InterCommunication No.16 1996

InterCity LYON


テクノ・アートの総決算
第3回リヨン現代美術ビエンナーレ


3週間以上にわたってフランスを麻痺させたストライキが一応終わり,しかし交通はまだまだ混乱状態の昨年12月19日,第3回リヨン現代美術ビエンナーレが開幕した.「町おこし」を目指すリヨンが,ジャン・ヌーヴェルによるオペラ座に次いで建てた,レンゾ・ピアノによる現代美術館と新しい会議場――ではなく新しい会議場が出来たので取り壊される予定の古い会議場を舞台に,映画・ヴィデオ・コンピュータなどを駆使する64組ものアーティストが世界から集められたのである.百年前にリュミエール兄弟が映画を発明したまさにその町で,次の世紀を開く新しい電子映像芸術の流れを展望しようというわけだ.もっとも,それ以上に独自のコンセプトがあるわけではなく,特に最新の作品が集められたわけでもない.だが,むしろニュートラルな立場から歴史的なサーヴェイを行なうことにより,このビエンナーレはテクノ・アートの現在までの流れを冷静に見直す恰好の機会を与えてくれたと言えるだろう.また,その点からも特筆に値するのは,ジャン=ルイ・ボワシエの手になるCD-ROMカタログである.そこでは,それぞれのアーティストのインタヴュー,そして出品作や他の作品についての情報が,緻密にして洗練されたディレクションによって見事にまとめられているのである.
て,それではビエンナーレの具体的な内容はどうだったかということなのだが,ヴォルフ・フォステルナムジュン・パイクのTVモニターを使った最初の実験(ともに1963年)のリメイクに始まる歴史的サーヴェイの全体について述べる余裕はないので,特に目を惹いたいくつかのポイントを列挙するにとどめたい.
ず,古い作品で逆にあらためて新鮮な印象を与えてくれたのは,メカニカルな仕掛けを最大限に駆使した作品,たとえば,魚眼レンズやミラー・ボールなどを巧みに組み合わせて「全視(allvision)」に挑戦したスタイナ&ウッディ・ヴァズルカの《マシーン・ヴィジョン》(76)や,自動的にあらゆる角度に動いてゆくアームにカメラを取り付けたマイケル・スノーの《De la》(71−72)――実験映画の名作《中部地帯》(70−71)を撮影するためにも使われた――などである.いわば眼を脱身体化することで人間の視覚の限界を超えようという,こうした初期の試みに託された欲望を,われわれはあらためて思い返すべきではないだろうか.
堅とも言うべきアーティストたちの中では,ビル・ヴィオラが,水滴の落ちるところを接写してみせる《He weeps for you》(76)の完璧なリメイクを出展する一方,ゲイリー・ヒルは,日常空間の中を4台のカメラが連動して動き回る無題の新作を発表し,作品としての完成度には疑問を残すものの,いつも通り一分の隙もないインスタレーションを求める期待(本誌14号でも指摘したような)をあえて裏切って,むしろパフォーマンス的な自由度を取り入れようとする姿勢が注目された.
いアーティストたちについてはどうか.特にフランスのアーティストなどを見ていると,コンセプトばかりが先走って作品がついていかないケースが目立つ.それに比べて好感が持てた例として,アーティスティックな気取りなど一切なしに,ざっくばらんな表現をみせてくれたアメリカのアーティストをあげておきたい.ポール・ギャリンの《ホワイト・デヴィル》(93)は,57年生まれでありながら今もニューヨークの悪ガキ然としたこの作家らしい,悪意に満ちたインスタレーションである.鉄柵の向こうで炎上する都市のいかにもチープな書き割りを背景に,床に上向きに並んだモニターからモニターへと白い犬が走り回っている.その動きはインタラクティヴなプログラム(デイヴィッド・ロクビーによる)によって制御されており,観客が大きく動けば動くほど,犬も凶暴に吠えついてくるというわけだ.光州ビエンナーレで発表された《ボーダー・パトロール》(95)もその延長上に位置づけることができる.また,電子情報社会のゲリラを自認するこのアーティストが,政府の情報操作の裏をかく逆情報をインターネットで流していることも付け加えておこう.ギャリンは,ビエンナーレの開会式で,リヨン市長を務めるレイモン・バール元首相ら,フランスの要人たちがスピーチをしているとき,核実験反対の垂れ幕を垂らしてみせた(私は現場を見逃したのだが,絶妙なタイミングだったらしい).「フランス語の綴りがちょっと間違ってたらしいけど,そんなのどうだっていいじゃないか.警官が5人もオレにとびかかってきたってことは,ちゃんと通じてたってことだろ?」 その夜のパーティでギャリンが得意満面だったことは言うまでもない.他方,同じ57年生まれのジョン・ケスラーは,デザインといいカラーといい,いかにも60年代風の2台のコンピュータが,フェリーニの『甘い生活』からサンプリングされた科白に合わせて男女の愁嘆場を演じてみせるという《マルチェロ9000》(94)で,ストレートな社会批判とは対極的な人を食ったユーモアを見せていたことを付け加えておこう.
