シンポジウム/ルイジ・ノーノと《プロメテオ》

「聴く悲劇」の意味

アンドレ・リヒャルト(フロアから)──私個人としては,《プロメテオ》は非オペラであると言ってしまうのは,ちょっと間違いではないかと思います.この作品には「聴く悲劇」というサブタイトルがついています.この作品の中で,テクストがもっている役割は非常に重要なものだと思います.もちろん,テクストをなぞるようなかたちで音楽がつけられてるわけではありませんが,このテクストを抜きにして,この作品を語ることはできません.

 初演のプログラムにカッチャーリは,ノーノが《プロメテオ》を通して,動力学や視覚によって音楽が支配されている状況から音楽を解放したかった,と書いているのです.空間は音楽のためだけに奉仕すべきだということです.

 《プロメテオ》ではもちろん,舞台に立っている演奏家が目に入ってきます.そういう意味では視覚的な部分が皆無ではありませんが,舞台上の動きは複雑な聴取に影響を与えることはないわけです.例えば,和声だけとりあげてみても,あるグループかそのある音が,次にどのグループのどの音に関連してゆくのか,という音の運動があまりにも複雑なのです.一つの例を紹介しますと,私は,以前に合唱の指導をやっていたので,ノーノから第一ソプラノとまったく同じ声質の合唱者を三人集めてきて欲しいと頼まれました.こうして第一ソプラノと同じ声質の女声合唱が成立しました.この合唱は古代の神話を語るという役割と,カッチャーリによってアレンジされたベンヤミンのテクストを語るという二つの役割を担っています.

ソリストはベンヤミンのテクストしか歌いません.そして,アルトの場合もまったく同じように,アルトのソリストと同じような声の質をもつアルトの合唱のグループ,テノールの場合はプロメーテウスの役割があるので例外なんですが,同じソリストと,同じ声の性質をもつ合唱をその場に置くことによって,ソリストはベンヤミンのテクストだけ,合唱は古代のミトロギーを語ると同時にベンヤミンのテクストを語る.それが同じ空間の中でミックスされていくことによって,どこがソリストでどこが合唱なのか,この区別が耳で聴いていてだんだんつかなくなってくる.つまり,音源はソリストと合唱と二つあるのですが,音源の性質が似ていることから,それが同質のものとして響いてくる.非常に興味深い試みがここでなされています.

例えば冒頭では「ガイアが大地を生んだ」という言葉が合唱によって歌われるわけですが,このあと「神話」の部分はさまざまなハーモニックで歌われていく.それぞれのソリスト,それぞれの合唱のあいだ,そしてオーケストラ・グループのあいだに同じ音を介した内的な関連性がはりめぐらされています.そのように音楽的に複雑であるがゆえに,視覚的な要素,束縛からこの作品は救済され,そこから自由になったと言えるのではないかと思います.そういう意味で,なぜ私がこの作品が非オペラであるという考えに同意できないかというと,この作品は確かに視覚的なドラマトゥルギーをもたないけれど,響きのドラマトゥルギーはもっているのです.その響きの中で,テクストが非常に重要な意味合いをもっている.聴覚的なドラマトゥルギーは存在するのだから,これを非オペラと呼ぶことは問題があると思います.

磯崎──そのまま,彼に質問をしたいと思います.今回の上演の前にブリュッセルで《プロメテオ》が上演され[★28],その演出をロバート・ウィルソン[★29]がやったと聞いております.その後にたまたま僕はウィルソンに会いました.彼にどうだったと聞きますと,あまりしゃべらなくて,だんだん酔っ払ってきて,とうとうこれ以上酔っ払えないんじゃないかという頃に,どうもあれは,舞台にかけちゃいけなかったのかな,というふうに言いました(笑).

それをやった経験をお聞きしたいと思います.ロバート・ウィルソンは,まさに視覚的なもので自分の表現をしている人なので,この人が視覚的なものを拒否した作品を演出するということは,もしできれば,大変に面白い演出になったはずだと僕は思っていますが,どういう結果だったんでしょうか?

リヒャルト──デリケートな質問ですね.人生の中には,やむをえず受け容れなくてはいけないことが数多くあるわけです(笑).このときは,たまたまブリュッセルで8回《プロメテオ》を上演できるというラッキーな状況に恵まれたのですが,その条件として,コンサートホールではなくオペラハウスでやらなければならなかったのです.じつはノーノ自身,この作品をユルゲン・フリム[★30]とともに舞台化しようと試みたことがあったのですが,話を重ねていくうちに不可能であることに気づいて,この計画を放棄してしまった.ウィルソンにこの話を何度もしたのですが,最終的な決断を下すのは私の権限ではありませんので,結局《プロメテオ》を上演しましたが,これは失敗でした.二度とこのような失敗が繰り返されないように,これから注意するしかないでしょう.
ただ,正直に言って,演奏も演出も出来はよくなかった.失敗した公演だったと思います.視覚的な演出によって演奏を邪魔され,演奏そのものがだめになったということを演奏家から言われたのも事実です.

