はじめに
ジョン・ウッド&ポール・ハリソンは,1993年より,英国を拠点に,パフォーマンスやアニメーション,建築的なセットやさまざまな装置などの要素を取り入れたヴィデオ作品を共同で制作しています.その作品は非常にユニークで,近年では,英国内外で大規模な個展が開かれるなど,人気と評価を高めているアーティストです.日本国内でも,これまでに森美術館やブリティッシュ・カウンシルによる巡回展で紹介されたほか,ICCでも「オープン・スペース2012」展において6作品を展示し,多くの観客の人気を博しました.ほとんど固定アングルで撮影される,どこかおかしみを感じる,そこはかとないユーモアを感じさせる作品は,それゆえ「なにをやっているんだろう?」「なにが起こっているんだろう?」という関心をひきつけるものであり,しかも親しみやすいものでもあります.彼らの作品は,NHKEテレの番組『2355』でも一時期紹介されるなど,作者の名前は知らずともその作品を記憶しているという方も多いのではないでしょうか.
たとえば,日用品の数々を新たな視点からとらえ,もうひとつの新たな使用法があきらかにされたり,それによって引き起こされたものの様態の変化に気づかせたりなど,シンプルなアイデアから生み出される,ユーモラスで意外性や示唆に富んだ作品は,どこか実験のようであったり,決定的瞬間のようであったり,映画のワンシーンのようであったり,さまざまです.
今回のICCでの展覧会では,作品のテーマをパフォーマンス,アニメーション,物語,映画の四つに分類し,日本初公開となる作品を含む20作品によって展観する,日本で初めての大規模な個展となります.
展覧会によせて
ウッド&ハリソン,ジョン&ポール,どちらにしてもロックのスーパーグループというわけではない.ジョン・ウッド&ポール・ハリソンは現代美術の領域で活動する英国のアーティストで,二人が制作するのは映像作品である.その映像に登場するのは,あるひとつのアイデアを淡々と無表情に(ときに笑いをこらえながら)遂行するアーティストたち自身や,さまざまな仕掛けや装置によって実現される,絶妙なタイミングや決定的瞬間のような,ありそうでなさそうな出来事の数々である.あるいは,装置によってメカニカルに実行されるアニメーションやオートマティックに演じられる無機的だがどこか暖かみのある一連のプロセスや,おなじようなセットがくりかえしスクロールする中で,毎回ちがう振る舞いをする演者,映画的な設えのミニチュアで再現されるスペクタクル,などなどである.それはどこかコミカルな装いで人を「くすっ」とさせるものであったり,「えっ」と驚かせるものであったり,ときに真剣にじっと画面を注視させたりするものでもある.その細部には,日常的な出来事の中に存在する自然の法則や物質のもつ性質などがあきらかにされ,またそこには喜劇や演劇や文学や現代美術や映画といった要素が見え隠れする.それらに共通して表わされているのは,ある事実としての出来事である.彼らの作品の中のある一瞬(彼らの作品は長いものでも,短いシークエンスのつながりからなっている),驚くような出来事はまちがいなくカメラの前で起こった現実だということ.カメラは,彼らが自身の身体や装置を使った実験を記録するメディアであり,そして起こりえた,ある時のただ一回の事実,というものが作品として完成される.それは,メディア・アート(あるいはテクノロジー)が魔法のようなことを科学的,技術的に実現するのとはちがうが,むしろありえないと思われること,あらしめたら驚くようなことを提示する,あるいは,アイデアを実現するためのいくつかの方法の提示ともいえる,示唆に富むものだ. 展覧会のタイトル「説明しにくいこともある」は,ある文章を別の言語で言い表わすことや,映像を言葉で説明することを,完全に,正確に行なうことがむずかしいように,彼らのアイデアを実現するために,ある表現で置き換える際に,どうしてもこぼれ落ちてしまうものがあることへのアーティストの意識の表われである.実験的であることとは「結果が予想できないこと」であると言われるが,それは言い換えれば「結果が予想通りになるとはかぎらない」ということであり,それゆえ,ただ一回の事実が,ありえないこと,奇跡のように思えてくるのである.だから,そうやっていくつもの実験をへて完成された彼らの作品は「説明しにくい」のかもしれない.畠中実/ ICC 主任学芸員