InterCommunication No.15 1996

Feature


新しいメディア・デザインの場

伊藤――初めに少し話しておきたいのは,パリのエコール・ド・ボザールに今年から「マルチメディア/ハイパーメディア」を専攻する修士課程が新設されたということです.ボザールという保守的で,アカデミーの代名詞のようなイメージがあった美術学校がマルチメディア学科を作った.多分そういうことはボザールだけではなくて,例えばルーヴル美術館が「ミュゼ = ミュゼ」という新しいミュージオロジーのための連続会議を続けていたり,イギリスの映画監督のピーター・グリーナウェイをゲスト・キュレーターにして,人間の飛ぶことへの憧れを再構成した「飛翔」という展覧会がひらかれたり,フランスの哲学者のジャック・デリダが「盲者の記憶」という展覧会をルーヴルのコレクションから構成し,ヴィジョンと盲目と自己表現ということを探求したりといった動向ともつながってくることなんですが,ともあれフランスではそういう古いところから地殻変動が起こっている.
 そのマルチメディア学科は,コンピュータをヴィジュアルに利用するマルチメディア・ソフトなどのクリエイターやディレクターの養成がその主な設立目的となっています.国家機関がマルチメディアのクリエイターを養成していくようなことは,フランスでは初めてだといわれていますが,この科をバックアップしているのは国立美術館連合(R.M.N.)で,実はここは去年の秋の「ニコラ・プッサン」展の時に,初めてCD-ROM版のカタログを発表しました.このCD-ROMは,オルセー美術館の「ナダール」展のCD-ROMカタログのようにただイメージを並べるだけではなくて,出品作から40点くらいを選んで,図像学的な解釈や科学的な分析を行なっています.先ほどマルチメディア・テクノロジーのアウラという話が出ましたけれども,マルチメディアでなければ表わせないようなやり方で作品を関係づけていったり,新しい角度からアートを見直そうとしている.これは多分マルローが言った「想像の美術館」とも重なっていくと思うんです.
 だからそうしたCD-ROMの制作に関して,単なるインターフェイス・デザイナーだけでは駄目で,アートやメディアについて深く幅広い知識と,映像表現力が同時に要求されてくる.そういう人材をボザール自身が育成し,美術館の運営や情報活動の核にしようとしている.
このあいだパリに行った時にびっくりしたのは,こうしたアートのCD-ROMタイトルが次々と出ているということです.「印象派の源/1859-1869」「ドラクロア/モロッコの旅」「ルーヴル/絵画と宮殿」などなど,今後もR.M.N.主催の大企画展ではカタログのマルチメディア科が次々と計画されている.そうした動向を,美術館の新しいフィールドと捉えて,斬新な映像表現やメディア・デザイン,AV編集を開拓していく人材が,このボザールのマルチメディア科に期待されているわけです.こうした流れは当然日本でも起こっていて,ボザールのマルチメディア化のような人材がこれから強く必要とされてくると思います.
 現在,日本ではTVゲームが突出したあらわれかたをしていて,奇形化している.そうしたゲーム文化に対する意味でも,例えば美術史を学んだ人でなければできないような発想やテーマで,CD-ROMのタイトルを作るということが大事になってくる.またインターフェイスのデザインに関しても,そこには一種の直感的,美学的なアプローチが不可欠で,そうした感覚や美の訓練が必要になってくる.つまりハードの技術的段階がどうなってゆくかは,ある程度予測できるんですけれど,そのことによってどう感じるようになるかとか,どう見ることが変わってゆくのかということがわからない.アートは,一種の未来予知力も内包していますから,そうした意味での新しい役割ももたされているように思います.そうすると美術館大学のような場の必要性が出てくる.美術館大学の中で,新しいメディアと旧来の方法論を融合させてどういう表現領域や研究領域を作っていくかということが非常に重要な課題にになってくる.

高階――そうでしょうね.つまり電子メディアを,映画も含めてだけれども,単にデータバンクではなくて,クリエイティヴなものとして扱う人材です.日本でそういうことをやっている人はどのように養成されているんだろう.現在もいないわけではないでしょう?

伊藤――まだいませんし,そういう人材の育成システム自体が片寄っている.日本のCD-ROMがつまらないのもその辺に理由が…….

彦坂――専門学校などでの教育では,まず技術に長けているというのが要求されている.とにかく機械を使えないとお話にならないというレヴェルがありますから,どうしてもコンテンツ不在になりがちになる.では,そういう人たちと美術が本当にわかっているキュレーターが組む機会があるかというと,なかなかないというのが実情だと思います.

高階――CD-ROMはデータバンクとは別で,例えばドラクロワやプッサンの展覧会の出品作品を,ある切り口で,イコノロジー的な解釈などをしている.それはCD-ROMでなければできないことで,CD-ROMを見る方も本を読むのとは違った読み方になるわけですよね.

浅田――ノンリニアに行ったり来たり迷宮の中を動くような読み方ができますからね.

