InterCommunication No.14 1995

Feature

メディアと政治,そして映画をめぐって


スラヴォイ・ジジェク
インタヴュアー=ヘアート・ロフィンク
上野俊哉 訳


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いまやバルカンは空想が投影される日本みたいな場所になっています
スロヴェニアではわたしは国家のために尽くしていて,市民社会には対抗しているのです!
わたしの本はすでにできそこないのCD-ROMなのです
訳者付記


いまやバルカンは空想が投影される日本みたいな場所になっています

ヘアート・ロフィンク(以下GL)――あなたは日本に行ったことがありますね.日本のテクノロジカルな文化について何か意見をお持ちですか?

スラヴォイ・ジジェク(以下SZ)――最初に言っておきますが,わたしは日本について自分自身の積極的な意見を持っているわけではありません.全ての西欧知識人と同じように,わたしには神話としての参照系(the myths of reference)しかない.まず古くて右翼的なイメージ,死に立ち向かうサムライのコード,絶対的で倫理的な日本のイメージがあります.また,すでにエイゼンシュテイン以来のものである左翼的なイメージもある.つまりは記号論的な日本,空虚な記号,西欧の現前の形而上学の不在といったものです.これも前者におとらず空想的な日本です.エイゼンシュテインが彼の「アトラクションのモンタージュ」のために日本のイデオグラムを使っていることをわれわれは知っています.
 そして例外としてベルトルト・ブレヒトがいます.彼は日本の犠牲や権威といった要素を取り上げて,それを左翼的なコンテクストの中に入れています.ここ西欧ではブレヒトはファナティックな東洋の精神性を紹介した者とみなされました.ただし今ではズーアカンプ社から彼の『イエスマン』や『教育断片』の詳細な校訂版が出ています.そのおかげで,西欧の批評家たちが日本にまだ残っている帝国主義的で犠牲的な献身を尊ぶ精神的要素だと思っていた一切は,実はブレヒトによって編集されたものであることがわかりました.批評家たちが日本人と思っていたものはブレヒトだったのです[★1]
 さらに資本主義的な日本,これは全く別の段階に属します.ここには何かをどこかから取ってきて,しかもそれをよりよく発展させる「オリジナルなき日本」という神話があります.かつての金持ちのためのフィリップス,貧乏人のためのソニーといった具合にね.もちろん20年を経てこの関係は逆転しました.こうして今,コジェーヴ的な日本があります.コジェーヴにとって,最初に歴史の終わりはロシアとアメリカのことであり,フランス革命の具現化のことでした.しかし彼は何かが抜けていることに気づいたのです.彼は日本という,ちょっとした余剰のなかに答えを見いだしました.もしもアメリカでのように,何もかもが予定どおりに運んでしまえば,そこでは自分を殺すしかない.でもスノビズム,つまり洗練された仕方でお茶を飲むといったことのなかに,人間が生きることがまだ意味を持っていることが見つかったのです[★2]
 けれどもまた別の日本,精神分析的な日本もあげることができる.多元文化主義的なアプローチが採られるときにはいつでも,その基準はたいていは日本であり,特にそのノーと言う,「否認(Verneinung)」の仕方に向けられます.日本には30通りものノーの言い方がある.奥さんにある言い方でノーと言い,別の言い方で子供にもノーと言うことができます.ただ一つの否定というものはない.
 ラカン派の小さな冊子に『日本的なもの(La chose Japonaise)』というのがあります.日本人は他の国の言語を借用しながら,さまざまなあいまいさ=両義性を洗練させています.ラカンは日本人には無意識がないと言わなかったでしょうか? 西欧においては日本はこのあいまいな(両義的な)他者なのです.それは魅了すると同時に拒絶する.日本におけるこの心理学的なクリシェ(紋切型)を忘れないようにしましょう.つまり日本人が笑っているとき,それが心からなのか,われわれをあざ笑っているのかはわからない,これが浸透しがたい「他者」という日本についての見方です.
 このあいまいな礼儀正しさ,これによって,一体,日本人は何を望んでいるのでしょうか? こう言うとき,ヨーロッパ人は,アメリカ人がユダヤ人を見るときの「代理」として日本人を見ているのです.「日本政府は2,3の巨大企業の策謀でもって,ことを進めている」と.例えばこのような一切の憂鬱と空想がのっかったパレットが,われわれにとっての日本なのです.でも驚いたことに,一方では完全に西欧的と思われる著者,たとえばジェルジ・ルカーチのような人が日本では広く読まれています.
 そして,われわれ西欧のリベラル民主主義の堕落したやり口を批判する連中から愛されている日本をあげることができる.彼らはある種の権威でかためられた伝統的な構造を温存しつつ,資本主義のダイナミズムをひとまとめにできるモデルを探している.ここでもやり方は二重になっている.この空想が面白いのは,連中がいつもあいまい(両義的)だということです.だからそれはすぐに否定形にだってなる.つまり日本人は実際には一つの巨大な陰謀と権威を保ったままで,資本主義のゲームに参加しようとしている,と.あるいは逆に積極的な言い方をするなら,ここには道徳的な価値と共存する資本主義がある,と言えるわけです.
