InterCommunication No.16 1996

Feature


4――エデュテインメントと
インターフェイスの快楽


彦坂――日本のワークショップなどは,ほとんどメンテナンスフリー化だけがコンセプトになっている.だから逆に手がかかるものを作らないと,本当はよくないんですよね.
 参加感覚には一方で,リアリズムの問題も関係してくる.これは森岡さんが専門なんでしょうけれども,「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ライド」とかいろいろなシミュレーション・ライドで,必ず定番になっているガラスのなかに突っ込むシチュエーションがあります.「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ライド」では,3,4回ガラスにバァーンと突っ込んでいくんです.そのときのガラスの割れ方をわざとタイムラグを起こさせるようにすると,リアルに撮れる.まあ絵でもそうですが,パースを本当に描くと全然そう見えない.

森岡――僕は学生時代,バルトやメッツ流の映像記号論をやっていたので,シネマテークやビデオで映画のカットのつながりを細かく見ていくような作業をずいぶんしました.物を壊すシーンのカットのつなぎには,やっぱりダブりや割愛がよくあります.豊富な機材を投入するハリウッドの撮影現場では,かなり昔からテレビ・スタジオと同じようなマルチカメラによる撮影をしていたようですが,グラスが落ちて壊れる程度のシークエンスにしても,時間的・空間的な短絡や重複のない編集はほとんどありません.映画は現実を再現描写する視覚装置であり,意味の装置でもあるけど,それが時間・空間的なズレを内包することによって成り立っているというのは興味深い.

大月――そのズレというのはきっと人間の意識のズレと同じなんですね.突っ込んだ後に,「あっ,しまった」と思うそのズレと,映画のズレはけっこうピッタリきているのかもしれないですね.

森岡――そう.その瞬間瞬間,ズレあるいはダブりの間,映画は死んでいるんです.それから,以前,人間はなぜまばたきをするのかということについて冗談めいた文章を書いたことがあるんです.まばたきをすると一瞬真っ暗になりますよね.だから,人間の生は何百億回かの死によって繋ぎとめられているのだということです.1秒間に24コマの間歇動作をする映画装置にもコマとコマの間に一瞬の死があって,さらにそのなかで物が壊れるというのも意味としての死なんだけれど,そこにもズレやヌケという機械的な死が組み込まれている.このことはたぶん映画の本質と関係があるんじゃないか.だから先ほど彦坂さんがおっしゃった理解の共有というのは,お互いのなかに潜んでいる時間的なズレ,あるいは空間的なズレをどう共有するかということではないかと思いますが,実はさまざまなズレこそがコミュニケーションのベースになっているんじゃないかという気さえします.特に教育とか遊び,映画もある種の遊びなんだけれども,そこではこの構造が如実に現われる.

大月――いままで,それがすごくおざなりにされていたんですね.やっとその辺りに気がつき始めたかなという感じがします.

森岡――障害を持った人たちの場合,情報の出入りの関係やメカニズムがちょっとだけ変わっているわけです.だからよけいその構造が問題になってくる.となると,ある種のテクノロジーの使用なり具体的な解析方法を使って構造を見極めておかないと,社会が一般的であると認め,われわれ自身も「自然」であると思っている時空間の共有の仕方を,そうした人たちに無理矢理に押しつけてしまうことになる.公共社会や家庭生活のなかでよく問題視される通路の段差だって,車椅子や老人の足にとって障壁になるというより共有できないんですね.
 先ほどの少年の作曲行為でいうと,われわれにとっては当り前である音の高低という概念と,五線譜上で音符が記されている位置,つまり視覚空間的な位置の高低の概念とが,彼のなかでは全然結びつかないことがある段階で推測できました.専門の音楽教育を受けてなくても,ある程度双方の関係をアナロジーできると考えてソフトの画面インターフェイスを作ったりしても,彼には何の役にも立たないんです.音楽の記述手段の共有方法を変えざるをえないんです.

大月――いまは,その高低というのは実際にこちらから音を出していって,それでOKかというふうにしているんですか?

森岡――というか,彼が見る=使うことを前提にしたユーザー・インターフェイスはやめました.操作画面はあるんですけど,それは作曲を支援する人が使うための画面であって,彼とは何の関係もないんです.

彦坂――いまの問題ですごくおもしろいと思ったのは,普通われわれは,音階を教えて音の高低を知るのではなく,ピアノだと右が高くて,左が低いように,高いところから低いところへ落ちるのは,右から左にいくということを何となく前提としていますね.文字にしても縦書きも横書きもできるヘブライ文字とか日本語は本来右から左へ書く.これは,人間が何か根本的に持っているものに近いけれど,いまの話はそれを解体しているわけでしょう.だからアナロジーがきくというのは,実はある種聞きやすいものしか聞いていないわけなんですよね.

森岡――そうですね.聞いていないと同時に,役に立たないと解釈している.だから,理解の共有軸をどういうふうに作っていくかっていうことは,やっぱり遊びや教育について考えたときにとても重要なんです.

