InterCommunication No.13 1995

Feature

インターネット資本主義と貨幣


岩井克人


インタヴュー:上野俊哉


ポスト産業資本主義の実験場としてのインターネット
デジタル・キャッシュ――貨幣の形式の純粋化
インターネット上の二つの力
デジタル・キャッシュと発行権の所在
コピーレフトの果たす役割
ジョージ・ソロスとケインズ


ポスト産業資本主義の実験場としてのインターネット

上野――今日お聞きしたいことは2点あります.1点目は,一口に情報資本主義 といっても、経済の情報化,ソフト化,電子化,ネットワーク化などを情報資 本主義と呼ぶ場合と,もともと資本主義自体がそういう性格を持っていたので はないかということについてです.2点目は僕の率直な感想なのですが,いま, デジタル・キャッシュ等を例として,現実の実体的な経済の動きが直接的にネッ トワークの中に入ってきているという事態は,どこかで近代の原始的蓄積過程 の反復をしているようなところがあるのではないか.原始的蓄積に限らず,近 代の歴史,経済と市民社会の歴史を実はそのまま反復しているのではないかと いうこと,大枠でこの2点についてお伺いしたいと思います.
 まず,1点目に 関連して,経済がだんだんフィクショナル,ヴァーチュアルなものになってき たという言い方が80年代に――これは非常に使い古された言い方ですが――な されました.僕はこれに違和感がありまして,もともと資本主義経済はそうい う性格を持っていたのではないかと思うんです.本来の意味で経済のフィクショ ナルな部分,ヴァーチュアル(仮想的/潜在的)な部分が,デリヴァティヴと か素人にはよくわからないような見えない交換,複式簿記からオプション経済 にいたるまで顕在化して,ことさら現在の電子情報社会の到来が経済のヴァー チュアル化を促したということではないのではないか,ということを最初にお 伺いしたいと思います.

岩井――実は,いま上野さんがおっしゃられた問題については,つい最近別の 出版社から同様の内容のインタヴューを受けたばかりで,そのときはしどろも どろの答えしかできなかったのですが,それをきっかけとしてインターネット を舞台として現在起こっていること,とりわけ情報資本主義の行方やデジタル ・キャッシュの動向といったことについて考えるようになりました.ですから, 今日はそのときよりもう少しきちんとした話ができるかもしれません.そこで, 私自身がこれから話してみようと思っていることを最初に述べておけば,それ は,“There is nothing new under the sun”,つまり「太陽の下には何も新 しいことはない」ということになると思います.インターネットを舞台とした 情報資本主義の急速な拡がり,それからそのインターネットを通してやりとり される貨幣であるデジタル・キャッシュの発明というのは,一見新しいことの ように見えるけれども,原理的には何も新しいことはないということです.
  たとえば,資本主義に関して私が『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房,1985) 以来なんべんも述べてきたことをもう一度繰り返してみれば,資本主義という のはそもそも形式的な原理でしかないということです.まず,そのことを第一 に押さえなくてはならない.私は資本主義を一応,商人資本主義,産業資本主 義,ポスト産業資本主義という三つの形態に分類していますが,この分類は, それらが違うものであるということを言うためではなく,それらが原理的には 同じであるということを言うためなのです.たとえば,いわゆるポスト産業資 本主義,あるいは情報資本主義と言われているものは,一見新しい事態のよう に思えるけれど,それは資本主義の基本的な原理を誰の目にもわかるようなか たちで示しているに過ぎない.それではその資本主義の基本原理は何かという と,それはノアの洪水以前からの商人資本主義,とりわけそれを特徴づける遠 隔地貿易を思い起こしてみればわかるように,複数の価値体系の間に差異があ れば,その差異を媒介として利潤を生み出す,つまり差異性こそが利潤の源泉 であるということですね.産業資本主義がいつから始まったかについては論争 があるのですが,通説では18世紀の半ばあたりからだと言われています.その 産業資本主義でもまったく同様です.それは結局,一国経済の中に市場化され た都市と市場化されていない農村が共存していることによって生みだされる, 労働生産性と実質賃金率との間の差異が,利潤の源泉となっていた.この産業 資本主義の勃興期である1776年にアダム・スミスの『国富論』が出版され,近 代科学として経済学が誕生したわけですが,それは差異の原理を否定し,その 代わりに労働価値説に代表されるような徹底的な人間中心主義に基づいて資本 主義を理解しようとしたものです.これが,その後の人々の資本主義に対する 見方を非常に限られたものにした.つまり,産業資本主義と資本主義を同一視 し,資本主義を実体的なものとして捉える近代のイデオロギーを成立させたの です.
 ところが,ダニエル・ベルが『脱工業化社会の到来』を著した1972年 を一つの区切りとすると,それ以降先進資本主義国において顕著になったポス ト産業資本主義的あるいは情報資本主義的な傾向が,アダム・スミス以来の人 間中心主義的な資本主義像に対して,事実によって異議を唱えることになった わけです.なぜならば,それは企業間の情報の差異性を媒介したり,さらには 差異性そのものでしかない情報自体を商品化することによって利潤を生みだし ていく資本主義の形態であるからです.そこでは,まさに資本主義の原理が意 識化されている.差異性から利潤を生みだすという資本主義の基本原理が誰の 目にも明らかなかたちで日々実践されているわけです.
 それと同時に,ポス ト産業資本主義になって,人々は,ヴァーチュアル・リアリティという言い方 をしはじめた.そういう言い方の背後には,あたかも実体的な資本主義があり うるという近代の幻想が宿っている.だが,実は,実体に対比された意味での 仮想ではなく,仮想がそのまま実体であるというのが資本主義なのです.

