InterCommunication No.12 1995
InterCity Boston
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そのタイトルからも推察されるように,「センス=アビリティ(感覚=能力)」展は,
伝統的なお仕着せに縛られた凡百の美術展示のやり方をはるかに越えて人間の感覚
能力の差異の垣根に挑戦する試みであった.フリーのキュレーター,アン・ウィル
ソン・ロイドとケープ・コッド・コミュニティ・カレッジにあるオニール・センタ
ーの主任,ジョイス・シャソンの協力のもとに,「センス=アビリティ」展は,ボス
トンから招待された彫刻家,田甫律子と5人の身体障害者とのあいだの共同制作とい
う形で実現した.この美術展が辛辣な形でつきつける感動的なテクストやヴィジュ
アル作品は,肉体的困難を持つ人間と(外見上は)肉体的困難を持たない人間がと
もに一つの世界に直面して共有する感情的心理的コンテクストを探究するためのも
のである.この厄介な目標を達成するために,田甫は共同制作者となるノーマ・ジ
ーン・スネル,マーク・ガイスラー,レオ・ルーカス,スーザン・ピアース,ジャ
ネット・スミスといく度か会って話し合いを重ねた.すなわち,共同制作者たちは
互いに自分の身の上を語り合い,それに基づいて,田甫はより普遍的な闘いを具象
化しながら各人を表現した形象を作り出したのである.
「美術展を通じてこうした協力者の方々の存在を見る人々に感じてもらいたいと思っ
たのです」と田甫は語る.「彼らが書いたものを通して,あるいは何らかの芸術作
品,写真の制作,または,(録音された)彼らの発言によって,彼らの生の声を具
体化しようと試みました.こうすれば見る人々に彼らの肉声をじかに感じ取っても
らえるだろう……彼らと私自身とのあいだの一種の共同作業を理解してもらえるだ
ろう,と」.
その結果できあがったマルチメディア・インスタレーションは,ちっぽけなカレッ
ジ・ギャラリーの枠を明らかに押し広げることになったが,それとともに展示には
1日ごとの,場合によっては1時間ごとのメンテナンスが必要になってしまった.ビ
デオテープの巻き戻し,水槽の管理,オーディオ装置の調整を行なわなければなら
なかったのである.ビデオテープやオーディオ装置に関する「技術上」の不便さに
苛立ちを経験した人々には,こうした機能がいささか欲ばったものと見えたかもし
れない.ところが,批評精神というものは,見る側がメッセージを完全な形で享受
できる限り働かないものなのだ.たとえば,そういうことに「注意を払う」ことを
促すそのものズバリの,単純きわまりない形式のメッセージは,言葉のあらゆる意
味において,身体能力を持たざることではなく持つことを前提として成り立ってい
たのである.
当然のこととして,そうしたメッセージは,見る側がそのような「持たざる」状態
を内面的にではなく傍観者的に経験させがちな社会に暮らす場合には,なかなか容
易には伝わりにくかった.田甫の作品は,そうした不幸な事態の存続に歯止めをか
ける試みだったのである.
ギャラリーに入るやいなや,真っ先に,さほど攻撃的にではなく目に飛び込んで来
るのは,1枚の大きなホワイトボードに苦心して点字を打ち込んだ作品である.ギャ
ラリーが置かれた海辺という自然環境と作品をマッチさせるために,田甫は真珠を
使ってこの点字テクストを作り上げた.しかも表面は塩の結晶をはけ塗りしている.
目の見える観客はそこに芸術を見,目の見えぬテクストの作者は伝達のための手段
をそこに見る.つまりそれは,2種類の見 方を結び合わせるべく慎重に構成された
造形作品なのである.田甫の大胆な実験的モデルは,そのサイズといい,また伝統
的および認知論的意味での視覚への考慮といい,自己に対する自信に満ちた作品と
なっている.
だが,この大胆な自信の表現は,この才気溢れる作品の一側面にすぎない.自己に
目覚めるということ,これがもう一つの側面を形作っている.田甫は,協力者たち
を励まして自己を晒け出してもらうことによって,見る側にもまた同じことを行な
うように働きかけるのである.実際に彼女はそのことを強調する.「私は障害者の
人々が世界について異なった経験,異なった感覚,異なった解釈,異なった観念や
感情を持っているものと思っていました」と,彼女は過去を振り返る.「ところが,
彼らは同じものを求めていることがわかりました.私たちと同じように考え,感じ,
傷つき,笑い,そして怒っているのです.同じものを求めている,(ただし)違っ
た文化パターンを通してそれを求めているのです」.
