InterCommunication No.16 1996

Feature


エピローグ

森岡――この時代の,この社会での漠然とした不安と恐怖の所在の一つは,二種類の身体のアンビヴァレントな重合というところに求められると思います.その身体の一つは重いものは遅く,軽いものは速く移動するという,古典物理学的な意味での重力とヴェロシティが正比例した実空間のなかの身体.もう一つは光の速度を常数とする電子化された関数空間のなかで重力を失う身体です.それぞれに特有の身体性があり,われわれはいやおうなくその二つを同時に背負い込まなければならない.それぞれの身体を峻別したりスイッチングすることができない.このことは,今日の話に出てきた教育や福祉,あるいはエデュテインメントといった問題にも投影されてくると思います.
 この二つの身体性の関係は,メディア論や触感のテクノロジー論などにおいて,パラダイム転換としてエピステーメとしてさまざまにこれからも論じていくべきだとは思いますが,同時にその矛盾をどのように現実生活や表現の問題のなかで考えていくかが,例えばワークショップのテーマになったりもするのではないかなと思います.
 その例になるのかどうかわかりませんが,最近のビデオカメラで,見つめた部分に自動的に焦点が合い,視線でカメラの操作ができる視線入力ファインダーというのがあります.これは,普段意識しないところ,自分の身体のなかでほとんど無意識のうちに使っている機能まで管理され覗かれているという被窃視感があって,逃げ出したいと思いました
.  また,例えば,観念としての身体をメディアで拡張するどころではすまなくて,生身の体を限界までいじってみたいという欲望が,特に若い人たちの文化にさまざま浮上してきています.例えば極端なピアッシングとかタトゥー,ラバー・スーツの趣味世界.これは世界拡張じゃないです.また,これは腹を開いて身体の内側に人工臓器を入れるのとは違います.意識としては内側に向かいつつ,とりあえずはその表層でいじれるところまでいじってやろうという感覚は,さっきの重合した身体性の矛盾を,彼らなりになんとか突破しようとしているようにも見えます.
 身体にまつわるタブーをいったん取りはらうと,ある種の身体加工や感覚編集のテクノロジーが方向性として見えてくる.そのベクトルに導かれて,二つの身体性の狭間みたいな空間を走り続けるというのが,どこか現代の遊びの快楽規範を作っているのではないでしょうか.


[1995年11月21日,ICCにて]


(おおつき ひろこ・プランナー,コンサルタント/
もりおか よしとも・イメージング論/
ひこさか ゆたか・建築家,環境デザイン)

[前のページに戻る] [註/図版のページに進む]
[最初のページに戻る]

No.16 総目次
Internet Edition 総目次
Magazines & Books Page