InterCommunication No.15 1996

Feature


美術館と「情報」

浅田――情報化が進む中で,美術館をはじめ,芸術に関わるいろいろな制度が大きく変わりつつあります.今回の座談会は,日本の美術館をリードする立場にいらっしゃる高階秀爾さんをお招きして,そのような変化についてのお話を伺えればという趣旨です.とくに,私と伊藤さん,彦坂さんの三人が,NTTが1997年に開設を予定している「インターコミュニケーション・センター(ICC)」という電子情報時代のミュージアムのプランニング・コミッティをやっていることでもあり,21世紀にふさわしい美術館や文化センターのあり方についていろいろご示唆をいただければと思います.
 総じて,日本の美術館には二重の課題があるように感じます.例えばパリでは,大まかに言って,18世紀までについてはルーヴル美術館,19世紀についてはオルセー美術館,20世紀については近代美術館を含む複合的な文化センターとしてのポンピドゥー・センターがあり,さらに,電子メディア時代を見こして,フレノワに新しいセンターをつくるといった試みが出てきていますね.ICCもそういう新しい世代の施設と考えているわけです.しかし,日本では,その前に,いわばルーヴルやオルセーにあたるものを整備せねばならず,そのうえでポンピドゥー・センターにあたるようなものを作らねばならない.それと同時に,21世紀型のプロジェクトも進めなければいけない.そういう大変難しい状況にあると思うんです.
 高階さんは,国立西洋美術館長として,ルーヴルと同様に美術館として一番ベーシックで重要な部分をきちっと再構築するというところからお仕事をなさる立場にあるわけですが,そのことも踏まえ,未来への展望まで含むようなお話をいただけたらと思います.

