目次へ
image J-E



はずむ心 ダンシング・オールナイト〜これはダンス論ではない[6]
いとう――今回は「身ぶり手ぶり」ということを考えてみたいんです.マイマーとしても有名な中村有志さんにパントマイムの中の身ぶりについて聞いてみようと思って,特別講師としてお呼びしました.

中村――パントマイムって,基本的には「しゃべれない人」の芸ですからね.なんでパントマイムでしゃべらないのって言われると,それは「しゃべれないこと」が起源だからなんです.

いとう――ハーポ・マルクスってことですね.

中村――だから,『変身』をやったときにスティーヴン・バーコフに聞いたんだけれども,土着の芸だから,「大劇場には入っていけない」って言うのよ.で,スティーヴン・バーコフもマイムみたいなものを身につけている人だから,「小劇場だけでしか,僕は活躍できない」というね.大劇場には入っていけない地べたの芸なんですね.

桜井――まさに“芸能”っていうことね.

中村――そうそう.だから僕らが反対にマイムとかいうと,ヨーロッパのすごいハイセンスな伝統芸みたいなことを感じるんだけれども,反対なの.ハイセンスどころかすごい低いことなの.

いとう――なるほど.

space 中村――俺もそこで認識を新たにしたんです.西洋では動きそものが排除されてるということです.演出家がいて,芝居をやっていて,もし動くようなシーンがあったら,演出家はもうノータッチ.

押切――映画の中の“殺陣師”みたいなものが活躍する.

中村――そう.動き専門のやつが出てきて,勝手につける.それに対してはもうなんにも言わないと.動きなんかどうだっていいんです.

いとう――台詞がどうあるかですからね,ギリシア演劇とか.西洋演劇の起源はあくまで言語.

桜井――でもフランスとかだと,ちゃんと大きい劇場でマルソーとかやってるんじゃないの?

中村――大きい劇場でマルソーをやっているとは思えないよ.

いとう――マルセ太郎さんみたいなものか(笑).芸はすごいけど,大劇場では絶対に見られない.

中村――マイムっていうのは,みんなイメージがいろいろあって,間口が広いんですよ.僕が見ても「え,これマイムなの?」って思うようないわゆるダンスに近いものをやっている人もいるし,僕たちみたいにギャグをやって,コントに近いものでマイムをやって笑いをとって,マイムでございますっていう人もいる.横の並びが広いんですよね.

桜井――日本のマイムっていうとヨネヤマママコさんみたいな,アートっぽい人って昔からいっぱいいるじゃないですか.そういう人たちのやっているマイムは,リアルさは志向してないの?

中村――それがそのまま現代劇に通用するようなリアルさは指向していないでしょうね.

桜井――何をやっているかわからないと,マイムの場合はしようがない,と.まあ,アートっぽいマイムは,そういうリアリズムじゃなくってポエジー,“ポエム”ってことなのかもしれないけどさ.

中村――それは僕たちに言わせると,ヘタなマイムになっているっていうことですよ.

いとう――たとえば風船をふくらますのに,手がふわふわしたりして,パントマイム特有のリアリズムがあるじゃないですか.あの動きはどこから来てるんですか?

中村――伝統っていうか,それはもうセオリーだから.「同一化」ということなんですが,風船をふくらますことでここに風船の形態を表わそうとしているけれども,でもモノには見えてこない.イメージを伝えるのは僕の身体だけなんですよ.だから,ここで表現しているものは僕の身体で表現しなければいけないんですよ.それが「同一化」.

いとう――自分が風船になって,しかも対象物の風船も手の中にある.

中村――たとえば,「フゥー」って風船の中に息を吹き掛けたときに,自分の身体も「フゥー」って一緒に大きくなる…….

いとう――ははあ,それがパントマイム特有の動きか.たしかにすべてそうだ.

space 中村――ロープ引っ張るときも,胸をやわらかくしているからロープに見えるんですよ.固めると棒になっちゃうんです.これが「同一化」の原理なんです.やわらかくしてやらないと,ロープに見えない.そういうのを全部つくったのが,デュクルーというマルソーの先生なんですね.だから,フランスの友だちが「マルソーなんか,ヘッ!」って言ってる.偉いのはデュクルーっていう先生であって,マルソーはただそれを金儲けにしたっていう評価がありますよね.

いとう――たしかに,バレエなんか対象物を表わそうとはしないもんね.狂言だったらあるけれどもね.それこそ扉を開けるのに,「グワラッ!グワラッ!グワラッ!」って,口で言っちゃう.

中村――やってるよね,狂言はね.

いとう――今回,パントマイムとの比較として能・狂言を見てきましたけど,いわば狂言にある身ぶりの多様さを削ったのが能とも言える,芸能性をダンス性に置き換えたとき,身ぶりが消えるという原則の証拠という感じでね.ただ,今回見た能の《野宮》だって最終的には,扇で顔を覆い隠すという仕草が重要です.都合三回出てくるけれども,それが象徴的に細かい感情を“説明”する.そうなると,身ぶりを削ることは,結局残った身ぶりをよりよく伝えるためとも言えないのかなあ,と.

