InterCommunication No.16 1996

Feature


未知なるものとしてのエンターテインメント

月尾――エンターテインメントについて今の話を広げていくと,2種類のエンターテインメントがあると思います.つまり,すべて既知なるもので構成されているエンターテインメントと,未知なるものが含まれたエンターテインメントです.具体的に言うと,例えばディズニーランドのスペースマウンテンは,真暗な中を行くから確かに恐怖心をもたらすけれども,客観的に見てみれば,あらかじめ設計された恐怖心であって,すべて既知なるもので構成されたものです.ところが,渓谷をカヌーで下っていく場合は,スペースマウンテンに近い状態とはいうもののの,未知なるものが含まれています.例えば,自分では何度も下った川であっても,川というのは水量が違うとまるで様子が違うから,初めて体験する水量だと,かつては楽々と通り抜けられたところでひっくり返るというようなこともあるし,流れもまったく違っていたりするわけです.本質的におもしろいのは,やはり未知なるものが含まれているエンターテインメントだと思います.そういう方向に今社会は動き始めていて,アウトドアの方へ向かっていくような動きもそうだと思います.その中で,新しい,特にエレクトロニクスを土台としたようなエンターテインメントが,どれだけ未知なるものを偽装し得るか,また与えられるかというあたりが,新しいエンターテインメント・テクノロジーの見出すべき方向ではないでしょうか.偶然性を入れるというようなことは現在のエレクトロニクス技術でできるわけで,例えばスペースマウンテンでも毎回ルートが違ったり,加速度も毎回違うというような制御を加えることによって,未知なるものの部分を増やしていくということが,おそらく新しいエンターテインメントが進むべきひとつの方向だと思います.

武邑――インターネットのコミュニケーションの役割を考えると,確かに一種のチャンス・オペレーションがあると思うんです.日本語で言うと“一期一会”みたいな,偶然の中から出てきた出会いですね.電子メールにしても,当然相手にアドレスがあって出すわけですが,メーリング・リストにわざわざ自分が入るというのは,予期もしないメールを受け取りたいという欲求だと思います.そのレイヤーが実はインタラクティヴ・コミュニケーションの急成長を支えているんじゃないかと思うんですね.WWWのような,今までのテレビ的なメディアの性格をかなり引きずっているものとはもっと別種のアプリケーションの方が,実は本来的なサイバースペースのコミュニケーションを支えていく力としては大きいような気がするんです.
 もうひとつ,エンターテインの語源には「人をもてなす」「歓待する」などと同時に「自己を実現する」「もってなす」という領域があると思います.エンターテインが,自分自身を成熟させていくためのひとつの技術基盤であるということです.そうすると,サイバースペースやデジタル・ネットワーク社会というものが,われわれのアイデンティティのありかをもう一度明らかにしうる,とりあえずの大きなハードル,参照点になっているような気がするんです.そういう意味では,エンターテインメントをデザインすることのありようの中には,集客施設といったレベルから地球規模の情報空間のデザインまで,非常に幅広いレイヤーがあるわけですが,残念ながら現在の日本では娯楽産業的なレイヤーでしか捉えられていないと思います.

大原――もてなすという感覚,人をお迎えしていこうじゃないかという感覚は,日本の家屋が構造上持っていたスペースだと思うんです.ところが一方で,アイデンティティの危機が本当に起こるような状況がサイバースペースの中に出てきています.プラットフォームがテレビからネットワークの端末に移行していった時に,日本の状況と西洋の状況はどう違ってくるのかと考えていくと,それは劇場空間であろうという気がするんです.「劇場」はよく使用される概念ですが,日本の演劇や歌舞音曲を含めた,文化,芸能,伝統といった世界を今の私たちがどう捉えるかも非常に大事なことで,武士文化がずっと引きずられた関東圏では,それがなかなか見えない.むしろ歌舞音曲を楽しむのは卑しいことだという感覚を武士の文化は持っていて,それをずっと関東圏では引きずってきました.でも,本来もてなすということから考えれば,茶室の構造もそうですけれども,にじり口から入っていって,入ってきた時にふっと落ち着いて,お茶を出されて,お菓子の甘さを先に体験する,その次に静かに自分の内側を落ち着かせる,という一連の所作の中にある空間と時間をそこで共有しながら楽しむという概念と非常に共通するものがある.これからのサイバースペースの中でも,同じようなことをどう表現していくのかという表現方法にもっとシフトしていくべきでしょう.特に落語の世界の変遷で私が非常に印象的に思っているのは,「泣き噺(人情噺)」が明治でなくなるんですね.悲しい話を落語家が語り,わんわん泣かせるという落語が明治以降消えていく.その最後の落語の話を『すててこ,てこてこ』という題で,民芸の舞台で大滝秀治さんが演じられたんですが,まさに観客そのものが見ていて泣けるような話をえんえんやっていく.つまり,人間の感情というか,感情動物のアイデンティティをその場の劇場空間で共有させている.