かし,何よりも注目に値するのは,日本のアーティストたちである.これまたアーティスティックな気取りを捨て,ゲーム感覚に徹してみせた点で,岩井俊雄がカールスルーエのZKMで制作した《映像装置としてのピアノ》(95)は,ここでも圧倒的な人気を博していた.一定の速度で進む格子状のグラフに,観客がトラックボールで点を打っていくと,それがMIDIピアノの鍵盤にぶつかったところで対応する音が鳴り,同時にその点は協和音の場合は星のような形を作って上方へと舞い上がってゆく(この図形の形と色がややチープなのが唯一の欠点だろう).これによって,素人でも,ナンカロウからリゲティにいたる複雑な前衛ピアノ音楽をやすやすと乗り超えられると言えば,いささか言い過ぎだろうか.他方,アーティスティックな質という点では,古橋悌二の《LOVERS》(94)がビエンナーレ全体の中でも突出した洗練度を示していた.夏にニューヨーク近代美術館で開かれた「ヴィデオ・スペーシズ」展でもこの作品がもっとも注目を集めたことは本誌14号で述べたとおりだが,ここでも,壁の上を滑るように動く,アーティスト自身を含めた男女の裸像は,知らぬ間に観客をも愛と死をめぐる密やかな無言劇に巻き込んでいき,静かな,しかし深い感動を与えたのである.去る10月の末,AIDSに関連する敗血症のために35歳の生涯を終えたアーティストの,あまりに美しい「遺言」と言うべきだろう.言うまでもなく,このような私の評価に「愛国心」によるバイアスはない.それは,オープニングに集まった多くの人々のほとんどに共通する判断と言っていいのだ.こうして広い土俵の上で評価を確かめていく上でも,今回のビエンナーレは有益な機会だったと言えるだろう.
なみに,ビエンナーレを離れて言えば,会場から遠からぬヴィリュルバンヌの新美術館では,「芸術家/建築家」というタイトルで,66年にポール・ヴィリリオがクロード・パランと作ったトーチカ風の教会のモデルをはじめ,エリザベス・ディラー&リカルド・スコフィディオの最近の作品にいたるまで,76組の芸術家/建築家を集めた興味深い展覧会が開かれていた.また,私はストライキの影響でパリから飛行機でリヨンに入ったのだが,パリでの展覧会についても一言触れておこう.パリから,今年はロンドン,フィラデルフィアと巡回する予定のセザンヌ展は――ワシントンから,今年はデン・ハーグに巡回する予定のフェルメール展と並んで――まさしく世紀の展覧会と言うにふさわしい.他方,ポンピドゥー・センターで開かれた「女性−男性」展は,アメリカで流行しているジェンダー理論をも意識しつつ,芸術における性の問題を広汎に提示しようとするものだが,コンセプトが大雑把すぎて性にかかわる作品なら何でも入ってしまう結果になり(にもかかわらず,ルイーズ・ブルジョワはいやというほどあるのに草間彌生がないといった致命的なバイアスも目につく),そのくせサブコンセプトに従って会場を構成しようとするため同じ作家の作品があちこちに散らばることにもなって,興味深い作品をいろいろと含みながらも,総じて雑然とした印象しか残さなかった.
らに付け加えれば,ビエンナーレのオープニングの翌日,午後おそくになって突然,せっかくリヨンまで来たのだからニヨンまで行ってみようという語呂合わせめいた思いつきにかられ,衝動的に車を走らせてレマン湖畔の町で一泊した後,翌朝,近くのロールの町で,ゴダールが『JLG JLG』(93−94)で歩いていたあの浜辺に佇んで,対岸のフランス領(“Kingdom of France!”)を眺めてみたりもした,それはやはり,12月のパリで「12月の自画像」という副題を持つあの『新ドイツ零年』(91)の驚嘆すべき続編と思いがけず再会したからだろうか.そう,電子映像の可能性が多彩な形で探究されている傍らにあって,リヨンでリュミエールが発明した映画という芸術は,ひとりロールの町に籠もるゴダールによって辛うじて第2世紀へと引き継がれようとしているのだ.そんなことを考えながらリヨンに戻り,ふと「レンピッカ」というレストランに入ったところ,私の横にかかっていたのは,このアール・デコの女流画家の描いた《緑衣の女》――『新ドイツ零年』に出てくるあのポートレートだった.それをもはや偶然とは言うまいと思う.


(あさだ あきら・社会思想史)

[「第3回リヨン現代美術ビエンナーレ」は
1995年12月20日−1996年2月18日
リヨンの現代美術館および会議場にて開催された]


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