桜井――狂言のほうがよく動くから能より身体性があると思われがちだけど,狂言は本質的にはセリフ劇じゃない? 身ぶりのあつかいは厳格かつ重要とされるけど,劇構造のなかでは記号化されざるをえない.だから,僕,狂言,面白いと思ったことないんだよね.あまりにも「お約束」なコント見せられているようでさ.役者のキャラクターもパターン化されてるし,狂言の役者で,マルクス兄弟とかきたろうさんみたいな人っていないじゃん.なんで?

いとう――近代以降,守ることにしか意識がいってないジャンルだからねえ.

桜井――有志さんの「しゃべれないからパントマイム」という指摘と同じで,能の場合,シテが舞うとき自分で語らせないで地謡に語らせたり,狂言のようには饒舌に「語れない」身体(つまり,身動きが極度に制限されているから).だからこそ,いわば不具性の身体だからこそ,その身体は雄弁なのではないか?

space 押切――極力,自己=身体を消しまくることで最小限の身ぶりが浮き立ってくる,ということなんだろう.でも,それは理想であって,いまの能にそういう質の高さがあって,誰でも納得できるような動きが見られるのかどうか.やっぱり,能を味わうにはある程度の知識がないとダメなんじゃないの.何も知らなくても感動できる,という外国人も多いらしいけど,僕は狂言とは違った意味でそんなに楽しめない.

いとう――そういえば,狂言は有志さんも…….

中村――養成所で習っていました.野村万之丞先生だったかな.

いとう――そのとき身ぶりとかっていうのはいろいろ教わったの?

中村――基本的に舞とか謡とかいうのをマスターしたうえでの身ぶりだからね,そこまでいかなかった.やっぱりすごいよね,伝統芸能は.ちゃんと舞とか謡とか,歌えてね,舞えてそれでなおかつ所作をやるっていうことだから.

いとう――狂言もマイムも,下半身が固まりがちですよね.人形ぶりっていうことが基本にあるでしょ.

中村――マイムでは,人形ぶりっていう習い方は何もないよ.いきなり先生に「人形のバイト行ってこい,仕事行ってこい」って言われて.「先輩に見せてもらえ」って.

桜井――それは全部応用でわかるんですか? 見ればわかるのかってことですけど.

中村――そうですね,自分なりの法則を見つけるんですよ.曲線を描かなければいいんだなとか,目は閉じないとか.でもそれは人それぞれなんです.もうほとんどその人まかせだから.

押切――マイムも,「見て習え」の世界なんだ.

いとう――そのとき気持ちはずっと人形なんですか? コツってなんなの?

space 中村――それは反応しちゃいけないっていうこと.人形やっているときは,目線をお客さんにあわせちゃうと自分が反応しちゃうんですよ.だから目の焦点をぼかしてなくしちゃうんですよ.

いとう――ああ,寄り目が基本ね.それは異形のものを演じる基礎でもある.

中村――こうするともう全然なにがどうなっても目線が動かない.要するに,大まかなものしか見ていないんですよ.ああ,この人はいま近づいてきたなとか,何か俺に出しているなとか,その程度のコミュニケーションしかとらない.僕はそうやってます.

押切――ベラ・システムでいうと,それは何番目に当るんですか?

いとう――何,ベラ・システムっていうのは?

中村――セルクルってフランス語でいうんですが,それは演じるシステムのテクニックのひとつなんです.輪があると考えて,第一番目は第一セルクル,二番目は第二セルクル,第三セルクルで,これで演じ分けをするんですよ.第一は自分の中に意識をもってくる.第二は相手に,第三は空,イメージの世界にもってくるんですよ.そういう稽古をさせられる.たとえば「僕が悪かった」っていう台詞を第一で言いなさいって言われたときに,自分の内的な世界で相手はいないって考えて「僕が悪かった!」ってね.第二は相手がいるから,「僕が悪かったんだよ」って話しかけて.それで第三はイメージの世界だから,たとえば過去の物語のなかに自分がいるわけです.「僕が悪かった」っていう追想している台詞がそのままポンと出るのが第三.そういうものの集大成がベラ・システムなんですよ.

桜井――それは芝居のシステム?

中村――芝居のシステムなんですけど,ベラっていうおばあちゃんが作ったものでね,芝居は無対象です.だからマイムに近いんです.

いとう――しゃべるマイムか.

中村――でもマイムと違ってコップを表現するとかはないんです.表現はしないけど感じなきゃいけないんですよ.材質感から何から重さから.そのシステムを玉三郎さんはやっているんですよ.

押切――玉三郎は踊りでやる.一番で踊って,二番で踊って,と踊りわけるとお客さんにもその違いがわかる.

いとう――ふうむ,やっぱり芝居は意識なんだろうか.というか,意識を何かと「同一化」させると,細かい筋肉の動きが自然に出てくるってことなんだろうけど.マイムの場合,筋肉も鍛えるんですか? つまり,日常の動きを模倣してはいるけれど,筋肉は違うという表現のことを聞きたいんですけど.

space 中村――そうそう.引っ張られているときは押しているわけだから.

