日本のリアル

二次元の風景に囲まれて

村上──さきほど香山さんが,「オウムはアニメ的だ」とおっしゃったけれど,それに合意します.僕のテーマになっている世界観は,すごくフラットな,ぺちゃんこなリアリティというものです.それが僕がアニメを見てきた世界での一つの答なんです.世界は広がっていかなくて,ぺったりしている.それを,オウムがあそこまでラディカルに遂行したということから何かを読み解けるのではないかと思った.僕はずっと仕事としてアートをやっていますが,いままで誰も解釈できていない,そういうぺったりとした状況をどうプレゼンテーションするかということが,アートという西洋社会内の枠組み内的世界で勝てる手段だと思うんです.日常生活がフラットだなんてみんな思えていなくて,ある種空間感のある世界で生きている.そしてそのなかでのアートとして,コラージュとかインスタレーションは日本において消費されているんです,それは日常のなかにあるという空間設定ができるから,消費できるアートということになるんですね.しかし,本当はそんなものは新しくないし,それこそが日常なんだと思います.僕はもっとラディカルにやりたいんだけど,やりつづけると不幸になっちゃうんです(笑).

香山──フラットな見え方ということで言うと,「解離」という病理的装置を作動させてしまう人がすごく増えていて,その代表的疾患に離人症というのがあります.一言で言えば周囲や自己への現実感が乏しくなる病気なんですが,本当に目の前の風景がのっぺりした絵にしか見えないと言うんですね.遠近もわからないという人がいて,山を見ても,小さい山にしか見えない.あれは小さいから遠くにあるんだということがわからない.

村上──でも,いま言われたことは僕にとってすごくリアルですよ.それって病気なの?(笑) でもそれが,僕には表現の手段としてアドヴァンスになっている気がするんですけどね.アニメーションやゲームでは,山が小さく見えるとか,絵にしか見えないという世界が,延々と繰り返されているわけじゃないですか.日本のアニメーションの歴史は,フラットな状況を作りつづけるということをやってきた歴史だと思うんです.もちろん,宮崎駿みたいに予算と技術力をもつと,それをなんとか切り離そうとするんだけれど,結果として異常な空間感を作っているだけで,きわめて日本のアニメに独得なフラットな画面に戻ってきてしまう.例えば《もののけ姫》で,背景がすごくよく描かれていてそこだけ別のリアル次元が出現してしまって,制作者の混乱そのものに見えてしまったりする.一方,庵野秀明さんみたいに,自分のオタクの居場所をセッティングした人の映像は,しっかりとそういう二次元と三次元の設定が表現されているんです.

香山──解離がなぜ進むかと言えば,単純に眼の機能が悪くなったとかではなく,二次元に見えるものを遠近法などの知識も利用してイマジネーションで三次元に見せるというエネルギーが衰退しているからだと思います.というのは,目の前の風景が二次元にしか見えないという症状のほかに,自分自身の連続性も失われてしまうと訴える人もいるからなんですね.「昨日の私と今日の私が同じ私とは思えない」と言うんです.じゃあ「同じ私」とは何かと考えると,じつはそこにも特別な根拠はないんですけれどね.普通は,昨日の私と今日の私は,同じ家に住んでいて同じ家族に囲まれているし,これは同じ人間だろうと考える.それは生まれたときから当たり前にある感覚ではなく後から知的に獲得した感覚なのではないかと思います.「私」が連続してひとまとまりの存在であるということは,本当はちっとも当たり前の感覚ではなくて,一所懸命頭を使って考えないと,「私」は「私」ではないんじゃないかと思います.

村上──でも一般的に,きちんと日常生活を送っている人は,そういう連続性がしっかりしていますよね.

香山──それは,一応精神医学では,私が連続して私であることは「自明である」と言われてきて,いままでは,それが失われるのは分裂病だけだとされてきたんです.ところが,いまはその病態がもっと広まっているように思えます.そういう状態に陥った人に高度な教育をと言っても不可能ですよ.昨日の私と今日の私が違うとか,目の前が絵なのかリアルかわからないということで悩んでいるんだから…….

