シンポジウム/ルイジ・ノーノと《プロメテオ》

「非オペラ」としての《プロメテオ》

ラッヘンマン──三つのことを言いたいと思います.浅田さんがシュトックハウゼンの《グルッペン》について語られたのは,この作品の中でのわずか19秒間くらいのことですけれども,この《グルッペン》は25分もある作品であることを忘れてはならないと思います.確かに金管の和音が3方向から鳴り響く瞬間があるわけですが,この瞬間はこの作品の中で最も月並みな響きが実現されている部分です.同時に,複雑な空間現象が最もはっきりわかる瞬間でもあります.ノーノとシュトックハウゼンの関係はアンビヴァレントでして,イメージしていただきたいのですが,子供が模型機関車のスイッチを前に置いて,機関車を自在に,まるで神のように操っているときのような感覚,喜びをシュトックハウゼンが楽しんでいた時期というのが,ちょうど浅田さんがお話になった作品が書かれた時期なのです.ノーノにそういう時期がなかったかというと,じつはノーノもシュトックハウゼンから20年後に,コンピュータや機械を前にして自在に音を操る子供のような喜びの味をしめてしまった,ということが言えると思います.私はノーノのもとで学んだ作曲家ですから,ノーノに近いことは確かですけれども,お話にあったようにブーレーズ,シュトックハウゼン対ノーノというような対立構造の中でこれらの作曲家について語ることについては,私は問題があるのではないかと思います.シュトックハウゼンがもっていた空間のコンセプトは,まったく新しい時間のコンセプトでもあります.このことについて話すと長くなりますので,この話は終わりにしたいと思いますが.

 ブーレーズやシュトックハウゼンが外に外に発展していったのに対して,ノーノは内側へ内側へという動きをみせていった,という浅田さんの指摘にはまったく同感です.その際大きな問題は,ノーノの作品あるいはノーノ自身を変に神秘化してはならないということです.彼の作品の構造はじつは信じられないほどシンプルです.しかし彼は,構造をいろいろと駆使して発展させていったというよりは,構造そのものの知覚や,いままで聞こえなかった構造というものを可能にしたと言えるでしょう.

《断片=静寂,ディオティマへ》の中には山のようにフェルマータ[★20]が書いてあって,23秒とか細かく秒数が書かれています.初演したのはラサール弦楽四重奏団[★21]でした.この初演のときにラサールの面々は弓をゆっくりゆっくり動かすことによって何とか23秒間音を保たせようとしたのですが,ついに最後で弓が足りなくなってしまった.まるでシューマンのゆっくりとした作品の終わりのように,音を揺らしながら,少しずつ少しずつ経済的に弓を使って,最後の音を鳴らしていったのですが,弓が最後までなくなってしまったにもかかわらず,23秒もちませんでした.その後,アルディッティ弦楽四重奏団[★22]がこの作品を演奏するということをノーノが知ったとき,ノーノは「彼らにこの作品を演奏できるはずがない,彼らには理解できないだろう」と私に言いました.ところが,フライブルクでの公演を聴いて,ノーノは私のところに来て,非常に感激しておりました.「アルディッティは,作品を解釈=演奏したのではなく,自分が考えていた音楽を実現した」と.ところが,アーヴィン・アルディッティは私にこう言いました.「23秒音を弾かなければいけない.弓の長さは約87センチある.単純に割ればよい.だいたい1秒あたり3.2センチくらい弓を微妙に動かしていけば,23秒もつだろう」(笑).アルディッティは正確に弓を見て,1秒で3.2センチずつ弓を弾くようにしていったわけですけれど,その結果,折れたような,ふるえるような,いろいろな音が新しく出てきた.ノーノは私にこう言いました.
「これでようやくここで出されている音の構造そのものの中にわれわれは入り込むことができる.ラサールはこの作品をまるでヴェーベルンのように弾いてしまった.アルディッティは,音の中に含まれている構造を明らかにし,広げてくれた」.この一つの響きの内側へ内側へと浸透していくような動き,すなわち響きの解剖学は,音楽の本質のある部分を体験することであり,ノーノ独特の世界ではないかと思います.そして,ノーノのこの世界は,《プロメテオ》の中でも聴きとることができる.

