテーブルの範囲内でとか,そういったかたちで認識しているんだと思います.それは本当の円ではない.

佐藤――それはそうですが,頭の中では正確な円をイメージしています.

ペンローズ――問題は何なのかを本当に知らなくても,そういったことを考えることはできるわけです.でも,円とは本当は何であるのか,こういったことを気にかけたりするのは数学者だけですよ.あるいは哲学者か.

佐藤――こう言い換えてもいいと思います.人間は何らかのツールを操って外界を認識する.人間というものはすべて,こうしたきわめて抽象的な概念をもっている,と.

ペンローズ――潜在的な抽象化の能力がある,ということですね.それはそうです.しかし,ちょっとおかしなこともあって,私はいろんな人からさまざまなテーマについて手紙をもらうんですが,ごく最近,こんな手紙が届きました.π=パイは定数ではないというんです.その差出人が言うには,パイは変数でもありうる,これはおそらく時間の関数だろう……といった具合です.
私としては,これにはちゃんと説明をしないわけにはいきません.それで,返事を書きました.パイは数学的な数であって,それ以外の何ものでもありえない.円周と直径に従って,パイは完全に定式化されている,とね.これはあなたがおっしゃった抽象的な円の話と関連しています.その手紙を寄こした人は,別の円もありうる,別のパイもありうると考えている.この宇宙において,パイには別の値があるかもしれない,われわれが与えた値だけが唯一の値ではないかもしれない,このような観点に立っているわけです.私はとにかく説明を試みました.非ユークリッド幾何の世界においてさえ,別の値をもったパイは存在しない.円が実際にどんなものであろうとも,直径に対する円周の比率をパイと呼ぼうと呼ぶまいと,パイそのものは一つしかないのだ,と.

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