ラッヘンマン――《プロメテオ》は非オペラであって,反 オペラではないということをここで言っておきたいと思います.非オペラというからには,そこからポジティヴな出発点が見られるわけで,いまアンドレは「響きのドラマトゥルギー」と言いましたが,これは別にノーノに限らず,マーラーにもベートーヴェンにも存在する.そういう意味で,響きのドラマトゥルギーというのは,《プロメテオ》プロパーのものではない.それと,テクストの重要性ということを言われましたが,《プロメテオ》をすでに私は7,8回見ていますが,このテクストは正直言って,音を聴くだけで意味論的な理解はできません.

そういう難しいテクストが中核をなしている場合,初めてこの《プロメテオ》を聴きにくるお客さんにどこまでこのテクストが理解できるのかという,大きな問題が提示されるのではないか.そこで浅田さんがおっしゃったように,聴衆はこの音楽を聴くことによって一種の音の旅をすると,取りあえずは受け止めるというのが,自然ではないかと思います.初めてこの音楽を聴いてすべてのテクストの裏に隠された非常に複雑な概念をその場で理解しろというのは,ちょっと無理があると思うんですが.

浅田――これがオペラか非オペラかという問題は,オペラの定義にもかかわるので,アカデミックな議論になってしまうかもしれないですね.ただ,こういうことは言えるかもしれない.視覚的演出の可否という問題は,偶像崇拝の禁止という問題を通じて,われわれにシェーンベルクのオペラ《モーゼとアロン》[★31]を思い起こさせるわけで,その観点から言うと,ノーノの《プロメテオ》は,《モーゼとアロン》が第二幕の終わりで中断された後でオペラは可能か,という問いに対する一つの答えだと言えるのではないか.《モーゼとアロン》で,モーゼは,神の命令,特に偶像崇拝の禁止という命令を厳格に守ろうとする.したがって,彼は,歌うのではなく,シュプレッヒゲザング,つまり語りで表現するわけです.ところが,アロンのほうは,大衆にわからせるためには黄金の羊のような偶像を作って視覚的に訴えなければいけないと言い,そのことを朗々たる歌で表現する.
その両者が二幕にわたって葛藤を続けたあげくの果てに,民衆がアロンの与えた黄金の子牛のまわりでオージーを繰り広げているところへモーゼがやってきて,「言葉よ言葉,我に欠けたるは汝なり」と言って崩れ落ちる.そこで第二幕が終わり,第三幕以降は,シェーンベルクがアメリカに亡命するという事情もあったにせよ,結局,作曲されずに終わるわけです.したがって,それ以後ももちろんいろいろなオペラが書かれてはいるものの,大きな意味でのオペラの歴史は,《モーゼとアロン》が第二幕の終わりで切断されたところで宙吊りになっているとも言えるでしょう.ある意味で,それ以後においてオペラが可能かという問いがそこで立てられた.そして,ノーノが最もラディカルなかたちでそれに答えてみせたと言えるのではないか.偶像崇拝の禁止,つまり視覚的な演出の排除を徹底しつつ,しかも,いかに音を通じて深いドラマを体験させるかという問いに答えてみせたのではないか.

 しかし,このことをあまりユダヤ的なものに引きつけて考えすぎてはいけないでしょう.もちろん,とくに晩年のノーノはユダヤ的なものに大きな興味を示しましたが,それはいわゆるユダヤ神秘主義そのものとは関係がなかったと思います.言い換えれば,彼は,カトリック的なものの本質を最終的に「我信ず(クレド)」という言葉に還元し,それに対して,ユダヤ的なものの本質を「聴け,イスラエルよ」をさらに普遍化した「聴け(アスコルタ)」という命令に集約して考えていたのではないか.「聴け(アスコルタ)」という命令によって,人は,さまざまな他者の声,群島状の空間に分布しているしばしば矛盾や敵対を孕んだ多様な差異にさらされる.そのようにさらされることは悲劇にほかならない.にもかかわらず,その悲劇を通して初めて深い体験が可能になる.そういう意味で,「聴くことの悲劇」という《プロメテオ》の基本概念が出てきたのだと思います.実際,テクスト全部が聴こえるわけではないものの,ところどころで「聴け(アスコルタ)」という命令が印象的なかたちで何度も繰り返される.それを通して自分自身が,ときには残酷な,しかし同時にきわめて微妙な差異に向かって開かれていく.それがこの作品の一つのエッセンスではないかと思うのです.

[1998年8月27日,秋吉台国際芸術村]

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