エクスターズする文化へ
デジタル社会における内包空間の発現

記憶の集積体に包まれながら生きていることは,
死者と同居するという意味もある

伊藤──細野さんが「ヴィジョン・クエスト」という儀礼を行なったところは,洞窟とは正反対の山の頂ですね.早朝未明の,闇から光へ移行してゆく山の頂は,生者と死者が行き交う,すごい力が押しよせてくる場所だと思うのですが,山頂での一種のエクスタシー状態のような体験についてお話しいただけますか.

細野──サンタフェという町自体が標高1500メートルぐらいに位置するところで,そこからさらに登ったので標高2000メートル以上の所にいましたが,あのあたりの地形は本当に不思議で,まず日本では体験できない空間でした.いわゆるテーブル・マウンテンの上に着くと,大草原でまるで天国みたいな感じなんです.ここで昼寝したいな,と思うような所です.苔のようなものに覆われていて,歩くと本当にフワフワして気持ちがいい.まあガラガラ蛇などがたまにいるので気をつけないといけないんですが(笑).結局は,周辺で一番高いところを見つけて,昇ってくる太陽に向かって祈る,というのが最終目標ですね.そして,太陽を必ず追って行かなければならないんです.待っていてはいけない.ですから太陽が昇ったらそれをまた追って,また山をうろうろするわけです.山から力が下りてくるとすれば,だんだんその力の源泉に入っていこう,という感覚がありました.

伊藤──シャーマンは,生きている者と死んでいる者と自然の霊のあいだにある連続性をベースにしていて,精霊と人間のあいだの調停者だけではなく,他界から送られてくるいろいろな力の媒介者になると言われています.中沢さんが強い関心をもたれている山形県鶴岡市のはずれにある三森山では,旧盆明けの一日に多くの霊が集まってきて,その日「姥さまくねり」という奇怪な木像を一年に一回だけとりだして,「モリ供養」というお盆の祭礼をします.その木像をかついで,生きている人がものすごい数の死者と出会うために山に登っていきます.山というのはやはり死霊と通じるすごく特別な回路だと思うんですが,中沢さんにそのことをお聞きしたいと思います.

中沢──「モリ」という日本語の古い語感の中には,やはり死と死者の問題がはらまれているようです.実際に人間が死ぬと山の中に埋葬されましたし,死んだ人に会うためには,いまでは墓地に行きますが,昔は森へ入っていった.死者にすごく接近するわけです.

 その山形県の祭礼は面白いんですよ.「姥さま」というのは三途の川にいるお婆さんですね.そのお婆さんの姿の木像があるんですが,上半身全部さらけ出しちゃって,なんか梅干しみたいなお婆ちゃんなんです(笑).しかし,すごい迫力なんですよ.これは女性がもっている一つの力の表現だと思うんですが,お婆ちゃんの像を村の人は一年中隠しておくわけです.そしてお盆が近づくとその像が出てくるんですね.「姥さま」を村の人が背負って,夜中から明け方に山に入っていきます.それについて僕らも入っていく.そして,山の中腹ぐらいにさしかかってくると,向こうの森の中から「ヒュー,ヒュー」とすごく恐い音が聞こえてくるんです.そしてその声をくぐってずっと奥まで行くと,山の上に死者供養をするための祭壇がしつらえてあって,盛大なお盆をするんですね.お盆に死者が来る,というのを文字どおりやるわけです.生きている人間が死者とまったく同じところへ出かけていって,死者と食べ物を交換したり,一緒になって数時間を過ごしてまた下りてくる.

 僕は,その「ヒュー,ヒュー」という声が気になって仕方がなかったので,一緒に行った山形の人に聞いたら,登ってくるときにお賽銭をねだっていた子供たちの一群が別の峰を通りながら「ヒュー,ヒュー」と声を立てているのだと言うんです.この子供たちは文字どおり「餓鬼」,つまり地獄の象徴なんです.この日だけは子供たちは大人たちが道を通るとその前に立ちはだかって,「お金を出しなさい」と要求することができる.お金を出さないと,餓鬼ですから通さない権利があるわけです.山道にずっと子供たちが縄を張って待っているわけですね.あるガキなんかその日だけで1万円近く儲けてね(笑).

 でもこういった祭礼は日本だけでなく世界中にありますね.クリスマスの子供たちの行列がそうです.なぜ子供たちがクリスマス・プレゼントをもらえるかと言えば,子供たちが死の国の住人だからです.要するに,クリスマスというのはそれを体験するためのお祭です.ヨーロッパでもこの感覚は残っているんじゃないかな.だからディケンズが『クリスマス・キャロル』を書いたときに,死者が次々にスクルージさんのところへ現われてきますが,あれはもともとのクリスマスの意味そのままです.つまり,本当に死者が生々しいかたちで現われてくる.それを媒介しているのは子供です.子供たちは楽器をもつんですよね.ガラガラ楽器を回して,ノイズをものすごくたてる.死者はノイズとともに現われてきますから.

 うなり声といえば,オーストラリアのブルローラーという,ひもの先にうなるものをつけて「ブーン,ブーン,ブーン,ブーン」とならすうなり器でしょう.イニシエーションで子供が蛇にのまれて死ぬとき,目隠しをされて砂のまん中に座らせられるんですよね.何も知らされていないから恐いですよね.それで「ブーン,ブーン,ブーン,ブーン」という音がだんだん近づいてくる.それはレインボー・サーパントという,巨大な,宇宙の根源にいる蛇だと言われています.

伊藤──「死者との多重な交流をとりもどすことによって,人間は自分が生きているということをいままでにないパースペクティヴの中で知っていく」ということを中沢さんも書いていましたよね.そこに一つ,新しくシャーマニズムを受けとめていく可能性があるように思います.

中沢──記憶というものが関わっていると思いますね.死んだ人たちの記憶と同居しながら生きる.記憶とともにいる.僕らがこうやって生きているのも,同じこの空間のこの場所でかつて生きていた人間たちがいるわけです.この会場は新宿の角筈の近くだから,猟師やシャーマン的宗教者のたまり場だった.そういう記憶と同居しています.死者が僕たちを見ているというのは,おそらくそういう記憶の集積体の中にいまこうやって生きているということの意味を照らし出す何かがある,ということだ思います.だから,いまこうしてある時代の意味が唯一の意味でもないし,この世界で価値をもっているものが唯一の価値でもないし,かつては違う価値が尊ばれていた.そしてその違う価値を尊んでいた人たちは,その世界の中で真っ当に生きることもできただろうし,そういう記憶の集積体に包まれながら生きているということは,おそらく死者と同居するという意味もあるだろうと思う.このことはいまの歴史の問題などとも深く関わっていると思うんです.

 それからもう一つは,人間がエクスターズする文化ということです.いろいろな意味で,人間は自分の外側に出ていく文化をいまいろいろなかたちで組織化しようとしている.これは人類史上画期的なことだと思います.人間が,私というアイデンティティの中で自分をつくり上げていく.そして僕のアイデンティティをはみ出したり抜け出していくものと,港さんのアイデンティティを抜け出していくものが,結びあったりする.そういう文化を実際につくりだそうとしていて,歴史は面白いなと思いますね.ラスコーの洞窟で,人間があの技術段階で実現しようとしていたことの中には何か僕は理由がひそんでいると思っています.それは死者との同居の問題とか,エクスターズする文化とか,いろいろなものと錯綜していると思いますが,そういう一断面を秋田出身の伊藤さんはこのシンポジウムで切り出そうとしたんじゃないでしょうか.僕が司会じゃないんだけれどね(笑).

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