その眼が赤を射止めるとき/トリン・T・ミンハ・インタヴュー

 

リピット──最近あなたの映画を見直してみて,いまお話になったことともつながるんですが,フレーミングに対する感覚がおもしろいなと思ったんです.作品ごとに違いはありますが,ありふれたものを目新しく見せたり,変わったもの,未知のものにすら見せるような独特の傾向があるんですね.とりわけ《ルアッサンブラージュ》のことが頭にひっかかっているのですが,あの作品で人が目にするものは,すでに文化上の表現形式にもなっている映像ですよね.しかし,見た目があまりにも違うので,そこにフレーミングに対する一定かつ周到な判断が働いていることに気づかされる.それはおそらく,あなたが前におっしゃった境目とか境界ということとも関係があると思います.バランスや均斉を保つという慣習に則ったフレーミングが行なわれていない.フレーミングについての考えを聞かせていただけますか.

トリン――いろいろな方向に話を進めることができると思いますけど,まず《ルアッサンブラージュ》が上映された当時の話からさせてもらうと,これは仕方がないことなのですが,どの上映会でも,この映画を『ナショナル・ジオグラフィック』作品と結びつけて絶賛するか激怒するお客さんが,何人かは出てきました.アメリカ,ヨーロッパ,アジアを問わず,このような反応を受けることは,いまでもたまにありますね.『ナショナル・ジオグラフィック』で働いている人が会場に来たこともあるんですが,開口一番「こんな映画,うちじゃムリだな」って言ってましたよ.  この映画を見た人のなかにはときに,田舎特有の風景や非西洋世界の人里離れた地域を舞台にした(日本の映画界ではよく「民族映像」と呼ばれている)作品というだけで,また明々白々な政治綱領を掲げていない,明るくカラフルな映像というだけで,あのよく目にする『ナショナル・ジオグラフィック』の映像とそっくりな映画だなと思ってしまう人がいるんです.声を荒らげてそんなことを言われたときには,こんなふうに答えてやりましたよ――赤い色ならどんな赤でも同じに見える人もいます.薔薇の赤もルビーの赤も赤旗の赤も,赤には違いないという人もいます.目には見えねど流れている,生あるものの血の赤も,断末魔に激しく飛び散る血の赤も,赤には変わりがないという人もいます,ってね.

それでも見ている人の多くは,最初は『ナショナル・ジオグラフィック』風だと思っていたものが,映画が進むにつれ,要領の得ない悩みの種にまでなってしまうことに自分から気がついてくれるので,うれしいですね.
映画を見てから何日も何週間も経ったあとでさえ,見たときの感じが気づかぬうちに膨らんでいって,予期せぬ見方や方向へと風穴が開いていくようだと話してくれます.
私からすれば,これは主に撮影とフレーミングのプロセスによるところが大きいのですが,前にもお話したように,映画を撮る主体と映画を成す要素とは常に撮られる主体の掌中にあるんですね.ヨーロッパの観客なら,私の映画をヨハン・ファン・デル・コイケンの映画と結びつけて考えるでしょうが,それはそれでかまいません.彼は真の「フレーミング狂い」の一人として有名な人ですけどね.私のほうは,構図にはそれほど関心がないのですが,あなたのご指摘どおり,画面の縁とかへり,端といったものはとても意識します――それは,今日のデジタル技術なら変更も簡単な方形の領域であるという点だけでなく,映像制作や関係形成に本来備わっている活動としてフレーミングを捉えるという,広い意味においてもそうなのです.
建築家であるジャン=ポール・ブルディエと仕事をすることで,私はいつもカメラをどこに置くか,カメラと一緒にどう動くか,という判断に応じて空間を眺めるように駆り立てられてきました.《愛のお話》には,この点がはっきりと現われていますね.《ルアッサンブラージュ》や《Naked Spaces》のほうは,たいてい直観的にカメラを地面すれすれのところに置いて撮ったのですが,アフリカの村ではこの高さで日々の活動が行なわれているんですよ.こうした判断が映像に大きな力を及ぼすわけですが,フレームそのものは撮影中の自分の気持ちに従って決めています.

例えば,おもしろい素材を発見しパンニングしたいなと思えば,すぐれた撮影者ならたいてい,ものからものへの移動が間違いなく確実にいくまで,その身ぶりを練習するものですよね.でも私の場合,準備運動は一切せず,一つの眼――ヴェルトフの言う映画眼――だけを使って撮影するのが普通なんです.

同じ素材を一度ならず撮ることもままありますが,必ず最初のものがベストだったという結果に終わりますね.同じ身ぶりを繰り返していると,人は次第に自信をつけてくる.ほとんどの撮影者にとっては,しっかりとした身ぶり,スムーズな身ぶりこそが大切なわけです.でも私には,カメラのレンズを通して目にしているものと初めて出会ったときに感じるためらいとか,いろいろなことのほうが大切なんですよ.予想もつかないような姿を見せる相手.遮眼帯をつけられ,相手の動きを目で追えなくなったかのように,カメラはただ身体の速度というか,パンニングする速度に従って動いていくだけ.こうした半ば盲目のまま目を凝らしている状態こそが,おもしろいなと思うんですね.私が撮影した作品では――相手の出方を窺えるよう,片方の目はレンズとフレームのなかに,もう一方の目は外に置いて――両目で見るといった規範に盲従するのではなく,カメラを通してしか現実を見ることのない眼だけにわが身を委ねることにしました.何かに向かっていきながら,思わず何かをたぐりよせてしまうような眼差しには,そもそも捕まえたいという気持ちがない.一手打つ,ただそれだけを続けていれば,フレームという時空に入ってくるものは見えてくるのです.

演出に力を注ぐ必要から,カメラ担当者とともに作業することになった映画もあります.その際の取り組み方については話しにくいんですね.私の場合,必ずカメラ・オペレーターと話し合って決めていますから.

ただし,《姓はヴェト,名はナム》にしろ《核心を撃て》にしろ,また《愛のお話》のようなフレーミングの厳しさが一段と増す劇映画ならなおのこと,撮影者の腕の確かさを厄介払いするわけにはいきません.自分が撮らない場合は,これもまた大切な要素になる.何はともあれ,映画を制作行為として体験してもらうのに力を貸してくれる要素にはなりますからね.知ったかぶりをしないというのは決して手練手管などではなく,一つの態度なんです.それに,撮影者には撮影者なりのものがあり,たとえ自分からフレームを決めていなくても,そこに生まれる動きやリズムや確かさはどれも撮影者によるものなんですね.

こうした側面を制作過程における撮影者の貢献とみなすことは,それぞれの人が別個の空間を作り上げているのが映画だということにほかならないわけです.あなたが手にしているものは,言ってみれば,映画作家のあてどない歩みとオペレーターの洗練された技とのあわいにあるものなんですよ.

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