 また,長木さんがオペラと呼ぶのはおかしいのではないかと言われましたが,確かにこれはオペラではありません.逆に,非オペラであるからこそ日本の聴衆にとっても受け止めやすい作品ではないかと私は思います.私は日本の哲学者の西谷啓治[★23]の考えが好きなのですが,自己の中に,その同一性の一部として非自己を含めるという考え方,それに近いものをこの作品を聴いていて感じるのです.《プロメテオ》は非オペラであると言いましたが,オペラという従来の空間から飛び出していってしまう,そういうオペラではないかと思います.さきほど巨大なマドリガルと言いましたが,あまりにも巨大すぎて変形されすぎて,これはもう音楽と呼べるのだろうかというところまで行き着いてしまう作品ではないか.この作品は非オペラであると同時に非音楽と呼べるのではないかと思います.なぜならわれわれが音楽と呼ぶものには,リズムがあり,ハーモニーがあり,従来の音楽的要素が含まれているわけですが,そういうものを一切排除した上で成り立っている作品ではないかと思います.
この作品を聴いていますと,非常に原始的な音の体験に近い体験をすることができる.それは音楽という概念がもはや正当な形では成り立たない所での,実在的な聴取の場所です.われわれ作曲家は日々過剰なくらいいろいろな音に囲まれ,いろいろな音楽を聴いて生活をしています.あまりにたくさんの音楽に囲まれているがゆえに,音楽というものに対して嫌悪感すら感じてしまうことがあるわけですが,嫌悪感を感じている私たちを非音楽であることこそが新たな音の展望に導いてくれる,そういう作品ではないかと思います.そこには磯崎さんによって可能になった空間のほか,粉々にされた音の内側の空間も含まれます.アモルフなクラリネットの音,そこに高貴とも言える歌が加わり,まったく新しいコンテクストが形成されるのです.

浅田――いまのラッヘンマンさんの最初の二つの指摘に関しては,ほぼ完全に同意します.さきほども言ったように,一方にエクステンシヴな空間,他方にインテンシヴな空間と分けるのはいささか暴力的な区別なので,本当はもっと繊細な議論が必要です.そもそも,ある人を語るとき,どうしてもコントラストのために他の人を批判的に語ってしまいがちになる.
いま,たまたまノーノについて話しているので,ブーレーズとシュトックハウゼンに対して単純化が過ぎたことは認めます.ブーレーズの作品が驚くべき完成度をもっていることは認めざるをえないので,電子的な変換を使った作品でも《…爆 発 / 固 定…》[★24]などはじつに美しい.シュトックハウゼンも偉大な作曲家であり,今度秋吉台でも演奏される最初期の《コントラ=プンクテ》[★25]などは,いま聴いても昨日作曲されたのではないかと思えるほどに厳密で清新な美しさにあふれている――だからこそ,その後のメガロマニアックな肥大が残念に思えるのですが.そういうことをふまえたうえで,あえて彼らとノーノの空間概念を比較するとすれば,さっき言ったようなことが言えるのではないか,というぐらいのニュアンスで聞いていただければと思います.