 日本のレストランや地下鉄の駅で気分がいいのは英語が使われていないからです.この点で日本人が自己卑下したり,嫌悪したり満足したりすることはない.日本のレストランや駅で英語を使わずにその利用の仕方を見つけるのは,それを使う外国人にまかされている.たとえば,わたしはあの自動販売機をいじるのがめちゃくちゃ好きですよ.  スティーヴン・キングの小説をもとにした映画『シャイニング』を見たことがありますか? そこには最悪のアメリカがある.3人の人間,一つの家族が大きなホテルにいるが,そのスペースは彼らにはあまりに狭すぎて,彼らは殺し合いを始めてしまう.日本ではたとえとても混み合っていて身体的には窮屈にされても,それほどプレッシャーは感じない.これは他人に対して知らないふりをしている技術があるからですね.ニューヨークの地下鉄だったら,その半分の混みぐあいでも他者の絶対的な近接という恐ろしい体験をすることになるでしょう.
 わたしが東京で出席したフーコーについての会議で面白かったのは,日本人が,自分たちをどうとらえるかという問題にフーコーを応用することを求められていた点です.けれども,日本側の積極的な発言はほとんどフローベールに関わるものでした.彼らは 日本人に仕掛けられた,このからかい半分の人類学的ゲームを受け容れなかった.しかし,彼らはわれわれ自身のゲームでわれわれを打ち負かそうとしたのです.われわれの方がずっとフローベールについて知っているというのにね.
 さてヨーロッパにおけるネーションはどれもこうしたファナティズム(自分たちが一番フローベールのことを知っていると思い込むような),つまり自分だけを真の,根源的な民族(ネーション)とみなす考えを持っています.たとえば,セルビア人の神話は彼らが世界で最初の民族であるというものです.クロアチア人は自らを原アーリア人種と考えています.スロヴェニア人は実際にはスラヴ系ではなく,エトルリア系の起源を持つと称しています.それとは逆に,自らを一次的なものではなく,二次的なものであるという事実を認めるようなネーションを見出すのはよいことです.日本人がよそから言語を借りてきたやり方を見てみれば,こうした態度自体が日本人のアイデンティティの一部をなしていると言えるでしょう.
 最近わたしは黒澤明について書かれた本を読みました.そこでは『羅生門』は50年代の初めには東洋的なスピリットの偉大な発見として観られたのだと言われています.しかし,日本ではそれはあまりに西欧的なものとして受け取られています.わたしが一番好きな日本映画は溝口健二の『山椒太夫』です.それはこの映画が失われた母の問題,息子に到達する母の声の問題についての,よくできたラカン的読解を提示しているからです.アメリカではヒッチコックの『サイコ』のように狂気が現われる同じ場面で,日本では普通の家族が出てくる.  いまやバルカンは,日本がさまざまな空想の投影場所であるように,西欧が自分自身の空想を投影する場所になっています.繰り返しますが,これは大変に矛盾したことでもある.『ライジング・サン』という映画もこの種の両義性をかかえている.つまり,日本にはハリウッドを取り込み,買収しようとする計画があるというのですからね.その見方はこういうものでしょう,日本人はわれわれのファクトリーも土地も欲しがってはいない,彼らはわれわれの夢を望んでいる,と.この裏には,メディアや制度を握ることで思考をコントロールできるという考え方があります.それはハードウェアから映画館まで,チェーン全体を買い占めるといった古びたマルキスト風の考え方です.日本が興味深いのは,何らかの進化論的な段階を経なくてはならないといった,俗流でニセのマルクス主義の進歩主義的観念に対抗できる論理がある点です.というのは,(文脈に関係なく複数の段階に属するものをぶつける)直接的なショートサーキットを作ることができることを日本は証明しているからです.古いヒエラルキーにもとづく上部構造の要素を持ったままで,それを思うままに資本主義の最も効率的な形にとてもうまく結びつけている.これは人間中心主義でないという意味ではよい経験です.よき資本主義のためにはプロテスタントの倫理が必要だという西欧の社会主義者たちにとって,これは一つのミステリーです.
 わたしが日本に見るもの,それは多分わたし自身の神話なのでしょうが,あらゆるものの裏にある,礼儀やスノビズムなどに関するこういった観念なのです.日本人は表層的かつ必然的でないように見える何かが,もっと深層では構造的な機能を持っていることを自覚している.西欧流のアプローチだとこうなるはずです,「誰がそれを必要としているか?」と.しかし全く馬鹿気たことでも,より深いレヴェルではわれわれが自覚していない安定化の機能をはたしている.誰もがイギリスの君主制を笑うけれど,外から見ている人間にはこれからもそれがどんなものか本当にはわからない.
 アメリカの社会学者のあいだで一般的なものに,「罪の文化」対「恥の文化」という別の考え方があります.ユダヤ人と彼らの内的な罪と,ギリシア人と彼らの恥の文化というのもそうです.そして今日ありがちなクリシェは,日本は究極の「恥の文化」であるというものです.アメリカでわたしの嫌いなものにアクターズ・スタジオの論理があります[★3].それによれば,自己表現にはあたかも何かよいことがあるかのように言われている.たとえ他人を怒鳴ったりけちらしたりしても,自分自身を表現し解放するためには全てを抑圧せず,解放しなさいというわけです.これは仮面の裏側に何か真実があるとする馬鹿気た考えです.日本では,たとえ何かがうわべだけのことであっても礼儀は単に偽りでない,このことがただの神話でないことをわたしは望みます.「こんにちは,ごきげんいかがですか?」と言うことと,ニューヨークのタクシー運転手の罵りの間には違いがあります.表層=うわべこそが大事なのです.もしこの表層をぐらつかせれば,ひとは自分が思う以上に多くを失うことになるでしょう.儀礼的なもので遊ぶべきではない.仮面は決して単純に仮面にすぎないのではない.おそらく,こういうわけでブレヒトは日本に接近するようになった.仮面を剥いで本当の顔を示すという西欧の典型的な身振りのなかに本当に解放的なものは何もない,とするこの考え方を彼も好んだのです.ひとが発見するものは,自己が絶対的に嫌っている何かなのだ.この見かけを保持しよう,これがわたし自身の日本に対する空想なのです.

