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終わりなき道の標に
Signposts on an Endless Road

会津泉石井裕 [対談]
Dialogue: AIZU Izumi + ISHII Hiroshi



ビットをタンジブルにする

会津――僕は文字や言葉によるコミュニケーションにこだわってきて,ヴィジュアル・アートには疎いのですが,石井さんの仕事は言葉で捉えるには無理がある事象を,人間の感性とか,感覚,感触に直接にコミュニケーションすることを狙っているのかなと,思います.

石井――言語に対してはヴィジュアルなものとか,タンジブルなものという情報表現分類のための図式があると思います.しかし「タンジブル」というのは必ずしも触覚だけに収斂されるものではありません.大切なのは,情報の意味に応じた,しかるべき表現が必要だということです.にもかかわらず,いまの活字表現は非常に画一化してきて,例えば詩を鑑賞するときに大切なはずの作家の苦闘の痕跡を残しませんね.

例えば,宮沢賢治の「永訣の朝」という僕が大好きな詩は,それを学生時代に文庫本で初めて読んだとき,標準化された9ポイントの明朝体活字で印刷されていて,とてもクリーンな清書的なイメージしか与えてくれなかった.しかし20年後に,その肉筆原稿を初めて花巻の博物館で見たとき,消しては書き,悩んでは書き直した筆跡の痕に,賢治の苦闘の過程を感じることができたのです.賢治の肉筆原稿をずっと見つめていると,だんだん彼のごつごつした手,腕,そして上半身まで見えてくるような錯覚に襲われた.そういう迫力が,結局いまの標準化・電子化されたテキスト・コードではまったく削ぎ落とされている.だからもし,詩を鑑賞する際に,作者の創作過程における苦闘の痕に迫るためには,JISの2バイト・コードではなく,オリジナル手稿の類を全部収録してほしいと思います.

言語はその抽象度において,素晴らしい表現メディアです.しかし,格納・伝送効率を上げるためとか互換性を高めた代償として,オリジナルの作品に込められた身体の痕跡が削ぎ落とされてしまったということを,われわれは深刻に考えるべきで,タンジブルというのはある意味で一つの極端な提案なのです.触って感じられるもの,手を通して,あるいは周辺感覚を通して,直感的に理解できるもの,それがタンジブルです.このタンジブルと,抽象的な数学や哲学の議論を可能にするシンボリックな言語とを結ぶ軸上で,どのような表現メディアのデザインが可能なのかを考えたいというのが,僕の研究の一つの大きなテーマです.

会津――多分,最初にそれをかたちにしたのが《クリアボード》ですね.NTTのヒューマンインタフェース研究所でグループウェアに取り組まれていた初期の頃に石井さんにお会いしていますが,その頃に失敗作がありましたね,オフィス業務の処理システムをつくってみたけど,うまくいかなかった.あれはコラボレーションという概念が強すぎたためですか?

石井――失敗というのは,《チームワークステーション》や《クリアボード》という映像系のグループウェアの研究を始める前に行なった,ワークフローシステムのことです.人々の行なう協調活動のプロセスを,あらかじめ知識としてきちっと記述することにより,コンピュータがそれを解釈してプロセスの流れを自動制御できると思ったのですが,現実世界は例外的事象が多く,失敗しました.

会津――そこに一つの反省点があって,《クリアボード》から始まって,今回の一連の作品に達したのかな,と思って見てきたのですが.

石井――それはある意味で人工知能が陥ったディレンマと同じです.人間の思考のプロセスというのはもともと不合理で,合理的な記述しか処理できない計算機によって自動化しようとしても,所詮ダメなのです.要するに人間というのはアドホックに例外処理を行なえるが,コンピュータにはそれができない.そこで結局,コンピュータにある種のインテリジェンスを期待するよりは,もっと透明かつ簡潔なコミュニケーション・メディアをつくれないかと考えたのです.身の回りで自分が一番好きなメディアは何かと言ったら紙とかホワイトボードだった.そこで,当時NTTの同僚だった小林稔君と共同で,「お互いの顔を見ながら,一緒に絵を描く」ために,「ガラス板を隔てて,遠くにいる人と向かい合っている」ような,シームレスな空間拡張のコンセプトをつくりあげ,それが《クリアボード》に結実したのです.それは言語とか絵という表現メディアを超えて,使う人の身体や視線まで取り込んだメディアです.


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