エクスターズする文化へ
デジタル社会における内包空間の発現

世界に対する不信が発生することが,
宗教をつくりだす根源になっている

──細野さんと中沢さんのお話を聞いていて,霊というものに思い至りました.ギリシア人は「プネウマ」という言葉を使いましたね.フランス語でタイヤのことを「プヌー(pneu)」と言いますが,空気や大気などの「気」のことです.プネウマというのは「魂」という意味でギリシアの人々は使っていました.要するにシャーマニズムというのは根本的に狩猟採集民の中でできたものですから,矢尻をつくりだすということと深い関係にあると思います.死者の霊と出会う場所としての森がありますが,最終的には四つ目の元素である「気」,プネウマにかかると思うんです.声というのはつまり空気を生かすということですね.空気に生命を吹き込むことが声ですから,声によって自分の中にある何か,例えば意識がエクスターズしていくわけでしょう.その一番根本にあるプネウマや空気がいま瀕死の状態にあるという気がします.

中沢──プネウマ,息など,止まることなく動いているものを直感するためには,人間はいま自分をつくっている雑駁なものを取り除かねばならないですね.それから,もう一つ見えなくなっている大きな原因は,信頼(「信」)がなくなっているということではないか.狩猟民たちは,信頼があるんですよ.つまり「森の神」という名前で呼んでいた何かがいて,それが自分たちを生かしてくれる.こいつは信じていい,という感覚があります.

 しかし「信」というのはシャーマニズムとつながっている「信」でしょう.いわゆる宗教が言う「信仰」というのはちょっと違うんです.ユダヤ教の発端を見てみましょう.ユダヤ人同士がモーセに連れられて砂漠へ出ていきました.モーセはエジプトを出るとき,「いいとこがある」と自信たっぷりに言った.カナンの地へ行けば,植物は生い茂り,水は乳のように流れ,ねえちゃんはきれいで(笑),なんてことを言ってエジプトから引き出します.でも行ったはいいけど砂漠ですよ.みんな怒っちゃう.それで不信感の極まりのとき,モーセは大芝居をうったわけですね.このまま行ったら崩壊状態です.だから姿を隠して山の中へ行って,何十日か下りてこなかったのですね.そのあいだユダヤ人たちは不信の塊です.相互不信で神も信じないという状態に陥ったとき,山の上から石版を持ってモーセが下りてきた.で,「みよ,ちゃんと神の言葉がここにある!」ここで契約を結ぶのです.

 しかし,これは「信」のつくり方としてすごくよくないと思う.不信の極まりのあいだに,人間を「信仰」の中にジャンプさせて契約させるわけでしょう.例えば,「イエスが復活した」のも信仰を要求するんですよね.信仰というのをシステムとして宗教をつくっていきますが,その土台にはどうも不信というものが発生している.世界に対する不信が発生することが,宗教をつくりだす根源になっているみたいですね.

 シャーマニズムの文化と言っているものの中には,信頼はあるんですよ.森の神は人間を愛していて,贈り物のようにしてイノシシとかシカなどの食べ物をくれるんです.それだけで人間は何かを「信頼していい」と思ったわけでしょう.浄土真宗だって,何かを「信頼していいんだ」というところから出発してますから,日本人の宗教はキリスト教とかユダヤ教といったものとは違いますね.存在に対する「信」から発生しています.

 それがやはり,この百何年かで風化しましたね.不信に満ちた文明の人たちが機械文明をつくってきて,不信に満ちた文明に席巻されましたから,僕ら自身の心もすごく荒れすさんでしまいましたが,おそらく「気」の動き,プネウマの動きなどの感覚を知覚できるためには,存在に対する全面的な「信」がないとできないと思うんです.どうでしょうか?

細野──神社関係の人がこの前,「神様のことをどうもうまく説明できない」と言うんですね(笑).やっぱりそういう人たちも「信」ってのが足りない,というより全然もっていないね.逆に言えば,ミュージシャンというのはみんなそういうものをもっている.テクノでも,エレクトロニクスをやってる人でも,何か僕は「信」を感じるんだよね.狭い意味で音楽を信じているんだろうけれど…….そこから僕はテクノ系のシャーマニズムという音楽が出てきているのが気になるんです.

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