スロヴェニアではわたしは国家のために尽くしていて,市民社会には対抗しているのです!

GL――次に知識人の役割についてお聞きします.1989年以前,東欧には知識人と権力のあいだに不思議な関係がありました.官僚も反体制の人間も政治と何らかの関わりを持っていた.今日でもこのことは部分的には当たっています.しかし,西欧においてはこうした現象は消え去っており,両者の間にいかなる関係も対話も見ることはできません.知識人の役割とはどんなものであるべきなのでしょう?

SZ――たしかに部分的にはそういうことが言えます.わたしが現実の社会主義に,それが堕落したシニカルなシステムであるにもかかわらず,部分的には魅力を感じシンパシーを持てたところは,実際に語られた言葉の力に向けられた信念という点です.20数年前,わたしは300か400という部数の小さな芸術理論誌の編集者でした.あるときわれわれは小さな,難しくてちょっと現代的とはいえない詩を出版しましたが,その数行のなかには反体制的なメッセージがいくつか入っていました.もし権力がこの詩に知らぬふりをしてくれたなら,何も問題は起こらなかったでしょう.しかし党中央委員の特別会議が開かれました.そう,これはもう抑圧です.でも,こんな事態にも良い点があって,それは,コミュニストの権力がおそろしく真面目に,語られた言葉の持っている潜在的で爆発的な力を取り上げた,ということです.彼らはいつも知識人と議論することに関心を持っていました.ほとんど反体制派だったタルコフスキーのようなアーティストを例にとってみましょう.彼はたとえ自分のいくつかの映画の公開を禁じられても,作家活動は許されていたのです.権力は彼に関心を持ったり,退屈したりしました.フレドリック・ジェイムソンはこの点をうまくついています.すなわち,ハヴェルのような東欧の反体制派の面白いところは,それが社会主義システムのなかでのみ可能だったということを,いまやっとわれわれは自覚しはじめています.
 80年代中盤におけるわれわれの影響力は当時はたいへん大きなもので,特に哲学者,社会学者,文学理論家たちにとってはそうでした[★4].ただしそれは特別なもので,とても限られた結びつきでした.いまやこういうイデオロギー的な問いだけにとらわれない[スロヴェニアのような]体制はすっかり無視されています.だから書くことが今も重要な役目をはたしているような国々には申し訳なく思います.ナショナリズムの狂気が作家たちによって案出されたセルビアがいい例です.ナショナリストの作家たちは大して影響力を持っていませんが,スロヴェニアでも事情は同じです.

GL――しかしながら,あなたはこの瞬間にも政治に関わっています.リュブリアナではあなたが政府の党派に関わり,そのために演説原稿を書いているといったことが大変な物議をかもしていますね.

SZ――あなたは東欧における知識人に対して,メシア的なコンプレックスを持っているでしょう.それに文句はありませんが,知識人のメシア的ヴィジョンが右翼にありがちな政治的態度,つまり俗流の反アメリカ主義と結びつけられたとき,それはスロヴェニアでは大変危険なものになります.彼らにとってアメリカはナショナルな連帯も,汚れたリベラリズムも,多元文化主義,個人主義,市場のどれも意味しません.彼らはあまりにも多元的になった民主主義を恐れている.そこには潜在的なプロト・ファシズムがあるからです.どうやってナショナルなアイデンティティを保持しうるかということがオブセッションになっているナショナリストの作家たちと,反資本主義の右翼運動とのこの結びつきはきわめて危険なものです.
 それでわたしはほとんど全ての友人を失うことになり,まともな左翼なら決してやらないようなことをやったのです.つまり,スロヴェニアの有力政党にわたしは全面的に協力したわけです.このためにわたしの左翼の友人はみんなわたしを嫌っていますし,右翼ももちろんそうです.自由民主党がやったことは一つの奇跡だった.5年前,われわれはフェミニストやエコロジーのグループといった新しい社会運動の生き残りでした.当時,誰もが,われわれは「消滅する媒介者」になるだろうと思っていました[★5].われわれは少しずつ堕落しましたが,事態は好転して,いまや最強の党になっている.われわれの党こそがスロヴェニアを他の元ユーゴスラヴィアの共和国の信念――そこには一党独裁のモデルしかない――から救ったと思っています.民族的利害の名のもとにヘゲモニーを握ってきたクロアチアの右翼やセルビアの左翼からね.われわれの党は本当に多様で,外国人にも開かれた多元的な舞台になった.むろん,いくつかの危機的な局面はありましたが.しかし,純粋に多元的な社会への変革はまだ失われていません.
 ありがちなことに,こうした立場がわたしに対する大きな憎悪の引き金になっています.スロヴェニアのメディアは完全にわたしを無視していますし,わたしに関する論文は一編だってない.他方,もしも誰か民族主義者の詩人がオーストリアの無名な雑誌にでも小さな詩を発表すれば,それはスロヴェニアで大きな成功をおさめます.わたしはむしろ何やら根暗で,不吉で陰険な政治的策謀家として認知されている.わたしはこの役割を大いに楽しみ,たいへん気に入っていますけどね.

GL――あなたが巻き込まれている最近の権力闘争に関して,あなたはシニカルになっていないのですね.