上野――オプションの経済でも仮想という部分はあるわけですよね.

岩井――私は,いわゆる仮想と言われているものがそのまま実体となってしま うのが資本主義の本質だと思っているのですが,そのことがもっともはっきり 示されているのが,オプションとかデリヴァティヴとか言われているものです ね.
 いま,この情報資本主義,ポスト産業資本主義の時代において,資本主 義が差異性を媒介として利潤を生み出すという形式性にすぎないのだというこ とが誰の目にも明らかになったと言いましたが,実は同じことが貨幣について も言えるのです.ご承知のように,貨幣の歴史をみると,最初は金や貝殻など の,それ自身価値のあるものが貨幣としてやりとりされていた.そこでは人々 は誤解をするわけです.金や貝殻はそれ自体がモノとして価値があるから貨幣 として使われるのだというわけです.ところがその後,たとえば金が砂金とか 金塊ではなくて,額面を刻印した金貨として使われるようになってくると,金 そのものの価値が貨幣として流通しているのではなくて,貨幣というものは貨 幣として流通しているときは,その素材の価値を上回る価値を持っているので はないかと人々は気づき始める.そして,それは,金貨と交換できる証文にし かすぎない紙幣が貨幣として使われるようになると,もっとはっきりしてくる. 金が金貨になり,金貨が紙幣になるという貨幣の歴史のなかで,貨幣はこうい うふうにだんだんとその実体性を失ってきている.ときどき逆戻りもあるので すが,時代を追って貨幣がその実体性を失っていくこの動きの中で,人々は貨 幣というものが,何らかの実体的な価値によって支えられているのではなく, 貨幣として使われるから貨幣であるという自己循環論法によって支えられてい る,つまり,純粋に形式的な存在であるということを認識するようになる.さ らに最近では,エレクトロニック・バンキングという言葉があるように,銀行 間の決済では,もはや紙幣でもなくて,通信回線の上で電子的な情報がやりと りされるだけというところまで来ている.
 問題を整理すると,私は資本主義 に関する問題と貨幣に関する問題とを一応分けて語ってみたわけです.資本主 義は,産業資本主義から情報資本主義へと動いていき,一方で貨幣は,金から 金貨,そして紙幣から電子情報にもとづくエレクトロニック・バンキングへと 移っていくことによって,ともにその非実体性,あるいは形式性がだんだんと 明らかになってきたわけです.一方の資本主義に関しては差異性の原理,他方 の貨幣に関しては自己循環論法です.
 そして,この二つの流れが最終的に合 体し,それがもっとも純粋な姿を現わす場となったのが,あのインターネット にほかならないのです.
 実は,私自身はインターネットにはまだ加入してい ません.NiftyServeで電子メールをやりとりするときにインターネットのゲー トを経由した経験が数回ほどあるだけです.だから,ほんとうはインターネッ トについてしゃべる資格はないのですが,無知を棚に上げて語ってみることに します(笑).ともかく,このインターネットを舞台にしておもしろいことが 起こりつつあることだけはたしかです.ご承知のように,そもそもインターネッ トははじめは科学者間のコミュニケーションの手段として誕生したわけですが, それがさまざまな使われ方をし,さまざまな人間や企業が参入するようになっ てくると,当然,それを商売の道具に使おうという試みがおこってくる.もち ろん,インターネットにおいては,コンピュータを使った他のすべてのコミュ ニケーション・ネットワークと同じで,モノそのものを流通させることはでき ません.いわば電子的にビット化されうる情報しかやりとりできない.だから, 最初のうちは,単なる商品のカタログなどをおずおずと送ったりするだけだっ たのが,次第に映像やプログラム・ソフトや経済データといった情報そのもの を売り買いする場としても使おうという動きが出てきたわけです.つまり,イ ンターネットの上では,資本主義といってもポスト産業資本主義の形態のみ可 能であり,そして,実際それはいま,まさに情報そのものを商品としてやりと りするポスト産業資本主義の純粋な実験場となっているわけです.
 問題は, コンピュータ・ネットワーク上では,すべての情報が他人に簡単にコピーされ てしまうということです.とりわけ,インターネットではすべての情報はバケ ツ・リレー式に伝達されますから,その上でやりとりされる情報は原理的には 完全な公開性を持ってしまっている.ところが,資本主義の立場からいうと, 価値とは差異性です.どのように貴重な情報でも,それはコピーされてしまえ ば差異性を失い無価値になってしまいますから,インターネット上でやりとり される情報はそのままでは原則的に商品化することはできません.ここに大き な問題が生まれるわけです.そこでこの大問題を解決するために登場したのが, 数学における暗号システム論です.ただし,すでに70年代において,実は,原 理的には情報の暗号化の問題は解かれてしまっていた.たとえば有名なRSAシス テムを使えば,公開キーと秘密キーとを組み合わせることによって,どのよう な情報でも,ほぼ完全に秘密を保ったかたちで送ることができます.そして, この暗号システムをうまくプログラムできれば,インターネットを通してどの ような情報でも秘密のまま送れることになりますから,それを商品として売り 買いすることができることになる.まさに,純粋なポスト産業資本主義の成立 です.

