InterCommunication No.16 1996

Feature


エイジアン・エンターテインメントと文化資源

武邑――日本のアイデンティティの問題,世界の中で日本の置かれた状況を考えると,アジアの中の日本というテーマをわれわれ個々人がどう捉えるかということになってきます.アジア型エンターテインメントやエイジアン・ハリウッドは可能かといったテーマです.例えばディズニーは,特に東ヨーロッパの神話や民間伝承や童話を採集して,それをワールド・コンテンツに仕上げて,ある種の世界型のエンターテインメント基盤を作り上げたわけですが,実はアジアの中にも,膨大に眠っている物語世界はあるわけです.この間台湾で,タクラマカン砂漠にある神話をモチーフにしたゲームが出たんですね.言葉は全然わからないんですけれども,見ていて,これは英語か日本語化してくれれば,すごくおもしろいんじゃないかなと思いました.ハリウッドの物語資源は,西欧社会の中ですでに枯渇している感じですから,これから多分アジアの物語やアジアのエンターテインメントの資源価値は相当大きくなっていくでしょう.

月尾――最近,ハリウッドが黒澤明監督の映画作品のリメイクの権利を次々買収しているそうです.それは結局,西洋を基盤としたストーリーの中では,ほとんど種が枯渇してきたということです.アメリカのテレビ番組の視聴率の一番が『パワーレンジャー』で,二番が『セーラームーン』だと言われていますが,これも結局アメリカのアニメーションの種が枯渇していて,日本を中心としたアジアからストーリーを持ってきているわけです.同様に,アジアの伝承など,ヨーロッパ社会にとってみれば未知なるものが求められていて,そのような状況を早く自らが気がつくということがたいへん大事だと思います.

大原――私たちは日本のストーリーだけじゃなくて,中国からの影響を随分受けています.ハイビジョンのアニメーションでも伊藤博文さんが作った『孫悟空』,あれは中国の大ストーリーで,エイジアン・ストーリーの原点はアニメーションなんですよ.また,むかし東映が作った『白蛇伝』は,非常にきめ細かいアニメーションで世界的にも評価されましたが,やはり中国の物語からきている.あるいは日本に残っている龍伝説も,植物に必ず置き換えられていますね.『龍の子太郎』もそうですけれど,あれはお母さんの龍が出てきて,犀という,黒ユリの古固名をそのまま使った,金沢なんかにある犀川の語源になっているわけですが,そういう植物に模したストーリーがどこかにオーヴァーラップしている.アジアのストーリーの原点とは,どうやらいろいろなものを全部共存させて,シンボライズして,エモーショナルなものも含めて喚起させる,そういう内容のものが非常に多いんじゃないか.まだ全部調べきっていないんですが,そういうことが世界的に評価されていくんじゃないかという気がします.

月尾――中心というのは,辺境からいつもエントロピーを吸収して成長しているわけです.一方,中心となり得るのは普遍的な記録・伝達の方法を持ったところです.代表的な例は音楽で,現在,西洋音楽が世界の主流になっているわけですが,そのコンテントの多くはエスニックなんです.例えばキリスト教音楽は,当時のヨーロッパでは辺境にあった地域の宗教の音楽です.なぜエスニックなものをキリスト教が吸収して世界的な中心になり得たかというと,楽譜を発明したからです.ある時刻にある場所で歌われる音楽と,離れた場所で歌われる音楽を同じようにできるのが楽譜の力です.それよりはるかに昔からあったインド音楽がいまだに辺境のままであるのは,楽譜がなくて人から人への口伝でしか伝えられなかったからです.それを現在に当てはめてみると,確かにコンテントはアメリカやヨーロッパから見れば辺境地域にたくさん存在していますが,それを世界へ流布するためには,ある種の普遍性を持った情報の記録・伝達手段を持つことが重要になってくる.わかりやすく言えば,マルチメディアと言われるような新しい技術体系を普遍的な伝達手段として利用していくというあたりが,アジアの持つコンテントが世界にどの程度利用され,貢献していくかということの重要なポイントになってきます.ところが残念ながら,新しいメディア・テクノロジーの主流は,アメリカのデファクト・スタンダードばかりです.極端な例が英語です.コミュニケーションはすべて英語で行なわれている.技術的なデファクト・スタンダードも,すべてアメリカのものです.このような状況をどう変えていくかが,エンターテインメント・テクノロジーもしくはエンターテインメントの将来を考える時に,重要な論点になると思います.

武邑――言い換えれば,日本あるいはアジアのエンターテインメント資源を,スタンダードなメディアのフォーメーションに組み立てることができるかという問題だと思います.ある種日本型のエンターテイメントというものがわれわれの文化的な特質の中に今でも息づいているとすると,これをワールド・コンテクストに転換する取り組みをすべきだということは相当昔から言われていますね.