高階――浅田さんのお話をもとに考えると,美術館そのもののあり方と,それから情報の問題,つまり美術館同士の交流,あるいはネットワーク化の問題をどうやっていくかということだと思います.日本は美術館そのものが,制度として西洋から輸入したものです.数年前に東京国立博物館が開館120 周年を記念して展覧会をやりました.つまり日本でもっとも古い東博ですら120 年前です.ルーヴルは,つい2,3年前に200 年祭をやりましたから,ほぼ倍くらい古く,大英博物館はもっと古い歴史があります.日本は100 年ぐらい遅れて明治期に,西洋の制度などを一所懸命取り入れたことから美術館の歴史は始まったわけです.そして,今では全国に美術館はずいぶんたくさんできましたし,それぞれ特色あるものができていると思うんですが,やっぱり伝統の重みのようなものがまだ大きく不足していますね.
 それから情報化という面では,美術館と情報との関係があって,美術館というのはもともとがモノを扱う所で,モノに関する情報を蓄積して伝える所ですから,情報がモノに代わり得る部分と代わり得ない部分とがある.今の情報化の時代で大きな問題だと思うのは,情報ネットワークや機械が非常に発達して,そちらの方がたいへん先行しているということです.そして美術館でも,お役所関係は,機械や設備に関してはいろいろ考えてくれるけれども,中身に関してはなかなか予算が出にくいということがあるんです.
 どういうことかというと,例えばいろいろな情報を集積してデータバンクを作り,そのデータバンクから自由に情報を取り出せる.それはたいへんけっこうだけれども,データバンクの中にあるデータをどのようにして集めるかというのが,日本の美術館の非常に大きな問題だと思っているんです.というのは,作品一つひとつについていろいろなデータが必要で,そこまでは電子化,機械化できないんです.データの収集法は,要するにたいへんプリミティヴというか幼稚で,人間が手や足を動かして集める以外にない.美術館に限って話をすると,美術作品というのは非常に数多くあり,その作品一点一点についていろいろな情報があるわけです.作品の大きさ,材料という物理的な情報もあるし,いつどこででき,どう作品が移動したかという歴史的な情報もある.それはほとんど戸籍に匹敵すると思っているんです.つまり一人ひとりの人間がどこで生まれて,どこに移っていったかという情報のように,美術作品も履歴が必要な情報になってくるわけです.戸籍が必要だということは,例えばピカソは,数え方にもよるけれども,生涯に作品を6,7万点作っているわけです.ピカソは特に多いかもしれないけれども,デッサンまで含めれば作品数が1万点以上の作家というのは相当の数になる.一つひとつがばらばらに戸籍の情報になっているわけで,そうすると,例えばピカソ一人に関して,人口6,7万の都市の戸籍係と同じぐらいの情報が要るわけです.それを集めなくてはいけない.それに,ひとつの美術館にはピカソの作品だけがあるわけではないので,何十万何百万という情報を集めなければならない.つまり巨大都市の戸籍係や区役所の戸籍係のようなものが必要です.
 さらに,作品はひとつずつ売買の対象になり,そのために投機の対象にもなったりする.所有者が代わることによって,所有権や著作権の問題がどうなるのか,それを全部押さえていかなくてはいけないので,これは土地台帳に似ている.土地の登記所みたいなもので,そこにずっと資料が保存されている.だから本来美術館は戸籍と土地登記の台帳を合わせたような情報を集めるべきなんです.それをどうやって集めるかというと,こまごましたデータを順次蓄積していく以外にないわけです.そのために美術関係の雑誌やメディアはやたらに多く,その他の美術館の年報や博物館や美術館の報告書,売立て目録,要するにオークションやあるいは個々の売立て情報などのマーケットの情報,さらに,修復や物理的な技術に対するいろいろな情報もある.そういう情報を全部集めてインプットしておかないと意味がないんです.
 ずいぶん前(1982年)に,ユネスコが人文科学系の学術雑誌の目録,つまり大学や研究機関で備えるべき全世界の学術定期刊行物目録を作ったことがあります.そのうち人文科学系の歴史部門を見てみると,日本などのものは非常に少なくて,だいたい西洋系の雑誌が多いんですけれども,それでも二千数百点の定期刊行物がある.歴史部門だけでこの数字です.しかし,それは「美術史関係を除く」とされて,美術史・考古学関係を除いています.なぜなら美術史・考古学関係はやたらに多くて,5700点あまりあるんです.なぜ多いかというと,今言ったような戸籍の話で,ピカソのデッサンが1枚売れましたというと,どこかのカタログに出るわけです.これを修理したとか,展覧会がありましたというと必ずどこかに記録として出るので膨大な量になり,それだけはユネスコでも別枠でやっているわけです.
 そういう情報をどのようにして集めるか.集めたうえで,それを電子メディア化するのにどうしたらいいか.さらにその他の人文科学と違って映像作品や資料があります.それらにもカラーがあり,レントゲン,や赤外線写真があり,そういうものをどうするのか.そこのところを具体的に考えていかないと,機械だけがあって,例えば「有名作品の複製がパッと見られます」ということだけになってしまうと思うんです.そのためのデータ収集には膨大な人手が必要だと思います.つまり機械化できない部分に関するエネルギーとお金がいる.それが十分でないことが,日本の現在の美術館情報に関する非常に大きな問題だと思っているんですけどね.

浅田――岐阜に収蔵作品がハイビジョンで見られる美術館がありますけれども,それは実はリダンダントな話で,現物があるのに,別にそれを違う部屋でハイビジョンで見る必要もない.

高階――そうなんです.国がバックアップして,あちこちの美術館でハイビジョンを入れていますが,それに役人の方はよく乗るんです.もちろんメーカーや技術関係者はいろいろなことをやってみたいと考える.国立西洋美術館にもハイビジョンは一応ありますが,学芸員の反応は非常に複雑で,ハイビジョンですぐ見られるというのは便利だけれども,その謳い文句が「本物そっくり」でしょう(笑).それがよくなればなるほど,実物はいらないということになってしまうわけです.リダンダントな話どころか,「本物はそこに並んでいるけれども,本物以上によく見えるハイビジョンでいいじゃないか」ということになると,美術館はなくてもいいということにならないか.その辺の問題がやっぱりあると思います.

