InterCommunication No.16 1996

InterCity MITO


トリップと覚醒
水戸芸術館のジェームズ・タレルと田中隆博


戸芸術館で開催されたジェームズ・タレル展はたいへん興味深いものだった――とくに同時に開催された田中隆博展との対照において.
「未知の光へ」という副題が示すように,タレルの作品においては光がすべてだ.1943年生まれのアーティストは,66年の《プロジェクション・ピース》以来,光そのものを素材とする作品を発表してきた.光といっても,見る者を未知の世界(アナザー・ワールド)へと誘うような光――と言うといかにも深遠に響くが,有体(ありてい)に言えば,60年代のヒッピーが砂漠に寝ころんで見た黄昏の光やトリップの中で見たサイケデリックな光である.アーティストはいまやそれを高度の技術を駆使して美術館の空間の中で再現してみせるのだ.
かでも,正面の開口部の微光が長時間かけて微妙に変化してゆく《アトラン》(95)は,観客を永遠の黄昏の中に包み込むかのようで,この展覧会の白眉と言ってもよい.もっとも,光の広がりと深みという点では,76年に始まったこの《スペース・ディヴィジョン・コンストラクション》シリーズの他のいくつかの作例――たとえば94年のリスボンでの「The Day After Tomorrow」展で見た作品のほうが効果的だったし(ただし光の変化はない),それとてもポルトガルの西の果ての海岸で現実に見る永遠の黄昏には敵うべくもないことは,本誌11号で述べた通りだ.むしろ,この《アトラン》にせよ,赤と青の光が部屋全体を満たす《ゾーナ・ローザ》(95)にせよ,タレルの作品はクラブで踊り疲れた後にチル・アウトするラウンジにこそふさわしいと言えば,皮肉に過ぎるだろうか.
の展覧会では,他にも,90年代に入って作られるようになった《パーセプション・セル》シリーズから,ひとりで小さな無響室に入って闇と静寂を体験する《ソフト・セル》(92)(ただし匂いまでは遮断できていないのが問題だ)と,これまたひとりで横たわったままタンクに入って光の洪水に包まれる《ガスワークス》(93)(ここでアシスタントたちがパラメディカルめいた白衣を着ているのはあまりに安っぽい演出ではないか――オウム真理教の修行着よりはましとはいえ)が出品されていて,いつも予約でいっぱいという人気を博していた.また,アリゾナ州の死火山ローデン・クレーターの内部に太陽や月の光を感知する11の部屋を作るという壮大なコスモロジーに基づく計画も紹介されていたが,そのマッシヴで粗削りな模型が入口を入ってすぐのところに据えられていたため,マッスのない光が主役であるはずのタレルの展覧会としては流れが阻害されていた感もある.とはいえ,総じて見れば,この展覧会は,タレルが30年近くにわたって追求してきた光の諸相を,十分多くの面にわたって示すことに成功していたと言えるだろう.
のジェームズ・タレル展が漠としたトリップ感に満たされていたとすると,それと好対照を成すシャープな覚醒感に貫かれていたのが,同時に開催された田中隆博展である.若手のアーティストを紹介する「クリテリオム」シリーズの18回目に選ばれた62年生まれのアーティストは,与えられた小さな部屋を,一分の隙もない文字通りミニマルな空間に変えてみせた.白い部屋いっぱいに使用済みの蛍光灯を7000本以上垂直に並べてできた直方体の上に,白い光とキーンという高周波が降り注ぐ(音響は池田亮司による).他に無駄なものは何ひとつ無い.私が時に覗いた範囲でも大半がガラクタと言ってよい「クリテリオム」シリーズの中で,これは群を抜いた名作ではないだろうか.それどころか,日本でかつてこれほど純正なミニマル・アートを見たことがあっただろうか.たとえば,「もの派」と言われるような作品はあった.だが,そこでは,ほとんどの場合,「もの」はウェットな主観的情緒にまみれたフェティッシュになってしまっていたのだ.蛍光灯の2本ずつの端末に支えられて重さがないかのように立つ,それでも十分に堅固な田中隆博のオブジェに,そのような情緒の入り込む隙はない(使用済みの蛍光灯が使われているのは,おそらく新品だと安っぽいSF映画めいた仕上がりになってしまうからで,それ以上の理由はない).そこには,安易な感情移入をはじき返す白と銀のニュートラルな表面が,ただそれだけがある.そして,その徹底性によって,このささやかな展示は,タレルの大がかりな展示を超える強度を帯びるのである.実際,光のトリップ感覚と戯れるタレルの作品が,本当は60年代のリヴァイヴァルに沸くクラブ・シーンにこそふさわしいのだとすれば,そういう安易な夢を徹底的に排した田中隆博の作品は,ミニマル・アートの最良の部分の延長上で,まぎれもなくアート・シーンの中心に位置すべきものではなかったか.もちろん,その程度の常識も持ち合わせない日本の擬似アート・シーンにあっては,この素晴らしい作品はほとんど無視され,すでに産業廃棄物として処分されたと聞く.だが,悲しむことはない.80年代の悪しき影響からいまだに抜けきれず,仲間内のパロディめいた悪ふざけに終始している擬似アート・シーンにあって,私たちは妥協を知らずひとり我が道を行く本物のアーティストをひとり発見したのだから.


(あさだ あきら・社会思想史)

[「ジェームズ・タレル――未知の光へ」展は
1995年11月3日−1996年1月28日,
「クリテリオム18 田中隆博」展は1995年11月3日−12月10日,
水戸芸術館現代美術センターにて開催された]


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