デジタル・キャッシュ――貨幣の形式の純粋化

岩井――貨幣についても同じことが起こっている.いや,もっと極端なかたち で起こっていると言えます.私はいわゆるデジタル・キャッシュ[★1]に関し て非常な興味を覚えるのですが,それは,情報資本主義が資本主義の形式性を 明らかにしたと同じように,デジタル・キャッシュの登場は,私が『貨幣論』 (筑摩書房,1993)において展開した,貨幣をめぐる基本命題を,誰の目にも 明らかにしてくれるからです.なぜならば,インターネット上で直接支払いに 使うことができるデジタル・キャッシュとは,まさに文字通りデジタル情報が キャッシュになったのであって,つまり数字そのもの,もっと具体的に言えば インターネットの上を行き来する0,1という電子情報そのものが貨幣として使 われるということですね.そこでは,貨幣とはそれ自体にモノとして価値があ るから貨幣であるのではなく,また政府がそれを貨幣として使うことを強制す るから貨幣であるのでもなく,たんに人びとが貨幣として使うから貨幣なので あるという,貨幣の持っている純粋な形式性が純粋に浮き彫りにされているの です.

上野――テレバンキングはある意味で貨幣の形而上学の究極形態,最終形態で あって,その一歩先をいくデジタル・キャッシュのようなものは貨幣の形而上 学を解体する,あるいは見えるようにする.それが形而上学であったことを気 づかせる要素があるということですね.