SZ――そんなに嫌になっているとは言ってないでしょう.ことは単純でプロフェッショナルな選択でしかない.いまやスロヴェニアでは政治は普通のビジネスになりはじめています.ヒロイックな論文を書けば,一週間でヒーローになるようなことはもうないのです.そこでは陰謀や談合が大事になる.単にわたしは選択しなければならなかった.真剣に理論をやるのか,真剣に政治をやるのか? わたしが最も嫌だったのは,一切は腐敗してしまったと喪失を嘆き悲しむ左翼の「美しい魂」というやつですよ.一体,かつての左翼反対派の良き日々なんてどこにあるというのでしょう? そんなものはない,ゲームの規則を受け入れなくてはならない.
 スヴェトラナ・スラプザク(Svetlana Slapzak,ベオグラードの哲学者,スロヴェニアに避難中)と彼女の周囲のグループは自分たちを周縁的な犠牲者としてうち出しました.しかし,彼女のグループは二つの省庁と最も有力な出版社を完全にコントロールしている.おまけに彼女はほとんどの金を科学省から得ている.そしてソロス財団[★6]に対しては,自分たちは民族主義に包囲されているというストーリーを売りつけている.わたしの場合を例にとってみましょう.わたしは以前は大学に守られていましたが,フランスやアメリカといった外国でのみ教えていました.わたしはスロヴェニアの大学では一校も教えなかったし,いまもたった一人であり,何の研究助成もありません.大学はわたしに生きるのに必要なだけの額はくれます.わたしのスヴェトラナ・スラプザクに対する対応はこうです.すなわち,なぜ彼女はスロヴェニア市民になったのか? 彼女の立場そのものが彼女が言っていることとは正反対のものでしょう.ひどい民族主義に対抗するために,人口200万足らずの国で10万人もの非スロヴェニア人に市民権が与えられたのです.スロヴェニアのことをちゃんと知っているかテストするような汚い仕掛けも一切なかった.
 われわれはまだ中間的な段階にあります.新しい政治的論理がおしつけられる際,「人倫(Sittlichkeit)」,書かれていない規則はまだ不確かなままで,人々はなお一つのモデルを探しています.問いはこういうことです.つまり,われわれは別の小さな,ばかげた民族主義的国家になるのか,あるいはこの基本的で多元主義的な開け=開放(opening)を保っていくかということです.どんな妥協でもこの目的のためには有益です.

GL――ソロス財団の活動と「開かれた社会」の概念についてのあなたの見方はどんなものですか?

SZ――わたしの心中を察してくださればわかりますが,わたしはオールド・ファッションの左翼です.手短かに言えば,わたしはその活動を支持していますが,ポパー的な考え方は全くありません.ソロスは教育,難民問題の分野でよい活動をしているし,理論や社会科学の魂を活性化しています.ソロスが支援している国々はただ貧困化しているだけでなく,社会科学の領域ではハイデガー的民族主義者にヘゲモニーを握られています.でもソロスの人々は悪い国家と良き市民的な,インディペンデントな構造という倫理を持っています.しかし申し訳ありませんが,スロヴェニアではわたしは国家のために尽くしていて,市民社会には対抗しているのです! スロヴェニアでは市民社会とは右翼と同じことです.アメリカではオクラホマの爆弾テロ以後,何万人もの愚か者がいることが突然知られるようになりました.しかし,市民社会とは,あの良き社会運動ではなく,道徳的多数派,保守主義者やナショナリストの圧力団体――妊娠中絶反対や学校での宗教教育――のネットワークなのです.本当の圧力は下からやってきます.
 わたしにとって「開かれた社会」とは非常に実践的な何か,政治的空間における「書かれていない規則」を意味しています.たとえば,現在の政府や支配政党に対立してもまだ受け入れてもらえるのか,それとも,あるいはナショナリストにとっては裏切り者同然だといった,書かれも,語られもしないスティグマ(聖痕)が付けられるのか? いずれにしても,政治的な妥協なしでどれほどキャリアを広げられるでしょうか? 社会主義革命であれ何であれ,わたしには原理主義的な希望はありません.われわれにはいくつかの大きな危機が迫っています.すなわち,エコロジカルな危機,低開発地域に対立する先進地域が持っている危機,急速な変化を目前にした現実感覚の喪失などです.わたしはこの現実感覚の喪失の社会的インパクトを過小評価しません.リベラル資本主義の枠組みはこうした敵対関係を解決できるでしょうか? 残念ながら答えはノーです.まさにこの点でわたしはオールド・ファッションの左翼の悲観論者なのです.
 ロサンゼルスの半分がそうであるように,ゲットー化の動きはマルクス主義的な階級闘争よりもはるかに強大なものになっていると思います.少なくとも,以前は労働者も資本家もまだ合法的に国家のなかに属していましたが,これとは反対に,リベラル資本主義は単に新しいゲットーを作って,自分に組み入れないでおくだけです.リベラル民主主義はこうした問題に答えることができません.
 長い期間にわたって,この「開け=開放性」に関するソロスのアプローチはそれ自体一種の隠されたレイシズムのなかに自足しています.最近,アムステルダムでの会議「プレス・ナウ」[★7]で元ユーゴスラヴィアのさまざまな分野の知識人が対話に入れるような普遍的言語を見つけられるか? と尋ねてきました.わたしはこれは危険きわまりないクリシェだと思う.なぜなら,その考えは民族主義的狂気のファンタスム空間としてのバルカンという観念から来ているからです.この空想はクストリカの映画『アンダーグラウンド』[★8]のような大衆芸術作品のなかで非常に巧妙に操作され表現されています.彼自身,『カイエ・デュ・シネマ』誌で言っています,「バルカンでは戦争は自然現象であり,誰もそれがどうなっていくのかわからない,戦争はわれわれの遺伝子のなかに組み込まれている」と.バルカンをこのような非政治的で根源的なパッションの劇場へと自然化してしまうことはクリシェであり,大変疑わしいと思う.ここでわたしはヘーゲルを引用したい.「本当の悪は悪をいたるところに見いだす態度である」.わたしは単に自分の周囲に民族主義の狂気を見いだすだけの,うわべだけ多元文化的,中立的なリベラルな態度はきわめて疑わしいと思っています.その態度は自らは証人でいようとする.でも旧ユーゴスラヴィア解体後の戦争はまさにヨーロッパの文化的ダイナミクスの結果なのです.単に「どうして人々はお互いに話さないのか?」などと嘆いてみせるリベラルなどわれわれには必要ない.誰も本当の権力分析をしていないのです.
 西欧に共通するクリシェはいわゆるバルカンの複雑性というものです.これは西欧がもっぱらオブザーヴァーとしての立場をとっておくためにしか役立ちません.なすべきことは,わたしが「裏側からの現象学的還元」と呼んでいるものです.それを理解しようとしてはいけない.音を消して楽しむテレビのように,馬鹿気た身振りが見えるだけだ.意味を絶ち切り,そして純然たる権力闘争をこの手にするのです.バルカンは,それがヨーロッパ共同体自体のユートピア的観念に照らして悪いもの全てを具体化しているという意味ではヨーロッパの症候なのです.では,その夢は何でしょう? 一種の中立的で完璧なブリュッセル風の官僚制です.それらはバルカンの鏡像を投影しています.どちらにも共通するのは,それぞれ固有の政治的敵対関係の排除です.

