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身体は通信によって運ばれ得るものなのか.仮想空間に横たわる,あるいは腰掛けるヴァーチュアルな身体は,存在のどのレベルにおいて現実のものとして感じられるのだろうか.

われわれはこのところ,あやふやな映像や記号に溢れた電子空間や,視覚ばかりが支配する仮想空間に疑問を抱き始めているのだと思う.映像とテキストと音を自分で操作できるというだけのマルチメディアも,もっぱら視覚に頼る(それも現状ではきわめて不満足な状態で)ヴァーチュアル・リアリティも,まだその売り文句には程遠いまま,満足な速度で画像さえ送れない通信システムに乗り込もうとしている.皮膚や死体に対する異常なまでの関心の高まり,物理的な身体性への回帰の欲望は,実体の伴わない電気信号のつくりだす映像の被膜への不信感なのではなかったか.そうした中で仮想空間上で身体の持つ意味を問うとすれば,それは単なる感覚の置換あるいは視覚による触覚の代替以上のものを提示できるのだろうか.

TV会議システムという情報化社会におけるビジネスの象徴のような装置は,ポール・サーマンの手にかかるときわめて逆説的な代物となる.そこでは,現実には存在しない共有空間を商談のような現実的で実際的な目的で満たす代わりに,言葉抜きの身体的接触や身振りというもっとも原始的なコミュニケーションあるいは欲望の形態が,親密で個人的なあぶない関係を見知らぬ他人の間に,曖昧かつ一時的につくりだす.相手を選ぶことさえほとんどできない.物理的に近くて遠い,たぶん現実には会うことさえない相手とのスリリングな関係はパフォーマンスの間だけしか続かない.それは日常性の空間にちょっとだけ穴を開けて,その間をISDN回線でつなぐようなものだ.

見慣れたTVモニターの中の光景と現実とのオーバーラップは,それら日常の風景の持つ意味を脱構築していく.《Telematic Vision》では,テレビの正面に座ってひとりで画面を眺めるカウチポテト的状況が,クラシックなデザインのソファーに並んで腰掛け,テレビを見ながら肩に手を回すカップルあるいは家族のだんらんという,一昔前のアメリカのホーム・ドラマに出てきそうな光景にすり替わる.しかし,ここで懐かしいスイート・ホームを演出するTV会議システムは,家庭とは対極のビジネス・ツールであると同時に,TVモニターに別の意味を与え,家族だんらんの風景を滅亡させたTVゲームの同類でもある.

TV会議装置を使った一連の作品(ほかに《Telematic Seance》がある)の中で《Telematic Dreaming》のインパクトが最も強いのは,ベッドという誰にも共通の記号が持つ異化効果に他ならない.初めて会った相手とベッドに入るというTVドラマでおなじみの状況は,自分あるいは目の前のほかの観客(=パフォーマー)が当事者であるという事実によって観客を当惑すべき事態に追い込む.観客は舞台あるいはカメラの前でベッド・シーンを演じる俳優,あるいは他人の行為を覗き見る窺視狂の立場に立たされる.公開の場における密室的な行為であり,その公開の場とは現実に存在しない仮想空間である.さらに,唯一のコミュニケーションの手段が身体であるにもかかわらず,相手の身体は幽霊のように実体がない.このような矛盾した状況が観客を混乱させると同時に,日常の制約と論理から解き放ち,記名性や身体の生理的環境といったさまざまな要素をばらばらにした上で,コミュニケーションにおける身体の役割を実験し,楽しむことを可能にする.ヴァーチュアルであるからこそ成立する演劇的かつ日常的な空間である.

サーマンは,物理的身体性と実体のない電気信号が飛び交う情報空間との間で日常の感覚や意味を逆転させ,コミュニケーションの本質について考える機会をつくりだす.仮想空間の中でショッピング・バッグを抱え,三次元マウスでつまみあげた商品を買い込んでみても,それは現実の経験の代替品でしかないが,アーティストは人間をその日常的制約から解放し,自分自身について何かを発見する場をつくることができるのだ.

(くさはら まちこ・CGアート)