InterCommunication No.16 1996

Feature


シームレス,インタラクティヴ,ハイパー

月尾――別の視点から言いますと,サイバースペースがフィジカル・スペースに接近するためには,三つの技術的基盤があると思います.ひとつは「シームレス」という概念がどれだけフィジカル・スペースに近い状態で実現できるかという問題.世界中に数十億いる人々がどれだけ容易に相互にアクセスできるかということです.現在インターネットの使用者は6000万人とも7000万人とも言われていますが,せいぜい全世界の100分の1につながっている程度にしかすぎない.しかも,それは自由に接続できるほど,まだ容易ではありません.二番目の特徴は「インタラクティヴ」です.もちろんシームレスに接続されている間では,かなりインタラクティヴだけれども,それでも人と人が出会うのに比べれば,時間差はあるし,その手続きも面倒であるし,まだ完全なインタラクティヴではないと思います.三番目は「ハイパー」と言ってもいいし,現在の状態だったら,ギガという言葉で表現してもいいのですが,十分な情報量を相互にやり取りできるかということです.いくらシームレスでインタラクティヴでも,文字だけのやりとりではなかなかフィジカル・スペースには追いつかない.これからギガというネットワークを自由に使えるようになれば,ヴァーチュアル・リアリティを駆使したコミュニケーションもできるようになると思いますが,現在はまだ十分ではありません.

 結局,シームレス,インタラクティヴ,ハイパーというような基礎的な特性が,サイバースペースではまだフィジカル・スペースには追いついていないというのがポイントです.そこに,これからのサイバースペース上でのエンターテインメントを考える,また逆にフィジカル・スペースのエンターテインメントの持つ意味を考える重要な点があると思います.一方,サイバースペースがフィジカル・スペースに優っているものは何かというと,時間と距離だと思います.例えば博覧会に世界中の人が集まるためには,たいへんな距離と時間を克服しなければいけない.現実の社会では費用も関連していて,距離・時間という物理的な要素プラス費用という社会的な要素が,サイバースペースとフィジカル・スペースの間の垣根を作っています.僕の考えを申しますと,当分の間,フィジカル・スペースに人が集まって参加や共有をする意味は十分あると思います.つまり,距離,時間,費用というものを克服する喜びが得られるかぎり,サイバー・エンターテインメントでないエンターテインメントの意味はあると思うわけです.

 今後,技術は限りなくシームレス,インタラクティヴ,ハイパーというものを提供していって,例えばヴァーチュアル・リアリティで多点間の人々を結びつけて,あたかも何十人という人が同時に存在するような感覚を与えることもできるでしょうし,握手のような触覚も与えることができるようになるでしょうが,そのようにサイバースペースがフィジカル・スペースへどんどん接近していく時に,私は“不気味の谷”という現象が起こると思っています.つまり,ロボットは基本的に人間に近づいていくことを目標にして作られていくため,外見は本物の人間のようになり,内面では人工知能とか人工感性ができていく.その時,人間はたいへん不気味な感覚をその技術に対して持つということなんですね.これはよくSFの題材にもなっていますが,あまりにもそっくりなものを作り出すと,それに対するある種の贖罪意識や神への冒涜意識から恐怖心が出てきて,その一線を越えられないということがある.おそらくサイバースペースが限りなくフィジカル・スペースに近づいていくと,人類はそういう感情に襲われる.その時,もう一度フィジカル・スペースが提供する距離や時間の意味が浮かび上がってくるのではないでしょうか.博覧会やアミューズメント・パークなどのフィジカル・スペースが提供するエンターテインメントは,技術が現実に接近していくときの不気味さを解消してくれたり,克服してくれるものも提供する可能性がある.わかりやすく言えば,人と人が出会って握手すると精神が非常にやすらぐとか,そういうことの意味が非常に重要なことになってくると思っています.

武邑――今のお話は重要だと思います.現在サイバースペースは,物理的にあるわれわれの産業基盤や習慣,文化をかなり初期的に引きずって投影しているわけですが,まったくわれわれが予期もしないような新しいコミュニケーション,つまりそれは既存のわれわれの生活基盤,フィジカルなスペースの中で成し遂げられてきたことと比べて,さらに無意識の世界の,新しい時空間になっていくのではないでしょうか.そういう意味では,環境や自然など物理的な空間からわれわれがエンハンスされるある種の状況がありますよね.それがパブリックな公園だったり,造園だったりするわけです.例えばヨーロッパの造園技術は,非常に秘教的な知識が反映されていますね.職能としては非常に古い,薔薇十字団の会員だったりする人たちが造園の設計をやる.例えば噴水をつくって,植林をどのような形で空間の中に構築するかとか,そういったことが,人間の動線や都市そのものの生成のコアになってしまうような,ある種の感性というか感応の技術が存在していると思いますけれども.

大原――ヨーロッパの造園技術や空間の作り方や人間の捉え方に大きな変化が起こったのは十字軍以降ですよね.十字軍は,野蛮人であるヨーロッパ人が文明国であるアラブ世界に攻め入ったという視点で捉えれば,イスラムの最先端の科学技術と文化に触れた衝撃は大きかったと思うんですね.そして造園の基礎のもうひとつの側面は薬草園であるし,医学などの技術をもたらしたのは,実は十字軍の兵士たちだった.薔薇十字団も,いろいろな騎士団が残っている中で,科学技術に出会った人たちの衝撃から生まれた副産物という気がするんです.実は,精神世界を支えていた宗教的な感覚は,ヨーロッパでもアメリカでもずっと流れてきている.宗教的な概念と空間の位置づけは非常に密接な関係があった.日本の神社仏閣のような巨大空間もそうですね.例えば,出雲大社の高さは三十数メートルあったという.それから三内丸山遺跡でも巨木が出て,縄文期の概念が変わりつつある.縄文時代の巨大構築物は,人間の空間に対する畏怖感のあらわれに他なりません.建築技術を用いて,人間が畏怖だとか,あるいは恐れだとかいうことを感じさせるように構築していったものだと思うんです.ですから,目に見えない電子の形をとるサイバースペースの技術に畏怖を持つのと同様の共通項が,ずっとつながってきていると思うんです.そうすると,技術に対する畏れの問題は,例えば手術をヴァーチュアル・リアリティで練習させれば,触感が必要になりますよね.メスを持った瞬間に,患部に触ったらそれが触感として残ってくるような技術をどう考えるのかというところにつながっていく.そうなると,これはエンターテインメントということだけでは済まなくなってくるだろうと思うんです.


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