エクスターズする文化へ
デジタル社会における内包空間の発現

叩くという行為がシャーマニズムにおいては
重要なものになっている

──内包空間という話題に戻ると,そこに入っていくときにいくつかの道があると思うんです.移行=トランジションと言ったらよいのか…….というのは,シャーマンというのはトランス状態に入るわけですよね.エリアーデは「脱魂」という言葉を使いました.魂が出るということです.「憑依」は何か外部にあるものが内に入ることですが,「脱魂」というのは外に出ていく.外に出ていくときに段階がいくつかあって,第1段階が多分迷うということだと思うんです.第2段階,迷っている道の構造があるヴィジョンとして見える.そのヴィジョンの先におそらく聖地がある,というような段階を経ているのではないか,とミハーイ・ポッパールも『シャーマニズム』(青土社,1998)のなかで言ってますし,トランスに関するいろいろな本を読んでもだいたい3段階あるいは4段階くらいあるようです.もちろん一気に飛ぶこともあるのかもしれないですが…….

 トランジションの一つは,鳥に乗って空に行くことですね.ワタリガラスの神話は,シベリアからアラスカを通ってアメリカ大陸にずっとあります.つまり,「上昇」というのが一つある.そしてもう一つはその逆で,地底に入っていく.その入る場所というのは,特異点,つまり岩や洞窟などですね.要するに,上昇するか下降するか,そういった大きな二つの道があるような気がします.その入口になるのが「シンギング・ストーン」だったり,あるいは最初に中沢さんの言われた太鼓などです.  世界中に広がったシャーマニズムのイメージを見ていると,すべてに太鼓が出てきます.あるところで太鼓の構造ができて,それが一気に広がったというか,かたちを変えずにそのままある.ですから多分叩くリズムにもある類似があるだろうし,聞き比べていくと,多分ある共通する波動のようなものがあると思います.シャーマンの太鼓をつくっている人々がカナダのケベック州にいます.ケベック州の北の方にモンタニエと呼ばれる部族がいて,彼らのあいだでいまも続いているシャーマニズムを記録したドキュメンタリーがあるんです.このドキュメンタリーは1970−80年代に10年ぐらいかけて撮られたものです.彼らはモントリオールやケベックなどの大都市とは隔絶された,寒く厳しい森の中で小さなコミュニティをつくって暮らしている.

 このドキュメンタリーのタイトルは《メモワール・バタント》といって,直訳すれば「叩いている記憶」,あるいはもう少し拡大解釈すれば「鼓動する記憶」とか「打つ記憶」というものです.この中で全編にわたって,何かを叩くとか打つとかそれによって起こされる振動=ヴァイブレーションの話が出てくるんです.例えば太鼓は単なる楽器ではなく,カリブーが遠くからやってくるときに,太鼓の上に彼らが現われると言うんです.裏を返せば一種の鏡やスクリーンのようなものです.太鼓を叩くバチも彼らがつくりますが,そのバチの先に何かが降りてくるという話をします.そして最後に,一人のシャーマンが現われて,若いときにイニシエーションとしてテントに入ったときの話をして終わるんですが,その話というのがちょっと変わっています.「テントの中に自分は入った,シャーマンが入ってきて,太鼓を叩き出す.ずっと叩いて,だんだん忘我の境地に入っていく.その途端に,太鼓を叩いていなくても,テント自体が叩かれている状態になる.あたかも太鼓の振動と共振するようにテント自体が打たれている状態を経て自分はシャーマンになった」と.「いま自分は歳をとってしまって,テント自体が何か大きな力によって叩かれているような状態にもっていくことはできなくなっているが,自分たちの中には確実にそういった力をもったものがいて,それがシャーマンになるんだ」と言うんです.その状態を「ラ・タント・バタント」と彼らは呼んでいて,それ自体が振動しているテントというのが一体何なのかということをこのドキュメンタリーは追っていくんです.叩くという行為がシャーマニズムにおいて重要なものになっている.そこが面白い.

中沢──叩かれると多分エクスタシー(ecstasy)するんだと思います.エクスタシーはエクスターズ(ex-stase)で,スターズ(stase)というのはとどまっている状態ですね.エクスターズだから,外側(ex)へ向かって出ていく.それによって,世界中のいろんな声を外へ引き出してきますよね.以前ニューヨークの街中をバチで叩いているアーティストがいて,その記録ヴィデオを見て面白いなと思ったのは,あんなニューヨークの街の中でもバチで叩いていくといろいろな音をたてはじめる.音というのは,ふつうの状態では石もコンクリートも椅子もみんなおし黙って,萎縮しているわけですが,叩かれることによって外側にエクスタシーが現われてくる.人間の心がやっぱりそういう構造をもっていますね.シャーマンはだいたい鍛冶屋でしょう.金属を叩く鍛冶屋とシャーマンが一体になっているんですよね.太鼓と製鉄,こういうものがみんな一つになって存在の世界から何かを叩き出すわけですが,叩き出される瞬間にそのものはエクスタシーでアヘアヘ言っている.