浅田――ただ,音楽は,録音技術が進んで,最高の演奏が最高の音質でどこででも聴けるようになればなるほど,逆に,やっぱりライヴを聴きたいという欲望が強まっているわけですね.ですから,ハイビジョンであれ何であれ,新しい電子メディアで,その美術館の作品だけではなく,世界中のいろいろな作品にアクセスすることが容易になればなるほど,そのようなかたちで人工的に増幅されたアウラというのがいいのかどうかは別として,人々がより多く美術館に足を運んで本物と対話する機会は増えていくように思うんです.

高階――僕はその辺をみなさんに理論構築してほしいんです.機械でどうしてもできない部分があるのか,今おっしゃったアウラみたいなものとは何か,ということを説得力をもって言ってもらいたい.僕は実物を見ないとわからないということが明らかにあると思っています.

浅田――ひとつには,そういうレヴェルでのネットワークがあり,それからもうひとつ,分析・研究を支える戸籍や登記簿にあたるものが,望むらくは世界的に統一されたフォーマットでネットワーク化されると,ずいぶん違うと思いますね.

高階――ずいぶん違います.ただ,日本の場合には,材料やソフト蓄積の歴史がありません.ルーヴルでは,作品一つひとつについての戸籍があり,例えば《モナ・リザ》などのデータは膨大です.それらが全部,いろいろなデータのファイルに入っているんです.現在ではどんどんコンピュータにインプットしていますけれども,最初は全部手書きです.手書きから始まって,タイプライターになり,最近はコピーも入ってきた.でもコピーができる前は,例えばある本にこの絵のことが出ていたというと,その部分を全部手書きしてそこに入れてあるわけです.そういう蓄積があって,今度それを電子メディア化する.日本にはそれがない.考えてみると,一時期,ルーヴルのドキュメント関係の人は,ルーヴル関係の写真があればそれを切り抜くとか,切り抜けなければ,どの本の何ページにあるかということのメモを入れる,そういうことをやっていた.文章についても手書きで入れていたわけです.そういうことを今でもずっとやっています.日本ではそこまでシステマティックにやっているかどうか疑問のあるところですね.
 例えばルーヴルの収蔵品を借りてきて日本で展覧会を開くと,ルーヴルからカタログを3冊送ってくれと必ず要求されます.1冊はそのままライブラリーにし,あとの2冊はコピーをとるより楽だからバラすんです.それで作品ごとのファイルに入れていく.裏と表があって裏を使ったら表が使えないから2冊使うんです.それを切ったりバラしてファイルに入れる.この電子メディア時代に今でもそれをやっています.昔クリーヴランド美術館に行ったときにも,まったく同じことをやっていて,美術雑誌,例えば日本の『國華』を買っているんです.『國華』という雑誌は,最近少し売れるようになったけれども,日本ではあまり売れていない.ところがクリーヴランド美術館では3冊買っている.理由はルーヴルと同じなんです.
 そういう蓄積がずっとあり,それを電子化しようという問題になってきた.日本は機械の方が先行していて――それはそれでもちろんけっこうなんですが――集める方,蓄積の方を忘れては具合が悪いですね.
 ハードとソフトの問題で言うと,近ごろ役所でも企業でも,ハードだけでは済まないと言い出しましたけれども,どうもソフトに対してハードは箱物だと考えている.例えば美術館や音楽堂という建物がハードで,ソフトはその中に入れるもので,そのソフトの考え方がどうも代理店に頼んでパーッとフェスティヴァルをやりましょうといったイヴェント志向になっていると思う.それは必ずしも悪いとは思わないのですが,それでソフトが済んだと思われては困るので,ソフトの蓄積ができるようにしなくてはいけない.逆にイヴェントというのは後に残らないところに意味がある.どうやって後に残すような形をつくるかというのは,なかなか日本では難しい.日本というのは本来お祭りが好きで,あくまで後に残さないようにするのかもしれないけれど,美術館としては,そういうことが問題だと思っています.


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