押切――重いボーリングの玉を引っ張るしぐさをするとき,じつは押したりするんだよね.目の錯覚を利用する.

中村――要するに,みなさん玉を上げちゃおうとするから変なカタチになっちゃうんだけど,そうすると重さが見えてこないんですよね.僕は反対に押すんですよ.押してみると重さが表現できるんです.

桜井――反対のことをするんだね.

space 中村――壁もそうなんですよ,だからこれも.これは要するに稽古をするときって,最初鏡を見て,手の位置がこうとか何とかいっているうちはもう全然できないんですよ.ずっとやってもうここに空気の膜をフッと感じるというところまでくると,もう何やっても平気なんですよ.絶対に見えているっていうのがもうわかるから,自分で.

桜井――ところで,パントマイムはフランスのお家芸なんですかね?

中村――まあ,フランスとは限らないんでしょうけれどもね.たとえばピエロは,パントマイムの中にあるキャラクターのひとつなんですよ.ピエロとかアルルカンとか,マースとかアースとかね.ピエロはこういう動き方,マースは戦闘的だからこういう動き方,ヴィーナスはこういうものとか.

桜井――そうか,イタリアのコメディア・デラルテとかが起源なんだ.

いとう――仮面劇だものね.動きがそのままキャラクターになってないといけない.大衆芸は,共同知の世界ですからね.共通の物語をバックグラウンドにしてないと,という基本がある.

中村――ついこのあいだ,NHKで日本舞踊をやってたから見ていたんだけれども,俺は何がおもしろいのかよくわかんなかったなあ.あれ三味線も謡もなくておばあさんがただ一人でやっているのを見たら,「何をやってるんだろうこの人は」っていうことになっちゃうわけじゃない.やっぱり謡があって初めて中身がわかる,なおかつ僕らには謡の中身までわからないわけじゃない.そういう意味では鍛練された身体っていうのだけは伝わってくるけれども,おもしろみがね…….

桜井――そうだね.あれは考えてみれば,いちいち「ここにドアがあります.ノブを回して,開けます.」とか実況中継してるようなもんだよね.

中村――うん.だったらマイムのほうがおもしろいやって気になっちゃうわけよ.

いとう――それは現代のダンスのジレンマなんじゃないだろうか.

中村――しゃべるように動けるっていうのが,やっぱりダンスなんだなと思うんですね.ダンスはアドリブがきくわけだから.お笑いはそういう意味ではだめですからね,不自由さがある.

いとう――落とさなきゃいけないっていう制約があるからね.ダンスは自分だけの言語をしゃべれる.ただ,それが一人よがりであることが多い.

space 中村――マイムのおもしろいところは,要するに基本があって,動き方があって,訓練もあって,きれいな身体もあるんだけど,そんなものを全部吹っ飛ばしてもできるんですよ.出たお腹で,短い足で,あんまり動かない手で,笑いはとれるんですよね.それでなおかつマイムっていうのは,たとえば1回転まわったら場所が変わるんだよ,とか時間が変わるんだよっていう,ある程度の決まり事を知っていればいい.

桜井――能・狂言にも近いものがあるよね.決まりで進んでいくことの自由さ.

いとう――能・狂言とマイムというのも相同性ありそうだけど,フォーサイスも似てない?

押切――ああ.棒みたいなものにからみつく動きとかね,糸をたぐったりとか.

桜井――うん.全部想定でね.線とか,面とか.具体的なものじゃないんだけども,ひとつ線を空間に想定して,その線に沿ってよじれていく,線が螺旋になっていく.パントマイムにちょっと近いかもしれないですね.ただ,全部それは抽象ですけれども.

いとう――抽象って,たんに何かを隠すことって言ちゃいけないのかな?

中村――ああ,武道でもね,隠すことの戦いを見てみたいんですよ.いま,全部技を出していく一方じゃないですか.出さないで隠していく,隠していきながら戦う,っていうのを見たいなあ.

いとう――オリンピックの柔道,ちっともおもしろくなかったもんね.

押切――ちょっと停滞するとバッてレフェリーが出てくるんだもの.

中村――そう,「優勢勝ち」とか,なんだよそれ,って.攻撃の手が多いほうが勝ちなんていったらバカみたいじゃない,そんなの.

いとう――相撲なら,あの水入りのときに,相手の筋肉とのコミュニケーションがあるのに.だから,あんなものが柔道なら滅びてもいい,と思った.

押切――勝てなくてもいい.

いとう――どうやら,スポーツにもダンスにも,微妙な「隠れ」っていうことが重要な気がするなあ.象徴主義にならない「隠れ」が,真の抽象的な力になるわけだから.

(いとう せいこう・作家/おしきり しんいち・ライター/さくらい けいすけ・ミュージシャン/なかむら ゆうじ・マイマー)

[ホームページ・リンク]

いとうせいこうホームページ
http://www.sdw.com

桜井圭介ホームページ
http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/index.html





go top