彦坂――昔だったら,とりあえずコンサート会場で一緒に聞いていれば時間,空間を共有したことになったわけですね.われわれは場を共有していればいいっていう話だけれども,美術とかなんかになると意味を共有させようとして,失敗するじゃないですか.ある程度物理的に時間と空間を共有するっていうことをきちんとやるっていうほうが絶対にいいですよね.

森岡――僕の住んでいる地域に療育施設があって,十数年前にそこの子供たちに絵を教えてくれと頼まれて半年ほど通ったことがあるんです.比較的軽い知的障害を持った子供がほとんどでしたが,初めてそういうことをやっておもしろいと思ったのは,例えばクレメント・グリーンバーグにとっての絵画元基,つまり絵画は平面であるということとエッジがあるという二つの前提がいとも簡単にふっとんじゃうという事実です.ある子供は床に画用紙を置いて描き始めると,紙の外側にまで線が延々と飛び出してしまう.だからまずエッジがなくなる.それから紙に穴を開ける子もいる.描くという行為の軌跡だけが,すさまじい起伏をみせてそこに残る.フォーマリズムなんか蹴っとばせという感じです.

大月――この間ある美術館で子供と一緒に古美術を観るというイヴェントをやったんですよ.現代美術だとスッと入れるだろうけれど,古美術は難しいかもしれないと思って,こちらはすごく緊張していろいろ準備して臨んだわけです.結果,最初の1回目は大失敗したんですよ.というのは,子供はべつに古美術,現代美術という分け隔ての感覚は全く持っていないんですよね.こちらの先入観で,馴染みがないだろうからと考えていたのはまずかったですね.それから子供は自分の目線でけっこうちゃんと観ているんです.観るということがどういうことなのかとか,細かく観ていく楽しさというものを,私は逆に子供たちから教えられたんです.お喋りしながら一緒にギャラリーを回るようなかたちになってしまいましたが,美術のセクションのことなどをバァーッと取りはらって,本当にそこにあるものを観るんだ,楽しむんだっていうのでいいんだなと改めて確認できておもしろかったです.

森岡――最近,陶芸をするところが多いでしょう.美術館の公開講座でも人気が高いそうですね.とにかくモノに触れさせる.形骸化した素朴な触覚回帰主義の気負いもたしかにあるんだけれど,なぜか妙に説得力がある.これは一体どうした理由によるのか.一つには,いままでの視覚主義で作られてきた工芸史や美術史の王道の,ネックの部分を補強しようとする意志があります.先ほどのコミュニケーションの問題と関わってくるんだけれど,日常生活では,五感の使い分けというか知覚のチャンネルをうまく切り替えていかないと,いわゆる知的なコミュニケーションはできない.当たり前と言われればそうですが,文学は読むもの,音楽は聴くもの,写真は見るものみたいな表現と感覚の整合が大前提にあります.ところが,それでは目の不自由な人,音の聴こえない人にとってのチャンネルの切り替えは,健常者とはたして同じかどうかという問題が一方に設定できるでしょう.つまり,ある感覚の欠損を他の感覚で補うというときに,それはたんなる入力装置の代替・補填ではなくて,諸感覚の連合関係そのものを編制し直すことを意味するいう理論が神経学の分野にはあります.僕に言わせれば,それは現代アートが長い間抱き続けてきたプロブレマティックの一つに活路を開く理論でもあるので,だから,知覚のモードを変えようとすることが,現代アートの大きな目標だとするならば,障害者が抱えている知覚のありようを知ることは,アート自身にとっても何らかの大きな手掛かりになるんではないでしょうか.

大月――私も美術館のプログラムにそういう方向が入ってきているっていう実感があります.いままでの視覚偏重から,残りの四感も加えてもっと身体的に理解することをすごく大切にしたい,という方向性ですよね.素材を実際に手で触って,重さを確かめて,匂いをかいで…….

彦坂――普通の生活空間のなかで触るということがもう著しくなくなっているんですよね.

森岡――大阪に東洋陶磁器美術館というミュージアムがあって,一客何千万円もするような茶碗がガラスケースのなかに展示されているそうです.展示品と観客の間に越えられない距離がある.まあ,そんなものを実際に触らせて,もし落とされでもしたら大変だからしかたないですよね.これは伝聞だけれど,そこの館長が展示室のデザインを計画をするときに,お茶碗というのはやはり手に取って愛でるもの,触って初めて釉薬の窯変の美しさ,用の美がわかったりする.だから少なくとも観客の手に何か感じさせないといけないというので,ケースの前に手すりをつけさせたということです.ちょっとできすぎた話だとも思うけれど,本来のアートとの関わり方はこの精神ですよね.

大月――そうですね,あと五島美術館ってありますでしょ.あそこは学芸員の方が自ら企画して館蔵品のお茶碗を使ってお茶会をするそうです.

森岡――へぇー,工芸美術品の保存と教育普及の関係という意味では,ずいぶん勇気のいることをやってるんですね.

