その眼が赤を射止めるとき/トリン・T・ミンハ・インタヴュー

 

リピット──あなたの映画では,映像がとても美しく――『ナショナル・ジオグラフィック』も到底かなわない――目を奪うばかりの美しさなのですが,これはまさにいまあなたがおっしゃったことの結果なのかもしれません.映画作りのプロセスについてあなたがおっしゃったことから,崇高さの道理といったものがよくわかるんですね.つまり,映画作家とは,自分が扱うメディアやテーマに精通しているところを押し出すのではなく,むしろ映画を作るプロセスのなかで我を忘れてしまうものである,と.これは己の技や主題を熟知し,己のいる場を心得た達人こそが映画作家である,という一般的な見方とはかなり違うんです.最初の身ぶりや最初の動作を選ぶのが普通だとおっしゃいましたけど,それはつまり,映画作りという行為のなかで,自己を雲散霧消させているというか,我を忘れているということなんですね.こうした雲散霧消と出くわすことによって生まれた映像が,パンとかティルトとか,練習によって熟達した技をこれ見よがしに使ってみせた映像よりもはるかに美しい,という結果に終わることだってあるわけです.

トリン──ただし,人は普通,あなたが力説していただいたようには考えないものなのです.でも,私にはあなたがお使いになった表現がとても身近に感じられます.「我を忘れる」――そうすれば,ほかのものはすべて手に入る.つまり,ただ忘れているだけじゃないんですね.このような映画作りのプロセスを言葉にしようとすると,すぐにそれを自発性とか個的な主観性といった観点から読み解こうとする人が出てきます.最初の身ぶりのほうが確かに誠実だ,と考えてしまう.自発性が生まれる瞬間というのは,モダニズムの芸術にとっては概して神聖なものでしたが,そこにも限界はあるんですよ.自発性に免じて手を打ってしまうことがある.それに,自発性があるにもかかわらず,意外なことや新しいものに出会おうとせず,個人主義でいうところの自我をいかにして形に表わすかということしか考えてない場合が,とても多いんですね.

リピット──自発的な身ぶりへの幻想こそが,ありのままの純粋な自分というものを出現させるんですね――本当の自分は,何物にも気を留めない自発性のなかでこそはばたける,と.ところで,もう一つあなたの作品で印象的なのは,映像だけでなく音においても,自然のままの音もあれば,人為的に合成して仕上げた音もあるというふうに,揺るぎない緊張感があるという点なんです.流れに乗ってきたかなと思った途端,音が途切れるということがよくある.

《核心を撃て》で言えば,確かにいろいろなところでこうしたことが起きているように思います.例えば,中国人の映画作家にインタヴューするところでは,芝居のような演出をしているのがわかる.自然を活かした表現と人為的な表現とのあいだに生まれる緊張感を,自分のもっているスタイルの一つと見ていらっしゃいますか.それとも,こうした緊張感を,自然とか自然主義とかありのままの姿という考え方と,ものを考え,論じ,映画にする――すなわち「何かに寄り添う」――というプロセスとのあいだで交わされる対話というふうに見ていらっしゃいますか.

トリン──どちらでもありませんね.私自身の言葉で言わせてもらえば,ありのままに見えるものも,演出を施したように見えるものも,どちらも一つのプロセスのなかに含まれているということになるでしょう.表現という観点から映像を見れば,私は単に「中身」を表現しているだけでなく,「機能」とか「条件」と呼ばれているものを表に出していることにもなるんですね.《核心を撃て》では,翻訳者の手を介して映像が生まれています――中国人の映画作家にインタヴューするときは,文字通り通訳がいますし,ナレーターの言葉のなかにも,また中国のイメージについてものを書き,編集し,撮影をした私自身の言葉のなかにも,翻訳者の存在を感じ取ることができます.作り手も観客も,文化への「出場権」を得るためには翻訳に依存しているということが,映像=音のなかにはっきりと現われているんですね.このようなもちつもたれつの関係が目にも耳にもはっきりと感じられると,ある面では作為的のように映ってしまうかもしれませんが,意味やイメージを生み出すプロセスにおける働きという点から考えれば,この関係はごくごくあたりまえのことなのです.

現実を介して映画を生み出すうえで,「中身」を語ろうとするばかりに,機能や場の重要性を忘れてしまうと,この「あたりまえの」プロセスそのものが作品のなかで徹底的に抑え込まれてしまうのです.インドの哲学者クーマラスワーミが語ったように,人に自然のマネなどできない.人はただ自然の動きに従って動くことしかできないのです.この言葉を鑑みるに,あなたがおっしゃった(一つはありのままのもの,もう一つは人為的なものという)二つのありようは,結局同じことなんですね.主観の作用に目を向けるのも,作品のなかでものを作っているところを見せるのも,事実をありのまま忠実に伝えるものとして映画を考えているからなんですよ.私には,この二つが別のものとは思えません.最初に作った4本に関しては,いまの話がおおむね当てはまると思います.

《愛のお話》については,細部に至るまですべてを練り上げていますから,状況が違います.とはいえ,ジャンルや物語性の――あるいは,演技をしたりものを消費したりする際の心理をリアルに描く――伝統を断ち切るための方法こそ以前の作品とは対照的ですが,最新作が目ざしている方向もつまるところ,これまでめざしてきたものの延長なんですよ.

(以下次号)

[1998年10月8日,バークレー]


トリン・T・ミンハ
ベトナム,ハノイ生まれ.
作家・映画監督.カリフォルニア大学バークレー校教授.
映像作品=《ルアッサンブラージュ》《姓はヴェト,名はナム》《核心を撃て》など.
アキラ・ミズタ・リピット
1964年生まれ.
映画史,映像論.サンフランシスコ州立大学映画学部助教授.
とちぎ・あきら
東京国立近代美術館フィルムセンター客員研究員.
元『月刊イメージフォーラム』編集長.

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