村上──僕のように最近全然テレビなんて見なくなった人間でも,目の前にめくるめくインフォメーションが増えていくと,そのほうがリアルだなと思いますもん.でも,「私が昨日と今日では違う」なんてところまでは逆に想像力が働かない.UCLAで客員教授を3か月間やったことがあるんですけれど,学生はみんな頭がよくてエリートで,その学生と対峙するときに頭脳戦のレヴェル差があって,こっちからコンセプトで攻めようと思っても攻められない.逆に,僕が「この作品は運があるね」とか言うと,みんな「なんですかそれは」とキョトンとしつつ,「オオーッ」て感動したりしてたんです.

香山──東洋の神秘みたいに受け取られたんでしょうか.運の根拠は何かとは尋ねてこないんですか?

村上──作品が良い/悪いというのは歴然としたテクニカルなレヴェルではあるんです,しかし,美術教育として,その歴然としているさまを説明するのは,きわめて日本的スキル主義なのであえてUCLAでは言わなかったんです,そうではない良し悪し,本質としてのレヴェルの高低の説明はきわめて難しい.例えば「HIROMIXの写真はすごくいいけれども,同世代の若い女の子の写真は確かにHIROMIXに似ているけれどもよくない」と言うことは,ある意味で作家性に降りていく話になってしまう.作家が何かの道具を使って作品になりうる瞬間を拾い上げるときは,スポーツ選手のトリック・プレイよろしく説明しづらいですよね.だからそれを「これは運がよかったね」と言うのは,「タイミングが合ったね」ということで説明したんです.

香山──それはアウラみたいなものとは違いますか?

村上──違います.何かテクニカルに運を拾ったみたいな感じです.UCLAの学生たちは,全部頭で解析できると思って大学を卒業したんだけれど,やっぱり解析不能なものがあるのではないかという疑問を投げかけてアートの世界に入ってきた学生ですからね.僕は全然ロジカルに説明できないですが,そこをアドヴァンスと考えて,引っかきまわしてきたらずいぶんリスペクトされちゃいました.日本だと芸術大学の学生の資質はむしろ逆でみんなおバカさんだから,何もそういうものに頓着しないで,自分の無意味な才能を信じて,ひたすらスキル至上主義でモノを作りつづけていますよ.

香山──アートならいいのかな.でも逆に言うと,それが広がりすぎて,もともとロジックでいくはずの世界までも「ラック至上主義」があるような気がします.例えば私がいま一番困っているのは,カウンセリングの場で会った瞬間に「先生,僕のことわかりますよね」とか言う人がいるんです.もちろんわかりはしないから「わからないです」と言うと,そこでがっかりしてもう来なくなったりする.いまウケているセラピストというと,ちょっと顔を見ただけで,適当に「君のお父さんかおじいさんに大酒飲みがいて苦労したでしょう」なんて言うわけです.するとだいたい親戚のなかには一人くらい大酒飲みなんているから,「どうして私のことがわかったんですか」なんてなってしまう.私の弟は,ナンパするときには必ず女の人に「君は元気でがんばってるけど,本当は無理をしていて,家では暗く落ち込んでいるときもあるよね」と言うんだそうです.すると全員,「どうして私のことがわかるの」と言って成功するそうです(笑).でも,ナンパとかはいいですが,カウンセリングなどでそれをやるのは問題です.いま「前世療法」というのがすごく流行っているみたいですが,「ラックを当ててくれ」と言う人たちは,フラットな世界に何か違和感があって,前世だとか,非常に奥行きがあったり時間軸が無限にあるような言い方にすごくリアリティを感じてしまうのだと思う.

村上──以前,荒川修作さんと中沢新一さんの公開対談を聞いていたら,突然荒川さんが「いま,四十二次元の世界で誰かが死んでいるかもしれない」なんて言っていました.でもそれはすごく面白かったんですね.「この人は何言ってんだろう」と(笑).そうしたら,中沢さんもみんなもうなずいていて,僕だけよくわからなかった.でも,みんなはそういうことで何かをわかりたいんだろうなということは何となくわかりました.

香山──でも,そういうのはすごく変ですよね.フラットな世界にちょっと限界ができると,全体に奥行きができるのではなく,異常な時間軸につなげてしまう.人は100年くらいの単位で歴史を実感できて,自分というものも連続している,という前提の下で精神分析やカウンセリングをやってきたわけですが,いまその前提が崩れています.だから本当にやりにくいですよ.

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