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ICC メタバース・プロジェクト
池上高志 可能世界としてのメタバース 聞き手:畠中実(ICC学芸員)
池上高志
この世界の「外部」について考える

──池上さんには,先日の「可能世界空間論」展をご覧いただきましたが,その際,あの展覧会で披露されていたような「可能世界」なるものと,池上さんご自身が常々お考えになっている「可能世界」には,やや隔たりがあるとおっしゃっていたように記憶しています.今日は,「可能世界」という切り口からメタバースについてお話をうかがえたらと思います.

池上:可能世界というときに,まず最初に僕が考えるのは,そこにはある種「世界一元論的」な観念がベースになくてはいけないということ.ある世界の中から抜け出て,自分のいる世界をその外側から俯瞰することはできない.だけど「(この世界以外に)他の世界があるのではないか?」みたいなことを否応なく考えてしまうところが出発点だったりします.つまり「自分という主体を客観的に見ることができない」ことが全ての根源にあり,だからこそ(この世界の外側を)考えてみましょう,ということです.
 これはとてもナイーヴな意見だと思いますが,自分という主体を客観視できない.だからこそ「あの時,こうしていれば……」とか「もしも将来,こうなったら……」といった後悔やためらいが常につきまとうわけだけれど,自分のいるこの世界からはどうしても外に出られない.外に出て,もう一回(人生を)試したりできないじゃないですか.だからこそ,可能世界を考える必然性がある.
 それに対して,先日の「可能世界空間論」に展示されていた作品のコンセプトは,むしろ(この世界の)外側に出て「色々な組み合わせがあるんだよ」ということを見せちゃっている.もちろん,それはそれで構わないのだけれど,そうすると元々のモチヴェーションにあった「世界一元論的」な見方がなくなってしまう.コンピュテーションにより,組み合わせとしては色々できることが披露されていたけれど,そこには僕が最初に考えていたようなこの世界から外に出ることのできない「空しさ」とか「どうしようもなさ」みたいな雰囲気はなくなってしまっている.そこがもったいないなぁ,とは思いました.

──たしかに「可能世界空間論」という展覧会は,言わば「可能性の多様性」を検証したり,「これから実現するかもしれない」といったオルタナティヴなヴェクトルに向けた,一種のシミュレーション空間についての展覧会とも言えるわけですが.

池上:その「これから色々なことが実現するかもしれない」というのは,言ってみれば「幻想」ですよね.だって自分はある特定の一本の道の上に乗っかっているわけですから,運命は変えようがないじゃないですか.力学系(ダイナミカル・システムズ)という考え方は,ある一点を決めたら,世界は決定論的に決まってしまう.だからそこには「可能世界」ってありえないんですよね.
 実は僕が可能世界のことを考え始めた出発点というのは,その世界が決定論的だという力学系の見方に対するアンチとして,でした.力学系の世界観では,ある一本の軌道を決めたら,その上で何を考えようが,とにかくその軌道上を進むという前提は変わらない.それを変えるためには全然違うところから考え始めなければならず,一本の軌道という概念にはもう可能世界はない.軌道上でいくら考えようが,(力学系の世界では)次に行く先はもう決定しているのだから,その結果は変えられない.
 例えば一枚の葉っぱが河を流れてきて,その葉っぱが「次の岩は避けて,左に行こう」と考えたとしても,葉っぱ自体は水の流れに単に流されているだけだから,いくら「次は絶対に左だ!」と思ったとしても,岩に当たらないわけにはいかない(笑).そこに,さっき僕が言っていたような可能世界を巡る「空しさ」に通じるものがあるわけです.

──例えばそこで,実際には葉っぱは右に行ったけれど「もし左に行ったとしたら,どうだったか?」ということを考えることは,可能世界ではないのでしょうか?

池上:それは外側から川を見ていた人が,そう考えられるわけですよね.流されていた葉っぱもそう思ったかもしれないけれど(笑),でも物理世界の自然現象としては「左に行ったら」ということは別の軌道を考えるということで,今与えられた条件ではありえない.にもかかわらず「可能世界を考えるというのは,いったいどういうスタンスなのか?」という話なわけです.
 僕が最初に,そのアンチ力学系というスタンスから可能世界を考えた時,僕が考える可能世界みたいなことを扱っていたのがゲーム理論でした.ゲーム理論というのは「次にAをするか,Bをするか」で逡巡するわけです.この「逡巡できる」ということは力学系にはありません.手のゆらぎとか「どっちにしたらいいか?」という結論の迷いを持ち込めるのは,ゲーム理論だな,と思ったわけです.
 例えば「囚人のジレンマ」という有名なゲームの喩え話があります.二人の囚人が別室で尋問されていて,共犯者に協力したらどうなるか,逆に裏切ったらどうなるか.そのときに有効な戦略をアルゴリズムとして与えてやったら,ある条件下では協力するし,そうでなかったら裏切るわけで,そこには「次にどうしたらいいか?」といった逡巡はない.だから逡巡するようなシステムを作ってみようということになって,相手のモデルを作り合うようなシステムをゲーム理論で構築しました.相手のモデルを作って,それを元に将来を予測して,そのうちから最も自分にマッチした手を選ぶ.それを進行させると,けっこう複雑なシステムができます.そうするとその中で(相手に協力するか,それとも裏切るか)どちらのモデルも選べないような状況が出てくるわけです.
 相手のモデルを複数選ぶことができて,それぞれに従うと次の手が違ってくる.だけど,どの手を選べばいいかという決定権はない.つまり「どうしても選びえない」状況が出てきた時に,力学系として同時並行シミュレーションをせざるをえなくて,相手のモデルはこうだと思って進める場合と,別のモデルで進めた場合ではどう世界が変わっていくか.それを記述すると,原理的に可能世界っぽいものが出てくる.その「どちらのモデルも選びえない」ような時に「力学系の世界を分岐させて考える」それが,僕にとっての可能世界の最初です.