武邑――この間アメリカ人とエンターテインメントとは何かという話をしていたら,それはブレイン・エフェクトだと言う人がいて,「おまえのところの落語というのは,あれは最大のエンターテインメントだろう」というようなことを指摘されて,まさに今おっしゃったのと同じことを言われたんですよ.笑いと泣きとか,それらをすべて含んでいるだろうと.これからのデジタル・ネットワーク社会においても,こういった資源を一体化できる基盤がかなりあるなという感じを持っているんですね.非常に単純なことなんですが,あるお宅にお邪魔したら「いらっしゃませ」とか「またどうぞ」とか,基本的な応答の,頭と終わりがあると思うんです.しかしWWWは非常に情報が均質で,あらゆる情報がフラットになり過ぎていて,人の家のコンテンツをばらばらと覗き見するというぐらいのレベルでしかありません.日に30万件アクセスされましたとか,まさに自動改札にチケットを入れてカウンティングされるような意味合いしかない.インターネットの集客数というメタファーがまだまだその程度で,本来人間が情報と関わるということはどういうことかといった深みの方向性が次のステージなのかなという感じがしています.

月尾――先ほど武邑さんが,エンターテインというのはもてなすという意味と自己実現するという意味だとおっしゃったのは,なるほどと思いました.中国料理をご馳走になると,あれは散らかして食べなきゃいけないそうです.例えば骨つきの鶏を食べてその骨が口の中に残ったら,日本のマナーだと丁寧に隠しながら捨てますが,中国ではペっと床に吐く.あの精神は何かというと,あたかもわが家で食事をするように気楽に食べてくださいということです.一方,客は皿にあるものは全部食べてはいけない.全部食べると足りないという意思表示になるから,少し残せということらしい.何を言いたいかというと,エンターテインする方は,たいへん開放的で制約の緩い場を設定するわけですが,エンターテインされる方は自ら制約を作る.そのある種のバランスの中でもてなされる喜び,もってなす喜びを味わっていく,という微妙な社会関係が成立していると思います.おそらくエンターテインメント・テクノロジーが提供するエンターテインメントもそのあたりを考えるべきで,そうしないと本当にエンターテインにならない.あまりにも制約されたエンターテインメントを与えるものは駄目で,例えばこういう方法でしか遊べませんよとか,単純に達成する目標はこれだけということでは人は満足しない.非常に制約され過ぎた空間の中では自己実現はできない.一方,あまりにも制約がない,つまりまったく真平らな湖をどこでも船で行きなさいというのも,自己実現にはならないないわけです.そういう中で,多くの人はどうするかというと,自ら目標つまり制約を作って,それを突破していくことにある種の自己実現を見出すのだと思います.そう考えると,現在のエンターテインメント・テクノロジーの持っている問題点は,あまりにも制約をつけ過ぎるということではないでしょうか.例えば日本料理で言うと,本格的に食べるのは非常に複雑なわけですが,それは単にマナーをクリアしたという程度で,本当の自己実現にはならない.ですから,制約条件を解き放った場をどれだけ提供できるかということが,新しいエンターテインメント・テクノロジーに要求されていると思われます.一方で,遊ぶ方としたら,精神の改革を考える必要がある.自ら制約を設定し目標を発見していかないと,本格的なエンターテインメントにならない.目指すべきは,自ら制約を構成し,それを突破していくというような新しい場を提供可能な方向へ新しいテクノロジーが向かえば,武邑さんが言われたような,本来の意味でのエンターテインメントが実現してくると思います.

大原――特にエンターテインメントのテクノロジーの話に集約しなくても同じことが言えると思います.自己実現という言葉は西洋から入ってきた言葉ですが,本来豊かさと同居した,人生の悲しみや喜びも一緒くたにして生きる力を意味していたという気がするんです.文化人類学でいうトリックスターのようなものですね.道化は,日常生活では使われない違う見方を提供する役割をずっと持ち続けてきた.それが宗教の踊りにもあり,また落語にもあったと考えると,もてなすということ,制約と自分の目標の発見ということは,精神が豊かで,しかもそれが前に向いたベクトルをもたない限り生まれてこないですよね.ですから,制約を与えられた目標をあまりにも素直に受け入れてしまうことは,逆に言うと,エンターテインメントを享受する側に問題があると思います.そうではなくて,ハードルを乗り越えるということが,いい意味での個人主義の徹底,それから自分たちの豊かさを前向きに持っていける,そうして社会をも見ているという,そういうポジションに変化させていくんじゃないかという気がします.


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