月尾――武邑さんが提示された問題は,非常に微妙なバランスの上にのる問題だと思います.まずプラス面で言えば,昨今,日本が直面しているような文化摩擦の解消にとって,たいへん重要なことです.つまり,顔の見えない日本とか,何を考えているかわからない日本人という状況が解消できる可能性がある.ところが一方,日本の文化摩擦解消になるようなコンテントが出ていって,それが迅速に大量に世界に流布するためには,そのままの姿ではやはり伝わらない.そうすると,当然そこで失われるものは多い.歴史的な例を挙げると,ギリシアの音楽は西洋音楽の源だと言われている.これは1オクターブが32に分かれていて,ものすごく難しい音律でした.それを西洋音楽は12音に単純化した.そうすると当然失われたものはいっぱいある.さらにその12音も,調ごとに全部微妙に違う純正律だったものを平均律に変えたために,調を移すことができるようになったわけです.そこでも失われたものはたくさんあった.インドの音楽は1オクターブが50ぐらいに細分されているので,非常に微妙な音階を持っているけれども,これもラビ・シャンカールなどが西洋世界に伝える時には,音階を単純化している.当然それは伝統派からは批判されるようなことです.おそらく日本も,そういうことをやっていこうとすれば,伝統を守っている人からはけしからんということになります.本来持っていた情報量を圧縮していくわけですから失うものがある.M-PEG2にしても,その中で微妙な情報が失われるのです.しかし,それは限られたチャンネルの中で伝えるのには有効である.そういうバランスをどの辺に設定するかが,伝達しようとしている人が判断すべき大切なことだと思います.理解の規模をどの程度に設定し,それによって失われるものをどの程度に評価するかという,そのバランスの見極めが今要求されている.しかし,世界全体は完全に開放された社会になっていくという前提で言えば,記述可能な方法で,なおかつ単純化した文化というものを作り出して伝えるということは,やった方がいいだろうというのが僕の考えです.

武邑――例えば円谷プロがオーストラリアをフィルターにしてウルトラマンを作りましたね.あれをアメリカで見た時に,失われたものは日本の風景だけなんですね.そうすると,今の日本でエンターテインメント・コンテントを即座にワールド・コンテント化していく道筋というのは,日本の伝統的,文化的な特質の聖域と,それを広げていくというバランスが,すごく重要だと僕も思います.もう一つは佗茶のように,日本人でなければとても理解できないだろうと言われていたようなものも,実はすでに多くの部分が流出している.日本語処理ですら,アメリカのUNIX環境の方が圧倒的に進んでいて,漢字の構造解析の分野でも日本は遅れてしまっている.つまり,われわれが聖域だと思っていたところが,実はすでにある部分失われてしまっているということもあると思うんです.これからの世界の変化の中でエンターテインメントの問題を考える時に,単純な娯楽産業やテレビゲームやSFXや,そういう部分的なエンターテインメントというレイヤーだけを捉えがちなんですが,実は本質的なエンターテインメント社会のありようをグランド・デザインしなければならない時代にきているのではないでしょうか.

大原――そうですね.伝えるための集約化がこれからどんどん起こってくるだろうし,日本の文化・伝統は日本人だけしか理解できないという唯我独尊では,相手には全然伝わらない.先ほど武邑さんが言われたように,「落語という文化があったじゃないか」と言われた時に,ドキッとする.そういう自分たちの内側にあったものを改めて解析するんですね.それから日本語のワープロ文字にしても,ある種のパターンでしか文字を見ていない.本来日本語は,キャラクターとしての美しさも持っていた.そういうものを私たちが改めて見直して,解析して,作り直すという創造的破壊がこれから絶対に起きてくるし,起きなければいけないんです.そうすると,そういう人材を輩出するための社会環境作りもそうなんですが,教育の環境も変えていかなければならないでしょうね.その努力はずっと続けていきながら,もう一つ,これははっきりと日本型のエンターテインメントだと言いきれる象徴的なものがゲームなのか何なのか,ということはもう忘れてもいいんじゃないでしょうか.わからないんですよ.それこそ未知のものから出てくるという状況が今あって,それを楽しみながら見ていく時に,あっ,こういう人間が存在したんだな,という存在証明を私たちが発見していくというか,そういう次から次へ新しい標準化が起きてくることを発見する作業が,例えばSFの中に随分表現されてきたんですね.SF作家の概念は大体,理論をちゃんと学んでいながら,どこかどーんと翔んでいますから,その翔んでいるプロセスをちゃんと解析する人も出てくるし,あとからなるほどと思うものも出てくる.アシモフの『われはロボット』の中に「うそつき」という逸話があるんです.絶えず人間に奉仕しなければいけないという「ロボット三原則」を守るために,ある人には「彼はあなたのこと好きだって言ってるよ」と,ある人には「やっぱり一番愛しているのはあなただよ」と言っているうちに,女性が勘違いをして,ロボットに向かって「うそつき」と最後に言うあたりは,パラドックスというか,なんとも言えない情感を覚えますが,あの本もロボット工学の三原則を早くに打ち立てて,その中で人間がロボットとどう対峙していくのか,つまり最先端の技術といかに対峙していくのかということが,すべて入っている.そういうSF作家の感性を一つひとつクリアしなければいけない状況が出てきたのかなと思います.

月尾――少し乱暴に言うと,滅亡するよりは変形しても存続した方がいい(笑).例えばアイヌのユーカラは,声から声へ伝わるわけです.人間から人間に伝わっていく.もしそれが本来の姿だということに固執すれば,記憶している人もいなくなって,完全に地球上に存在しなくなったわけですが,金田一先生がたいへんな努力をされて文字に記録したから,残っている.それは本来ではないけれども,残っている方がまだいいということです.もう一つは,他人が変えるよりは,自分で変えた方がいい(笑).漢字の研究でも,アメリカ人なりヨーロッパ人が研究していくよりは,日本人が研究して,率先して変えた方がいいのではないかということです.最後に,変化させることも創造だと思えば,大原さんが創造的破壊だと言われたけれども,変えることも一つの創造であって,それもいいのではないかと考えないと,なかなか前向きに進んでいかないと思います.


[1995年12月26日,東京にて]


(おおはら しんいち・メディア プロデューサー/
つきお よしお・システム工学/
たけむら みつひろ・メディア美学)

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