GL――オランダにおけるわれわれのキャンペーン,「プレス・ナウ」は旧ユーゴスラヴィアにおけるいわゆるインディペンデント・メディアを支援しています.その前提の一つは,国家にコントロールされたメディアによる,上からのプロパガンダによって戦争は始まったという考え方です.そこではいかなる西側の介入も遅すぎたと見ることで,たとえばインディペンデント・メディアを通して時間をかけた解決に向かえるのではないかと主張しています.この分析にあなたは同意しますか?

SZ――ある点までは同意します.ただし,わたしはつねに西側の軍事介入のおかげでやってきました.1992年ごろ,ほんのわずかの圧力によって戦争は終わろうとしていた.けれどもその時期を逸してしまった.いまやバランスの変化とますます強大になったロシアのおかげで,もはや終結は不可能になってしまった.あの当時,クロアチア人とセルビア人は独立に賛成しましたが,ボスニア人はもっとあいまいで,今はそのための対価を支払っている.ボスニア人は戦争に備えようなどと望まなかったし,彼らはだんだん慎重になっていきました.そういうわけで彼らは今,西欧でかくも狂った状況にあるのです.あらゆる安全保障体制にも関わらず,ユーゴスラヴィアの軍隊に対してボスニアを防衛するものは何もなかった.そしてボスニア攻撃のあと,西側は突然民族紛争について語りはじめ,こうしてどちらの側も有罪となり,根源的な情念によってつき動かされねばならなくなっている.
 わたしはユーゴスラヴィアのために泣き叫んだりはしない.ミロセヴィクがコソヴォとヴォイヴォディナを占領し併合したとき,権力の均衡は変わったのです.より連邦型のユーゴスラヴィアと,新しい中央集権型のそれとのあいだに選択があった.80年代後半のメディアの役割を過大評価してはいけないのです.メディアは,ローカルな共産党官僚組織が生き残るためだけにその役割を認められていたのです.ユーゴスラヴィア危機に対するカギは,こうした民族問題を思い起こすことで,古いノメンクラツーラの権力を保持しようとするミロセヴィクの戦略なのです.メディアは連中の汚い仕事に手を貸した.毎日毎日,ボスニアでわれわれをレイプするセルビア人についての話,セルビアでは彼らをレイプするアルバニア人の話を見聞きするのは恐ろしいことでした.あらゆるニュースは,犯罪から経済にいたるまで,この汚染された憎悪のフィルターをかけられていたのです.しかし,これが闘争の根源ではなかった.それこそ権力を維持するための支配エリートたちの計算だったのです.
 もし国家に支援もコントロールもされていないということで独立性(インディペンデンス)を定義するなら,最悪の右翼はインディペンデント・メディアであり,それならソロス財団にサポートされるべきでしょう.わたしはセルビアにもクロアチアにもメディアに対する絶対的なコントロールがあるのを知っています.彼らが許しているのはほんのわずかのマージナルなメディアです.公平でインディペンデントな情報はたくさんの助けになりますが,あまりそれに期待しないことです.

わたしの本はすでにできそこないのCD-ROMなのです

GL――「アルス・エレクトロニカ」会議での講演のなかで,あなたは,ニューメディアの導入の段階が過ぎると,その誘惑はついえてしまい,おそらく「ヴァーチュアル・セックス」もそうなるだろうと強調しました.結線化への欲望はそんなにすぐに終わってしまうのですか?