大月――うん,実際見るだけではなくて,本当は高いお茶碗なんだけれども,やっぱり触ってお茶をいれて飲む.お茶碗が本来の機能を果たすなかでないとやっぱりわかってもらえないだろうからっていうことです.保存という側面から考えるととても勇気のいることだと思うんだけれども,でも,そういうのってやっぱりいいなって思いますね.この場合は視覚に加えて残りの四感すべてが取り入れられていますよね.これまでのオーソドックスな観賞というスタイルが,これからはどんどん変わってくるのでしょうね.チルドレンズ・ミュージアムのような五感を刺激する展示スタイル,観賞スタイルが今後大いに取り入れられていくと思います.
 それから,ちょっとおもしろいなと思ったコンピュータを使った親子のためのワークショップがあります.多摩美術大学のデザイン科の須永剛司先生がなさってるワークショップなんですが,5,6年ぐらい前に行なわれたときは,コンピュータを使って絵を描くというだけのプログラムだったんです.それだけでも,親子のコミュニケーションが活発になったりとか,いろいろおもしろい現象はありましたが,最近の報告を見たら,コンピュータによる作画に加えて実際に多摩川に行って川の水に足を浸したり,石を持ったりとか,あるいはぼんやり周りの風景を見たり,それからコンピュータだけでなく大きな紙にクレヨンで絵を描いたりするというメニューが入ってきているんです.おもしろいなあって思いました.やはりそうやって視覚以外の部分もバランスをとりながら,一つのプログラムを組んでいくようになってきたんだなあって思い,とっても興味深かったんです.

森岡――95年の3月,「楽器とアンサンブルのいまとここ」というワークショップをICCのプロジェクトとしてやったとき,かつてP - MODELにも参加していたミュージシャンの中野テルヲさんに加わってもらいました.彼が考えた電子楽器は,自分の体をワイヤーで宙吊りにして,手足を動かすと音がするという仕掛けなんです.ヴァーチュアル・リアリティのアンチをやりたいということだった.最近コンピュータを使ったインタラクティヴなサウンド・アートで,よくそういうのを見かけます.しかし,あれはぜんぜん汗をかかない.身体的な負荷がないからですし,そのことが一つのコンセプトにさえなっている.でも中野さんの楽器は,ハーネスが食い込んで股が痛い(笑).

大月――ステラークは相当昔からやってますよね.彼の場合はテクノロジーを使って肉体や感覚を拡張すると同時に,身体の内部や肉体そのものにもこだわってる.脳波や鼓動を音やレーザー光に変換したり,付けると視覚が拡張する,ミラーの複雑に組み合わさったゴーグルを作ったり.そうかと思えば,胃カメラを飲んだり,釣り糸のついた釣り針を体にたくさん刺して自分の身体を天井から吊り下げたり,鉛筆のように先端を削った木を束ねたベッドの上に裸で横たわるとか…….

森岡――そう.ステラークのかつてのサスペンデッド・ボディみたいな状態で手足を動かし演奏する,汗をかいて演奏する楽器が欲しいということなんです.あのテクノ・ミュージックの神話的人物がそう言うんだから.ステージでキーボードをやっていても全然汗をかかないそうですね.クラフトワークじゃないけど,フロッピー1枚をドライヴに入れて,ステージを降りてきても構わない.彼に言わせると,あれはどこかでフラストレーションを起こすらしいです.

大月――コンピュータをやりながらも,実感とかリアリティっていうのを求めたいというのはすごくありますよね.

森岡――ただ,自然回帰とか肉体信仰みたいなものへにじりよるのはどうも…….
 近頃,触覚的なものの賛美みたいな言説が,正直言うと僕なんかの書く物も含めてさまざまな場所から浮上してきていますが,それらはおそらくこれまでの視覚一辺倒主義を暗黙のうちに批判しようとしているのだと思います.もっとも,触覚というのは美術史のなかであまり問われたことのない感覚の一つで,ミュージアム・ワークショップでもう少し真剣に取り組んでもいいのではないか.まだ,お茶碗の肌合いシミュレーションの段階で…….

大月――ぐっと踏み込んだ例では,目黒区美術館オリジナルの「画材と素材の引き出し博物館」という教材があります.ボックスのなかに金属と木と紙と画材というテーマ別に,素材や制作途中のものや完成品が美しくレイアウトされて詰め込んであるんです.そのまま展示もできるけれど,なかには実際に触れるものも用意されています.つまり五感をバネにしてイマジネーションをかき立てようとしているわけです.

森岡――そうですね.何歩か踏み込んだ方法論だと思います.コンピュータはたしかにコミュニケーションという面では「透過的・接触的」なメディアかもしれない.マウスもキーボードもタッチパネルもあるかもしれないけれど,原則としては清潔だし,およそ非触覚的なメディアです.そういうもので大月さんの話にあったような身体的な感覚を鼓舞するエデュケーション・プログラムを作るとなると,ひじょうな困難を感じます.

彦坂――僕は触感的なことを考える場合,やはり重さというのが重要だと思います.コンピュータにしても比喩的に,データ量が多いと「重い」と言うでしょう.一方にスピードというのはあるかもしれないけど,物量は一番人間の奥深いところにズーッとくるっていう気がする.


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