──その「世界を分岐させる」ということと,先ほどの「世界は一本(の軌道)しかない」ということは,どういうふうにつながるのですか?

池上:ここで「世界を分岐させる」というのは,この「相手のモデルを創って決める」力学系モデルでは,そうせざるをえない.そうでないと次の状態が描けないのです.それはある意味決定論的な力学系の上に乗っかっている,非決定論的な心のダイナミクスです.例えば「あの時こうしたら,将来はどうなる」というのは,主体的な問題として必ずあるはずです.葉っぱだって,右に行くか左に行くかを思うのは勝手だけれど,外から見たら「あ〜,左に行くってことは,もう決まっているんだけどなぁ」って話になる(笑).にもかかわらず,心に逡巡があることは確かじゃないですか.その心の逡巡のダイナミクスこそが,可能世界なわけです.この可能世界シミュレーションではその逡巡の構造を描いている.でもそれは,分岐した世界のどれかを特権的に眺めるのではなく,全部をまとめてひとつのシステムの発展として眺めている.

──自分の半生を振り返ってみると,確かに色々な選択肢がありましたが,でも現在に至る道筋は一本だけですよね.

池上:それはそのとおりなのですが,その一本の軌道の外には出られないことへの不安とか,不可能なのに生まれる逡巡の構造を表わす,ということです.今「逡巡」と言ったけれど……例えば僕がこの物体を動かすとする.今は別に何も起こらないけれど,それが世界を揺るがすような大事に発展することもあるわけですよね.世界一元論的な構造だったならば,ちょっとした所作が,世界にわずかなゆらぎを与えるだけか,それとも拡大するゆらぎを与える仕組みなのかは,その場では決定しない.だから一元論的な世界でも,先を大幅に変えるような「ゆらぎ」というのは,確かにあるわけです.だけどそれが何かということは,現時点では分からない.
 ある対象を外側からちょいと引っ張った時に,同じ元の軌道に戻るのなら,たいしたことはないけれど,引っ張ったと同時に軌道がボワーっと変わってしまう場合もある.そうすると,可能性としてその軌道には,違う世界を作れる不安定性が現われたり消えたりして,一本の軌道を作っている.そこに現われている「不安定性の芽」を外側から見てやることができるかもしれない.そこに,内在的な可能世界が見えるわけです.
 なぜそういうことを考えるようになったかというと,元々カオスというものがあった.カオスって不安定性が指数関数的にものすごい勢いで膨らむものだから,ある一本の軌道が外側から見て奇妙な動きをしていたから「カオスだ」と思うかもしれない.だけど,実際はそうじゃないですよね.いくらその軌道がグニャグニャしていようが,その軌道の上に乗っている人はそうは思わない.僕らの軌道だって実際にはすごくカオス的な動きをしているけれど,「あっ,今,カオス的な軌道だ!」とは誰も思わないじゃないですか(笑).だから,内部からカオスを定義するためにこそ可能世界が必要なんです.
 カオスの定義は常に外からであって,そのカオス的な軌道をちょっとずらした時に違う方向にダーッと変わったら,「あ,これはカオス的な軌道だ」ということが外から判断されるわけです.だけど,軌道の中の人にとっては(自分たちの内部からずらそうとしても,そこは常に内部だから)ずれないわけです.だからその軌道の持っている不安定さも測れない.そこがけっこう大きな悩みだったんです.シミュレーションでは,この世界が持っている「可能世界」性を測るためには,外からつついてやらなくてはいけない.そうするとバーッと広がってしまうわけだけれど,そのことと内部の人が思っている逡巡みたいなことが繋がるかどうかを考えようというわけです.
 可能世界というのは,常にそういう内部からの視点と合わせた形でしかありえない,そうでないと議論しても意味がないと僕は思う.だから「色々な可能性を作れる」という,組み合わせの多様性と,いわゆる可能世界が自分の中で結びついていなかったので,どうしてこれが可能世界の展覧会なのか,最初はよく分からなかった.それは先ほど言った理由で……我々の内面から世界を見ている立ち位置と,外面から見ている立ち位置の接触がどこかで出てこないと,可能世界だとは思えなかったからです.
 さらに言えば,メタバースと可能世界がなぜ関係があるかというと……メタバースの世界というのは,その外側があるかどうかを我々につきつけるからじゃないですか.もしかすると僕らの世界も,誰かによっていつもシミュレーションされている世界のひとつなのかもしれない.どうやって内部からそれを判断できるか? そのことと可能世界が結びついているからこそ,メタバースは面白いわけで,あれが単にユニークな世界というだけだったら何の意味もない.常に可能性として「(この世界の)外側があるのではないか」という恐怖があるわけです.実はそのことが可能世界を作りうるのだけれど……それをどうやって考えたらいいかが問題です.