ICC Review

今回の展覧会は過不足なく20 世紀の最終段階でのサウンド・アートの現状を正確に反映したものであったと言えよう.私は技術の意匠に取材した気の利いたアートには多くの興味を感じない.その段階に留まる作品は今回明確にスクリーン・アウトされていた.個々の作品に関してはカタログに掲載された企画担当学芸員の畠中実の詳細な解説に譲るが,このような水準の確保は極めて重要なことである.そのうえで,もしも私たちが「アート・アンド・サイエンス」という言葉を文字どおりに受け止めるのであれば,身体や感覚器の捉え方など,基本的な人間の認識像を改めるに至る,強度をもった出来事として個々の作品が立ち現われることが唯一重要であるはずだ.そこまで厳しく問うたとして,今回集められた作品に,2000 年1 月のサイエンスの国際水準に完全にキャッチアップした聴覚像をもった作品が見られたか,聴かれたかと尋ねられれば,評論家でなく実際にものをつくる立場から,筆者は疑問符をもって答えるしかない.

だからこそ地に張る根を欠く「浮標」を想起したのにほかならない.具体的に展開しよう.エントランスのすぐ左手に展示されたブランドン・ラベルの作品《トポフォニー・オブ・ザ・テキスト》では,ロラン・バルトの『テクストの快楽』の文字テクスト上から「子音」を排除した残余を「母音」と見なし,それを,ランボーの「母音」分類と対照した5 色に塗り分けられたスピーカーから再生されるという美しいペダントリーを見せているが,母音,子音などというアルファベティカルな分節が聴覚上の意味作用の発現と一切無関係であること,子音なるモノがそれとして存在するわけではなく,子音はちょうどドーナツの穴や金太郎飴の断面のように音声スペクトルの時間境界領域に立ち現われる不整合として理解するのが,今日文字どおり「サイエンス」と対照して制作するのであれば順当と言うべきだろう.しかももしもその母音が,バルトの言うような,ある快楽に結びつくのであれば,『声の肌理』でバルト自身が言うような,母国語の母音の野太い強さ,その非線形かつ言語分節を超えた「suprasegmental (超分節的な)」魅惑と深く結びつけられて然るべきではなかろうか.実際に耳にした母音は英語訛と聞こえた.私はこの作品をきわめて反語的なものと観,またそのように聴いたが,もし反語的意図を欠くのであれば,ある種のオプティミスムを作家に指摘しなくてはならないように思われる.



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