SZ――いわゆる「ヴァーチュアル・コミュニティ(仮想の共同体)」と言われるものは見かけほど大きな革命ではないでしょう.わたしが興味あるのは,われわれの自己が常にヴァーチュアルなものであったかということを回顧的に発見させる手助けを,そうしたヴァーチュアルな現象がどの程度可能にしているか,という点です.たとえ最も身体的な自己経験でも,そこには象徴的,ヴァーチュアルな要素が含まれます.たとえばセックス・ゲームを考えてみましょう.わたしが面白いと思うのは,満足の可能性がつねに実際の満足とみなされるところです.フランスでは多くのわたしの友人がミニテルでセックス・ゲームを楽しんでいます.彼らが言うには,問題は誰かと本当に会うことではなく,マスターベーションをすることですらなく,ただ空想を文字に打ち込むことが魅惑なんだそうです.象徴秩序においては潜在性(ポテンシャリティ)はすでにアクチュアルな満足をもたらします.精神分析理論において象徴的去勢の考え方はしばしば誤解されています.その効果においては去勢脅威はすでに去勢として機能します.たとえば権力関係において,潜在的権威はアクチュアルな脅威を形成します.マーガレット・サッチャーがそうです.彼女のポイントはこうです.もし国の援助に頼らず個々の持てるものに頼るなら幸運はそこの曲がり角にある,と.多数派はこれを信じなかったし,ほとんどみなが貧しいままにとどまることをよく知っていた.けれども,多数派は彼らが成功する立場にいるだけで充分だったのです.
 何かができたはずなのにやらなかったといった考えは,実際にやっていることよりも満足を与えます.イタリアでは性的な行為の最中,女性が何かみだらな空想を語ることは全くめずらしくないらしい.実際にそれを行なうことでは不十分で,必要なのは空想的でヴァーチュアルなものの助けなのです.「あなたっていいわ,でも昨日はあいつとファックしたけどもっとよかったわよ」みたいにね.ここで興味ぶかいのは,いわゆるサド・マゾ的,儀礼的,性的な実践です.これは決して終わらない,ただ何らかの前戯が繰り返されるだけです.それを宣言するが,実際にはやらないという意味でヴァーチュアル(仮想=潜在的)なのです.なかには(マゾヒストのように)契約を書く連中もいる.たとえそれをやっているときでも契約が失われることはなく,ずっと自分自身のゲームの演出家としてふるまうのです.わたしを魅了するのは,ある距離を保つためのこの裂け目(Spaltung),ギャップなのです.この距離は享楽を台無しにするどころか,それをもっと強いものにします.ここにわたしはVR技術の大きな可能性を見ています.
 コンピュータのなかに,わたしは象徴的フィクション,減衰作用という意味でのヴァーチュアリティを見いだします.この考え方には長い伝統があります.ベンサムのパノプティコンのなかには,純粋形態でのヴァーチュアリティが見られます.中心に誰かがいるかどうかは決してわからない.もしそこに誰かがいるとわかっても,いささかも恐怖はなくならないでしょう.いまやベンサムがそう呼んだように,それはまさに「完全なダーク・スポット」です.もし誰かが監視していてもそれはわからないし,誰かがいるかどうかと思うよりももっと恐ろしい,ラディカルな不確実性がある.

GL――あなたは映画分析でも有名です.コンピュータ・ネットワークから例を引いたり,CD-ROMのストーリー・ラインを分析したり,テレビを分析の素材に使ったりということも考えられますか?

SZ――イギリスの映画研究所(BFI: The British Film Institute)でわたしが一連のレクチャーをする際,6つか7つ映画を選ぶように言われました.わたしがあまりにたくさん映画の例を使うからです.CD-ROMを作るというアイディアもありました.なぜなら,そもそも同じ仕方でわたしは書いているからです.つまり,ここをクリック,向こうに移動,この断片や物語あるいはシーンを使うといった具合にね.ある人に言わせれば,わたしの本はすでにできそこないのCD-ROMなのです.しかし,著作権のためにCD-ROMの実現は非常に難しく,ダーティな資本主義はこのプランを壊してしまうでしょう.もしデータ化された映像から例を引けば,その作品のプロパガンダをすることになるなどと連中は考えていないだろうか? わたし自身のお気に入りの本,『否定的なもののもとでの滞留』(Tarrying with the Negative, Duke University Press, 1994)のなかで,わたしはヒッチコックのいくつかの断片を使っています.このテクストにそれらを入れられればどんなによかったでしょう.ただしこと映画に関するかぎり,実際のわたしはむしろ保守的です.今もわたしは映画作品における音楽の役割という主題についての仕事をしています.30年代の半ばに,ハリウッドの映画における音楽の古典的なコードが確立した際,それは完全にワーグナー的なものであり,主観的パースペクティヴを根元的に強調し決定する純然たる伴奏音楽だったとする見方があります.これは保守革命の古典的一例です.ワーグナーが「総合芸術」について言ったように,もし音楽をそれ自体で展開させるなら,それは無調で模倣不可能なものになるでしょう.
 最近研究しているのはリンチとアルトマンの映画におけるサウンドトラック,ランドスケープからサウンドスケープへの移行などです.アルトマンとドルビーステレオによって,もはや一般的なフレームとしてのサウンドトラックは必要ではなくなり,それはまるで一貫しない断片のようになりました.視覚的レヴェルでそうした統一はもはや確立されていません.
 わたしはアルトマンの『ショート・カッツ』のように,偶然にまかせてぶつかりあう一連の信念をつなげて考えたい.これはきわめてドゥルーズ的な主題です.なぜなら,偶然性(偶有的なもの)が遭遇するグローバルなナンセンスは,後期資本主義社会において主体的なものが何を意味するかを理解するために,ローカルな感覚の効果を生みだすからです.あるいはリンチの偉大な失敗作『デューン』をあげましょう.さまざまな内的な独白が使われていることに気づきましたか? リンチにとって現実は何か大変壊れやすいものです.もっとそれに近づけば,レニ・リーフェンシュタールを見いだすことになるでしょう.わたしは直接的な内容分析に興味はなく,映画の物質性と主観性の概念の変化にわれわれがどんなふうに関係しているかといった,全く形式的な変化に関心を持っています.
 もちろん,ここで言ったことは全て,おだやかな反デリダ派ふうの一撃です.なぜなら,われわれにとって音こそは外傷的なポイントであり,叫びや歌でさえそうなのです.それはあなたの統一性が失われる点であり,声で楽しむ自己が常にコントロールされているやり方です.政治的なレヴェルで興味深いのは,言説の機械は実際に機能するためにはどんなふうに猥雑な声に頼っているか,という点です.カーニヴァル的転倒,この猥褻な自由の噴出に見えるものは,実際は権力に役だっているのです.けれどハリウッド的な言い方をすれば,こうした作業はわたしにとってはB級作品にあたる.ここ2年間のわたしのA級作品は,ちょうど終えたばかりのシェリングについての著作です.

