ICC Review

限られた紙幅で個別具体的には割愛するが,やはりある種の楽観性を多くの作家,フォン・ハウスウォルフ&ハグダル,クリストフ・シャルル,マーク・ベーレンス,m/s ,角田俊也,志水児王,ジェーン・ドゥの作品おのおのに見出せるように思う.

80 年代以後のデジタル・テクノロジーとそのサイエンティフィック・アウトプットときわめて近い場所にある仕事として,カールステン・ニコライの《フローズン・ウォーター》と池田亮司の《マトリクス(無響室のための)》を評価することができる.ニコライの作品の動作原理は物理的には単純な音波の干渉であるが,それがヒトの可聴域ぎりぎりの低周波であることから,多分作家自身も予期しない効果が生まれているように思う.ちなみに,なぜ可聴域の音のみがヒトには聞こえるのだろうか.リナスらは,意識が「五感」の統覚として意識現象が成立する50 ヘルツ 程度の脳波パルスに関して報告している.ヴィデオやパラパラ漫画が動画と認識されるのは30 ヘルツ程度より高い周波数の刺激列であるときだ.ニコライが呈示する,大出力の可聴域限界近くの正弦波の組,という状況は,多くの身体にとっては未経験の,場合によれば危険な可能性(「ポケモン」の光過敏症反応も同様の周波数領域のものであった)を含め,身体と環境媒質との新たな関わりを開くことが期待される.水面に立つ定在波は,むしろ一つの暗喩とも読むことができよう.池田の作品はもっとも発展的な可能性をダイレクトにもつ仕事のように思われたが,反面,正弦波と帯域雑音を主体とする素材が,池田自身も言うように「密閉された空間において音は,ただ音圧として私たちの前にあらわれる」ことで「圧迫と解放」として体験されるべき「音と沈黙」の,沈黙の極薄さ(デュシャンの「inframance アンフラマンス=酷薄」と対照するようで,私自身はポジティヴに捉えているが)は「圧迫と解放」という言葉にそぐうものとは思われない.ケージが身体の内側に沈黙を発見した場所でもある「無響室」である事実も十分に活かされているとは(無響室に慣れ親しんだ観点からは)思われない.むしろ,黒地に黒で印刷された彼の作品ノートの黒の深度のほうが,よほど文字の表記に近いと思うのは私だけの思い過ごしであろうか.

このようななか,私にはイーストレイ&トゥープの《肌の刻印を夢見て》が,鑑賞者の内なる響きと沈黙を最も豊かに喚起していると思われた.とりわけイーストレイの,思うに任せぬようなアナログ計算機といったふうをもつ「音響機械」が,聴覚ならず五感の分節をも横断して鑑賞者に訴える微細な震えの多様さは,例に挙げた「カクテル・パーティ効果」よろしく,インスタレーションと相互作用する身体に確かな変化を催させる特異な強度をもっている.私はこの作品と対峙して,高橋悠治が華厳経を引いて語っていた「極微の変化が最大の効果を及ぼす」制作,ということを想起せずにはいられなかった.サイエンスのパラダイムとは関係なく,掛け値なしに優れた作品と思う.少なくとも私にとっては感動的な作品であった.

音は,見えない.実は,聴こえてもいない.「聞こえ」は脳の内部,連合野あたりに自律的に像を結ぶ.老人の耳が遠くなるのは,聴覚末梢の能力より脳の可塑性の低下と多く関係があるとも聞く.今回の「浮標」の彼方に,私は複数の島々の影を,確かにかいま見る.島,植物が根を張り,葉も繁らせるだろう,海原に散在するサウンド・アートのさまざまな大地は,マッシモ・カッチャーリの言うアーキペラゴ(群島)のように,一元的な「意味」に収斂するのではなく複数の「聞こえ」へと開かれているにちがいない.だから,今回「その先に」期待しないわけにはいかないのだ.一歩先のアート&サイエンスに踏み出すことが,ICC が世界に対して確かに負った,次の世紀の最初の課題の一つであるはずだし,責任でもあるだろう.期待を込めて,音に出して,間断なく「次」を問わねばならない.ただよう浮標は最初の島嶼にいかに打ち上げられるのか.


■註

★1 ──柏野牧夫「聴覚:現実を創る暗黙の知性」
『InterCommunication 』No.25 ,1998 ,142 −149 頁.

いとう・けん──1965 年東京生まれ.作曲=指揮,ポイエシス・エピステモロジク.身体と環境の動力学的基礎研究に基づく独自の活動を内外で展開.既成の枠を超え,磯崎新,M ・カニングハム,大野一雄ら多方面のアーティストと積極的に共働.読売日本交響楽団レジデント,東京大学情報学環・学際情報学部助教授.


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