 それからテント.面白いですよね.「移動する聖地」と言ったらテントこそ移動する聖地ですね.むしろ移動する洞窟でしょう.もっと別な言い方をすると,シャーマンになる資格はいろいろありますが,一つは生まれるときに胞衣(胎盤の一部)を頭につけて生まれることが重要なポイントなんです.テントをかぶって現われるのは,シャーマンか英雄なんですね.ジュリアス・シーザーがやはりそうらしい.日本でも,そういう子供は袈裟をかぶっているということで「袈裟太郎」とか「袈裟男」という名前をつけました.そういう子供はやっぱり神の申し子なんだけれど,その胞衣は売られていたのです.特にイギリス人の船乗りがものすごく欲しがった.ディケンズの小説によく出てくるんですが,新聞広告に「胎盤売ります」って出るんですね.そして船乗りがこれをもつと安全に航海できる.なぜかというと,胎児は母親の羊水の中を無事航海を終えて人間の世界に出てきますが,胎盤は羊水の中を航海するために子供を守っていたテントだから,それを船乗りがもっていれば無事な航海ができるという発想法です.頭にかぶるもの──虚無僧もそうですよ.あと,簑笠をつけておばけが出てきますよね.要するに,人間の体の一部を隠してしまうとその一部だけ異界とのコミュニケーションが可能になる.姿が見えなくなるということもありますが,もっと言うとそれは洞窟とか母体の問題と関わっていると僕は感じます.

──フランスとスペイン国境のピレネー山脈に,3万年くらい前の絵画が残っている洞窟があるんですね.その近くにここ2,3年家を借りて住んでいるのですが,隣の家の人がパーティに呼んでくれまして,バーベキューをやったんです.そして,誰かが冷凍庫をあけて肉を解凍してから焼こうと言ってお皿の上にのせたら,「キャー」と声が起こってね.「これ何?」と言ったら,奥さんが出てきて「だめだめ,これは胎盤だから」と言うわけです(笑).みんなびっくりして「なんの胎盤?」と聞いたら,自分の「子供が生まれたときの胎盤なんだ」と.「なんでその胎盤を冷凍しているんですか? 食べるんですか?」と聞くと,それを土に埋めて苗をその上に植えるんだそうです.そうするとその胎盤を栄養として,木が育っていくでしょう.その木をその子の木にするんだ,と.もうそういう木が2本庭に植わっている.これは3本目で「食べちゃだめ」って言うわけです.「食べちゃだめ」って言ってもそんなもの食べたくないですよ(笑).というわけで,あわてて冷凍庫に戻したんですけどね.

中沢──ふつうはあれ,家の敷居の下に置くんですけどね.教会のドアの下とか.

──何か意味があるんですか.

中沢──呪力というか魔力があるんですね.だからそれは通過点に置かないといけないみたいです.

──中沢さんが洞窟と言ったように,一言で言えば胎内回帰ですよね.そういった内包空間への入口って,やはりあると思う.

 先史絵画の研究者で,いまフランスで中心的に活躍をしているジャン・クロットが去年の夏パフォーマンスをやったんです.イストリッツの洞窟の絵が残っている所を中心に,パーカッショニストに来てもらって,全長で10キロくらいになる長い洞窟の中の一部を叩いてもらって,30人くらいで半分調査,半分パフォーマンスでした.彼は,「ラスコーやアルタミラの先史絵画の研究は,図像やパターンなどの視覚ばかりに集中して,他の感覚,特に聴覚というものを落として考えていた」と言うのです.しかし彼にすれば,大事なのはむしろ絵よりも音のほうで,なぜかと言うと,絵の描かれている洞窟はほとんどが鍾乳洞だからです.鍾乳洞というのは,そのまま楽器になる.いわば楽器の中に入っていくようなものだろう.それならば,一番人間にとって心地よい共鳴,つまり音の特異点があるはずだから,音の地図をつくろうと.それでこういうパフォーマンスをやったんですね.確かに叩く場所によって全然音が違って,ほとんど倍音が出るような場所があります.ちょうどすごい共鳴が起きるところに,何か重要な,ペトログリフのようなものがあったり,絵が描かれている.洞窟というのは一種の楽器でもあるし,もしかすると内臓なのかもしれないな,とこのとき思いました.

中沢──確かにあの周辺の洞窟については,絵についてだけいろいろと言われていますね.ラスコー洞窟の近くですから.しかし僕は,あれは洞窟の壁面をある種「叩く行為」ではないかと思います.「木のへらで顔料を塗り付けるという行為を通じて,洞窟の奥に広がる内包空間,ものを生む力に満ちた空間から,動物の体をこちらの世界に引き出す行為が壁画の本質だ」と語られますが,それは絵画における叩く行為ではないか.絵は描いていくものではなくて,叩いていく絵というものもあるのではないか.僕は,絵は初源の状態で叩き出すものではないか,と感じていましたが,その先史学者はこのことをもっと直接的にやろうとしているんですね.

前のページへleft right次のページへ