GL――今年は映画100年記念の年です.でも最近の映画理論の状態はどうでしょうか? 批評的,記号論的,ジェンダー論のアプローチ以後に何が来るのでしょう?

SZ――フレドリック・ジェイムソンはすでにこの点を指摘しています.映画がどうなっていくのか,という問題は別のメディアにおいて起こっている事実にも規定されています.理論に関してはたくさんのものがあり,アメリカの文化批評の領域全体は本質的に映画理論になっています.わたしはいつもフェミニストのポリティカル・コレクトネスなど全てが,その批判にもかかわらず,いかに男性優位主義の映画に魅了されているかを面白く思っていました.わたしがひきつけられる点はまなざしと声の軸であり,この緊張関係は映画をおいてほかには見当たりません.これは依然としてわたしにとって主要な軸になっています.わたしにとって映画は一種の「圧縮」なのです.一方には声の問題もありますが,他方には物語化の問題があります.
 考えられる唯一の変化は,20年前まで映画に行くことは全く別の社会的経験であったということです.それは土曜や日曜の午後の体験だったけれど,それは変わってしまった.普通の商業映画のなかに依然として見てとれるのは,主観性の概念の変化です.われわれの象徴的アイデンティティのもっとも深く,もっともラディカルな次元がどうなっているか,われわれはいかに自身を経験しているかを調べることができるからです.映画は依然としてそのもっとも簡単な方法なのです.ちょうどフロイトの夢が無意識にいたる王道であるように.
 おそらくわたしはノスタルジックなムーヴメントの側にいるのです.今日,全ての新しいメディアのおかげで,映画は危機に瀕しています.映画はノスタルジックなメディアとして大衆的なものになっています.では現代の映画理論とは実際のところ何なのでしょう? その究極の対象は30年代から40年代のノスタルジックな映画です.それらを楽しむためにはあたかも理論が必要であるかのようになっています.マルクス主義者でさえ,どれほどこのゲームを楽しんでいるかは驚きです.冗談でなく,彼らはあらゆる映画を見てきました.この事実は,映画から例を引くのはよいことだというパターン化された考えからのみ来るものではありません.19世紀に文学がはたした役割と同じように,あたかもそこに特権的な関係性があるかのように,理論自体に内在する論理があるという点をわたしは主張していこうと思います.

[1995年6月20日 リンツにて]


訳者付記

上野俊哉
 インタヴュアーのヘアート・ロフィンクはすでに『テクノカルチャー・マトリクス』(NTT出版,1994)やいくつかのエッセイで日本でも名前を知られた,アムステルダムのメディア理論家である(これまで表記が安定しなかったが,どうやらこれが一番オランダ語に近い.ただしアメリカ人などは“ゲルト・ロヴィンク”などと呼んでいる).彼はこの春までは雑誌『メディアマティック』の編集に参加していたが,現在はそのグループとは袂を分かっている.  大学の教師でも大企業の研究員でもない彼は,自由ラジオ,空き家占拠(スクウォッティング),コンピュータ・メディアなどに関わる「メディア・アクティヴィスト」でもある.著者としてはAdilkno (Foundation for the Advancement of Illegal Knowledge)という数名のグループで共著を出している.アディリノ名で出版された著作にはCracking the movement--Squatting beyond the media(Autonomedia,1990),Der Daten Dandy(Bollman,1994)などがあり,パリ,ハンブルク,ベルリンなどでレクチャーやパフォーマンスも行なっている(Der Daten Dandyはオランダではフロッピー版で出たばかりだ).80年代後半から彼らは東欧や中欧(ルーマニア,ハンガリー,旧ユーゴ……)の「新しい社会運動」と緊密に連携して,自由ラジオやコンピュータなど,インディペンデント・メディアの理論と技術的ノウハウを提供してきた.現在は前号でもふれたジョージ・ソロスの「開 か れ た 社 会 財 団」や「プレス・ナウ」の仕事や,アムステルダムの「デジタル・シティ」計画に取り組んでいる.最近は日本の編集者やジャーナリストにインタヴューされたり,仕事を頼まれることも多いらしい.ただし彼はこう愚痴る,「みんなぼくのことを“西海岸のサイバー野郎”とおんなじ目で見てんじゃないの.そのあたりの誤解をただすのはきみの役目だよな.それに掲載誌や本を送ってこない奴も日本には多いぞ」.似たようなことはジジェクも言っていて,「日本でもう数冊も著書が翻訳されているはずなのに全く送ってこない.怒ってるわけじゃなくて,わたしのつまらないナルシシズムのために日本版の著書を送ってほしい」とぼやいていた.関係者各位の善処を望みたい.今回のインタヴューでヘアートが立てた方針は次のようなものだ.まず,ジジェクの政治的な位置が映像やメディアとの関係ではっきりするようなものにすること.さらに「日本」をめぐる様々な理論的ステレオタイプに対する彼の見方を引き出すこと.すでにおわかりのように,この二点を問うことが自ずと映像(映画や電子メディア)の系譜学的分析になっていくあたりに,この理論家の凄みがある.どっさり砂糖を入れたショコラを飲みながら,ややイタリア訛りっぽい早口の英語で喋りまくる彼は,新著であるシェリング論やベンヤミンについての話題にもふれていたが,それはまた別の機会に紹介しようと思う.