 それから,二つ目の指摘は非常に重要だと思います.つまり,ノーノが音の内側を覗き込んでいったということを神秘主義と混同してはいけないということです.ノーノに関しては安易な紋切型があります.彼は昔は戦闘的な共産主義者として政治的な音楽を作っていたが,それは《愛に満ちた太陽の光の中で》でピークを迎え,その後,70年代後半からだんだんメランコリックな内省に向かっていって,《断片=静寂,ディオティマへ》や《プロメテオ》のようなところに行き着いた,と.要するに,政治的なものからの転向ということです.確かに,そういう節がまったくないわけではない.しかし,ラッヘンマンさんが言われたように,そこにある隠れた連続性のほうを強調すべきなのではないか.例えば,ごく初期に,ノーノはガルシア・ロルカ[★26]の詩に基づくいくつかの作品を作っています.
もちろん,ガルシア・ロルカがファシストに惨殺された詩人だということは重要だし,詩の内容も重要です.ただ,87年に日本に来たときの講演「現代音楽の詩と思想」(『現代音楽のポリティックス』水声社)で,ノーノはロルカの詩の「verde(緑)」という言葉を取り上げて,詩人が「r」という音をいかに強調し,それによって「verde」という言葉の中にいかに切断を導入しているかに注目している.そこから話が飛んで,フィデル・カストロの演説でも,やはり「r」がそのような切断力をもって使われている,という話になる.ロルカの「r」,あるいはカストロの「r」の中に,ノーノはある種の政治を見ていたわけです.たんにプロパガンダとして革命的なテクストを音楽にするということではないんですね.ノーノの音楽が政治的だったとして,本当はそれは最初からそういうレヴェルの政治として考えるべきなのではなかったでしょうか.

 逆に,70年代後半以降の作品も,政治から内省へと転向したと考えるべきではない.しかも,内省的なものを神秘化してはいけない.これは非常に重要なポイントだと思います.《プロメテオ》の中にはヘシオドスの『神統記』をはじめとする神話のテクストがたくさん出てくる.しかし,神話的源泉へ単純に回帰するということではない.それを端的に示すのは,神話的なテクストがベンヤミンのテクストと並列されているということです.ベンヤミンが「根源(Ursprung)」というのは,リニアな歴史を溯っていけば回帰することのできる単一の「起源」のことではない.
彼は,30年代のファシズムの高まりの中にあって,「救いは連続的なカタストロフィの中の小さな亀裂にかかっている」と言っている.まさにそういう切断面の断層において見えてくるものを,ベンヤミンは「根源」と呼んでいたのです.彼が絶筆となった「歴史の概念について」の中で言う「かすかなメシア的力」は《プロメテオ》の基本的なコンセプトの一つですが,それもまたこういう文脈で理解すべきものであって,来たるべきアポカリプスにおいて待ち望まれる絶対的なメシア的力とはかなり異質なものだと言うべきでしょう.

 同じことを少し違う角度から言うと,ノーノとカッチャーリがハイデガーではなくベンヤミンを選んだ,そのことは決定的に重要だと思います.ラッヘンマンさんが日本の思想,とくに西谷啓治の思想に触れられましたが,西谷は西田幾多郎[★27]の高弟で,西田のテクストがあまりにも謎めいているので西谷が明快に解説してくれるとわれわれにもよくわかる,そんな位置を占める人です.
そして,西田自身は,ドイツの文脈で言うと,ハイデガーに対応する――理論的にも政治的にも対応すると言えるでしょう.西田のいう「無」はハイデガーでいうと個々の存在者とは区別される「存在(Sein)」になる.そこで,「無の場所」とか「存在の場所」とかいったものを神秘化し,われわれが生きているアクチュアルな存在者の世界の向こう側にあって長らく忘却されていたそうした場所へ帰っていけばいいかのように語るとき,問題が起こる.それは理論的にも反動的だし,政治的にも日本の軍国主義やドイツのナチズムを間接的にではあれ正当化する役割を果たした.その意味においても,ノーノとカッチャーリがハイデガーではなくベンヤミンを選んだことが重要だと言ったのです.超歴史的な場所に安易に回帰するのではなく,あくまでもアクチュアルな歴史過程の中にとどまりながら,そういう時間の流れが一瞬切断されるときに露呈される垂直な断層にそって「根源」を立ち上がらせようとする.とすると,エクステンシヴな空間の中でリニアに展開される物語をもったオペラが否定されるのは当然です.彼らは,負のオペラ,虚のオペラというふうな言い方もしていますが,まさにそういうものとして《プロメテオ》を考えられるのではないかと思います.

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