高階――だから違う読み方ができるけれども,それは古いアナロジーで考えれば,かつてはプッサンのイコノロジー研究をテーマに本があり,その後新しいメディアが出てきたから新しい本,新しい考え方が出てくることは当然あり得るわけです.それは新しいメディアを使える人でないとできない.だから美術史研究なり,それからその解釈に関しても,新しい方法を使った研究者や批評家,歴史家が出てきてしかるべきだと思います.
 写真が登場した時に,美術史ががらっと変わりました.それまでは作家がデッサンをよく使い,ラスキンなどは自分で描いたものを載せました.写真が出てきてがらっと変わって,実証研究がずいぶん進んだ.しかも写真の使い方も,これはよく引かれる例だけれども,矢代幸雄さんの『Sandro Botticelli and Florentine Renaissance』(1925)の中のボッティチェルリの写真が「部分」を使い始めた最初です.これはたいへんショッキングだった.つまり,従来はヨーロッパの本で写真と言えば,要するに全図をたくさん載せていた.矢代さんは,思い切って「部分」を使ったわけです.矢代さんのボッティチェルリの本の非常に大きなインパクトは,クラークがはっきり言っています.矢代さんはこの本のなかでボッティチェルリの《春》の一部分だけをパッと出して,そうするとこの表現法は光琳と同じじゃないかとかいうことを言っている.この研究書が出たのは1920年代で,明らかに写真というメディアの出現によって,矢代さんのような新しい見方が出てきたわけです.さらに皮肉に言えば,写真が登場してきたために美術史が非常に進んだけれども,最初に進んだ面は構図とか主題に関してであり,色彩については非常に弱い.それははっきりあります.構図分析がやたらに流行った時代があり,線を引っ張って,これが黄金比だと言うわけです.写真を使えばそれがやりやすくなる.その代わり色彩論が非常に弱くなっている.それはカラーが出てきてまた変わり,CD-ROM化されれば,もちろん新しい見方が出てくる.例えばマルローが言った「想像の美術館」ですね.そこでは比較が容易にでき,実証できるということで,新しい見方が出てくる.と同時に抜けおちる部分も出てくるわけですが,ともかくそれは大いに期待できると思います.

浅田――実際,映画批評の領域でもヴィデオが普及したことで,繰り返し細かく見ることが可能になり,ある場面で出てきた白いハンカチとほかの場面の白いシーツが対応しているとか,テマティックな分析が進んだ――そればかり進み過ぎるのもどうかと思いますけれども.また逆に,ゴダールのような人は,ヴィデオを通じて映画を考え直すことで「映画史」をつくり,独自の映画史の読み換えをやってみせている.そういうことが新しいメディアに促されて出てくると思うんです.美術も,写真の登場を経て,現在新しくマルチメディアが登場するという段階で,もう一度そういう読み換えが可能な時期にきているのではないか.先ほど伊藤さんがおっしゃったように,ルーヴルをはじめとするフランスの美術界が一方でCD-ROMなどを作る方向に動くと同時に,他方で現存の作品をデリダやグリーナウェイやスタロバンスキーやダミッシュらに読み換えさせて展覧会を構成しているということは,有機的に連関していると思うんです.そういう試みは,われわれにとってもたいへん示唆的だと思いますね.

高階――そうですね.そこで美術館の役割は何かということになると,モノ(美術作品)を集める所である.ただ近ごろ,美術館に収まらない作品がやたらに出てきているでしょう.コンセプチュアル,インスタレーションということで.

浅田――あるいはサイト・スペシフィックとか言って.

高階――その場合には記録の問題が出てくる.作品を何で残すかというと,記録で残す.では記録はどういう形になるか,記録が作品か,とかいう問題が当然出てきます.
 とにかくこれからの美術館というのは,当然今までの美術館とは違った形になってくると思うんですけれど,しかし一方で古い作品というのはもちろんあり,モノを収集することが依然必要です.モノを収集し展示すればいいというのが美術館だったけれども,展示するといっても,これにはいろいろ方法があって,西洋で時代別,流派別に展示されるようになったのは19世紀の美術館ができてからなんです.それ以前は,例えばコレクター別,コレクション別,あるいは大きさがこの部屋に合うというようにキャビネット・スタイル,アマトゥール式などいろいろな方法があった.それを一応,流派と時代の流れによって分類・整理して展示した.そうしたなかで,ルネッサンスから印象派までというのは当たり前みたいになっていますけれど,それが当たり前かというのは,やはりもう一度考え直す必要があります.
 おっしゃるように,ルーヴルがデリダなどに頼んでやっていることは,とにかくモノがありますから適当にやってくださいということ,これはエディトリアルの問題だと思うんです.エディットすること,つまりエディターに依頼することで,新しい見方が出てくるのではという試みですね.僕は美術館のひとつの役割はそれでいいと思うんです.そのためには,材料が全部揃っていなきゃいけない.デリダがやる時に,ルーヴルの作品にどういうものがあるかわからなければ,エディットできないわけですからね.デッサンの膨大なカタログを見ながらエディットしてもらうんですが,その時デッサンや作品のデータをどのようにして検索できるようにするのかという問題が出てくるんです.デリダがやっているようにテーマ別に検索できるようにするのか,ごく普通に作者別,時代別にするのか,それとは違ってテーマ別でやるのか,できるだけ多く検索ができればいいわけです.デリダは,モチーフ別ということをやっているんですが,そうするとこれは挙げるときりがない.人間がいるかいないか,動物も鹿か馬がいる,そういうふうに分け始めるときりがない.馬と言えば,パッと出てきますから非常に便利だけれども,入れ方が無限にあるわけです.誰かがやってくれるなら便利だけれども,どこまでやるかとかいう問題が,情報を普及させていく場合にありますね.美術史の場合だったら,人間だと男か女,老人か若者というような検索ができれば便利だけれども,それもきりがなくなるでしょう.
 それから,現在の検索システムだと,作者の判定でも問題が出てくると思うんです.つまり決められない部分があるわけです.はたして作者がボッティチェルリかわからない作品をどう検索するか.ボッティチェルリと決めてしまうわけにいかない.それからモチーフということでも,極端な場合は,馬と見たけれども実は馬ではなかったということはあるかもしれない.ですから,なるべく広い範囲に,最終的に個々の人が作品に接しながら判定できるような場所と情報提供をどのようにやっていくか,というのが問題だと思っています.


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