訳註

★1――このブレヒトについての見方は,91年のフーコー・シンポジウムにおけるジジェクの報告(蓮實重彦,渡邊守章編『ミシェル・フーコーの世紀』筑摩書房,1993)所収「フーコーとラカンにおける主体の概念」でも触れられている.その論文の冒頭でも幻想と抑圧のスクリーンとしての「日本」という主題が考察され,ブレヒトの一連の作品が例にとられている.これら2作品の主題は「犠牲」である.『イエスマン』では,流行病に侵された村を救うための遠征隊に参加した少年と,病にかかった者を殺すことにした遠征隊と少年の殺害(犠牲)を描く.ブレヒトはこの作品を古い能を翻案して作り上げた.『処置』は舞台を中国の革命に変えて似たプロットをあつかっている.


★2――コジェーヴのヘーゲル論の小さな註で語られたこの「日本的スノビズム」については多くの説明は不要かと思うが,最低限コンテクストを確認しておこう.人間が投企によって世界を変形していく作業が終わったとき,つまり歴史の完了の後の人間はどんな存在となるか? コジェーヴはそれをいったんは完全に機能化,合理化された「アメリカ的生活様式」に見いだす.ところが50年代終わりに日本を旅行して彼は考えを変えた.生にいかなる意味も付与せず,全く意味を欠いた死(自殺,切腹,特攻)を受け入れ,かつ内容を欠いた純粋な「形式」(茶道,華道,能……)と戯れつづけることのできる,人間以後の人間を彼は「日本」に見いだしたのである.むろん,ジジェクはバルトの空虚な記号をめぐる日本論ともあわせて,これらがイデオロギー的な「空想」であることを理解している.


★3――2アクターズ・スタジオの方法論は,俳優リー・ストラスバーグによって体系化された.役作りや演技のプロセスにおいて,俳優が自らの過去や現在の心理的外傷やコンプレックスを露呈させ,それを役柄と交錯させながら演技する方法.アル・パチーノやマーロン・ブランドなどハリウッドのスターにもこの教育を受けた人が多い.ちなみに『ゴッドファーザー・パートII』における,ユダヤ人ボスに紛するリーと,若きドンを演じるアル・パチーノの絡みは有名である.


★4――一般に「新しい社会運動」とはエコロジー,フェミニズム,少数民族解放運動,自由メディア活動……などを指している.大文字の社会変革ではなく,ミクロな改革や運動の連帯によって社会の動態化,変革をはかる.80年代後半の東欧の民主化運動はこの潮流に近いものだったとジジェクは言っている.またジジェクもしばしば援用するエルネスト・ラクロウらの敵対性(アンタゴニズム)のモデルもここに由来する.


★5――もともとは元アルチュセール派の哲学者アラン・バデューが創案した概念である(『主体の理論』,ガリレー,1982).ある何らかの行為者(エージェント)が,大きな変動や変化の条件を作りだし,そのプロセスが定常化するさい,可視的な場面からは消え去っていく運動をあらわす.ある状態と次の状態の媒介者は遡及的にしか見いだされない,これが「消滅する媒介者(vanishing mediator)」である.フレドリック・ジェイムソンは『理論のイデオロギー』第2巻(The Ideologies of Theory, Vol.2. Syntax of History,1988.=邦訳『のちに生まれる者へ』,紀伊國屋書店,1993.ただし邦訳版ではこの論文は訳されていない)の論文「消滅する媒介者,あるいは物語作家としてのマックス・ウェーバー」において,資本主義とそのエトスを発動させつつ,いったん資本主義システムが安定化,高度化してからは歴史の表舞台から消え去ってしまうプロテスタンティズムを「消滅する媒介者」として解釈,分析している.ジジェクはスロヴェニアをふくむ旧ユーゴの民主化のプロセスにおいて,「新しい社会運動」や「パンク・ムーヴメント」が「消滅する媒介者」の役割をはたしたと随所で指摘している.一種の知識人政党である彼らの「自由民主党」もそのなかの一つだった.


★6――本誌13号の岩井克人インタヴュー「インターネット資本主義と貨幣」を参照.


★7――本誌13号の拙稿「インディペンデントなメディアなしにはマルチカルチュラリティはありえない」を参照.


★8――ヘアートの談によれば,クストリカはボスニア人の映画作家で,現在はフランスに住んでいる.そのフィルム『アンダーグラウンド』は80年代の半ばに制作されており,ジプシーの暮らしをモチーフにしたものらしい.


(スラヴォイ ジジェク・哲学/ヘアート ロフィンク・メディア論/訳=うえの としや・社会思想史)


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