「センス=アビリティ」展はその文化パターンというものを探究する試みであり,実
際的には,両者の乖離という神話を打ち砕いて,文化の境界を越えた人間的経験の
普遍性を讃える作品展になっている.田甫とガイスラーの共同作品に具体化された
多様なイメージは,人間の感覚能力の共通性をよく暗示している.ガイスラーがコ
ンピュータを使ってデザインし合成した6枚の大きなレーザー・プリントによるイメ
ージは,ギャラリーの小さな空間を囲む二つの一番大きな壁面の一つを占領してい
る.田甫はこのガイスラーの意図を強化するために,レーザー・プリントの周りを
網目状の構造になったカラー・サンドで囲ったが,これは作品にざらざらとした手
触り感を与えるばかりでなく,作品の全体性に対する一種の視覚的好奇心を刺激す
るものでもある.それぞれのイメージ自体は,一見したところ相互にそれとわかる
関連はなさそうに見える.鳥はコミュニケーションの象徴であり,バラはさまざま
な関係を表わし,一角獣は精神的自我を表現し,ドラゴンは幸運と知恵とを表わし
ている…….ところが,添えられたテクストを読みながら見直すと,これらのイメ
ージは,ある勇気をめぐる物語を語っていることがわかるのだ.それはたまたまガ
イスラーの身の上に起こった物語なのだが,ほかの誰にでも起こりうることなので
ある.彼は次のように書いている.

私が走る能力を失ったとき,
センス=アビリティがやさしくささやきかけてきた.
私が歩く能力を失ったとき,
センス=アビリティがやさしくささやきかけてきた.
私が息をする能力を失ったとき,
センス=アビリティがやさしくささやきかけてきた.
幾年もの歳月がめぐり過ぎていき,
そのとき初めて私はそのささやきをききとった.

ガイスラーの詩は覚醒への呼びかけである.田甫は実際そのように解釈している.
見る者は最低限そうしたメッセージの存在を認めなくてはならない.メッセージは
作品のいたるところにつねに明白な形で存在しており,それは田甫のインスピレー
ションの源となった協力者たちの自己知覚というより,見る人それぞれの自己知覚
に関わるのである.
ギャラリーの奧の壁に埋め込まれた三つの小さな水槽は人々に向かってたった一つ
の眺め,すなわち正面方向の眺めしか差し出さない.そのうちの一つでは,たった
一匹の魚と珊瑚虫が水中世界を共有するばかりだ.一見したところ,この水槽には
何の意味もないように見える.おそらく芸術家の意図としては浜辺という形象を補
完する強調なのかもしれない.しかし,もっとよく考えるならば,そこには生物の
種同士の相互依存関係が浮かび上がってくる.すなわち,魚と珊瑚虫は微妙な均衡
を保った共生関係の中で暮らしているのである.そこから,われわれ人間という種
に属する生物もまた同様な形で共存し,生存のための解きほぐし難い相互依存の関
係性の中に置かれているのだと結論することはさほど大きな飛躍ではないのである.
三つの水槽にはさまれて三つの巻貝が壁に据え付けられている.巻貝からは田甫の
協力者のメッセージを収めたテープが流れ,ギャラリーを訪れる人々と協力者はセ
ンス=アビリティを共有し合う.語り手のひとりは,合衆国脳波協会代表のレオ・ル
ーカスという55歳の男性である.ルーカスは,音声合成機を介して語りかける.も
うひとりのスーザン・ピアースは,卒中による麻痺のため視覚と聴覚を失っている.
ピアースはほかの人々からいろいろなことを学んだと語る.ジャネット・スミスは,
1985年に自動車事故で自力による歩行,会話,思考ができなくなったが,その後の
リハビリテーションにより,まだその障害は残るものの,1988年にはボストン・マ
ラソンへの参加に挑むまでになった.
どんな場合にも芸術は,すすんでその体験を受け容れようとする人々に恩恵をもた
らしてくれる.時には芸術は貴重な贈り物になることもある.田甫律子とその協力
者たちのおかげで,「センス=アビリティ」展はその両方を満たすものとなった.
[本展は1994年11月7日より12月14日までボストンのCape Cod Community
CollegeにあるHiggins Art Galleryで開催された]
(カレン オード・美術評論/訳=すずき けいすけ・フランス文学)
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