岩井――というよりも,テレバンキングあるいはエレクトロニック・バンキン グそのものがすでに貨幣の形而上学の解体であったわけです.つまり,ここで もすでに情報そのものが貨幣として使われているからです.ただ,それは,デ ジタル・キャッシュに比べたら貨幣としてまだ若干不純さを残しています.Aと いう人がBという人から商品を買ったとき,その代金の支払いを小切手や手形で 行なうとしましょう.ここで重要なのは,小切手や手形そのものは貨幣ではな いということです.これらは単なる借金証文ですから,AからBに小切手が渡さ れても,その時点ではまだ本当の決済は済んでいない.Bはその小切手を自分の 銀行に持って行き,Bの銀行は受け取った小切手をA の銀行に渡して代わりにお 金をもらう.その金額をBの口座に書き込んだとき,はじめてAからBへの決済が 完了する.大昔は,銀行間で金貨や紙幣を直接やりとりしていたのが,次第に 手形交換所で毎日おたがいの帳簿をつきあわせて決済するようになり,とうと う最近では,おたがいの間を専用回線で結び,その上でほぼ瞬間的に電子情報 を流して決済するようになった.これがエレクトロニック・バンキングにほか なりません.しかし,このような小切手による支払いというのは,貨幣システ ムとしてはまだ100パーセント純粋ではない.なぜならば,ここで実際に貨幣の やりとりが行なわれるのは少数の銀行の間であり,あくまでも銀行の信用がそ の背後にあるからです.
 これに対して,デジタル・キャッシュとは,AからB への支払いをインターネットを通じて直接行なってしまおうということなので す.暗号システムにおける公開キーと秘密キーとを巧みに使うことによって, 銀行を介在させずに,個人と個人との間で電子情報をやりとりするだけでその まま決済を行なってしまう.インターネット上を流れる電子情報がまさにその まま貨幣の役割を果たしてしまうのです.エレクトロニック・バンキングと原 理はよく似ているのですが,貨幣の決済をする主体がここでは個人同士であっ て,銀行同士ではない.また貨幣の決済をする場がここでは完全な公開性を持っ たインターネットであって,銀行と銀行の間の閉じられた通信回線ではない. しかも,たとえばデヴィッド・チョムが案出したブラインド署名のテクニック を使えば,たとえデジタル・キャッシュの発行元が銀行であっても,その支払 いは銀行にも秘密にすることができる.さらに言えば,現在彼のデジキャッシュ 社が提唱しているシステムでは,一つのデジタル・キャッシュは1回しか支払い に使えないという不純さが残っているのですが,この前一生懸命考えたら,そ れをちょっと手直しすると,デジタル・キャッシュをまったくコインと同様に, インターネット上で何人もの間を流通させ続けることができることに気がつき ました.実は,『貨幣論』を書いたときには,貨幣の形態としてはエレクトロ ニック・バンキングが究極だろうと思っていたのですが,デジタル・キャッシュ はさらにその先を行っており,貨幣というものの形式性が純粋化されてしまっ ている.
 つまり,インターネットの上で,純粋の電子情報が商品化され,貨 幣化されてしまうことになった.それは,インターネットという場が持ってい る抽象性というか…….

上野――ネット自体が特定の名前を持ったネットではなくて,無名の多様体で あることによって,そのキャッシュの空間が保証された,ということですね.

岩井――はい.インターネットという場がなぜおもしろいかというと,たとえ ばエレクトロニック・バンキングの場合に電子情報化された貨幣がやりとりさ れるのは銀行同士ですから,そこでは何らかの意味での有名性が介在しており, ある程度閉じたネットワークを必要としている.しかし,インターネットには 原則的に誰でもアクセスでき,しかもそこでやりとりする情報は原則的に誰で も盗めるわけです.すなわち,それは,考えられうるかぎりもっともオープン でもっとも抽象的なコミュニケーションの空間なんです.したがって,そこで は,まさに純粋に抽象的な原理に基づくシステムしか作動することができない. そして,暗号システムを応用することによって,このインターネット上で資本 主義も貨幣も存在することが可能であることが示されたということは,その資 本主義も貨幣も,その本質において純粋な形式性であるということがはからず も実証されたことになる.つまり,われわれが資本主義なるものに対して持っ ていた実体的なイデオロギー,われわれが貨幣に対して持っていた実体的なイ デオロギー,これらすべてはこうした事実の力によって消えてしまうはずだ, ということになります.そういう意味で,インターネットは興味深いものがあ ります.

上野――資本主義の純粋形態を眼に見えるようにした.

岩井――貨幣の純粋形態も見えるようにした,ということです.

インターネット上の二つの力

上野――やはり,デジタル・キャッシュなどの問題をどのように考えるかとい うことが重要になると思います.かつてルソーは「これはおれのものだと言っ たやつが政治社会を作ったやつだ」と言いましたが,もっとも抽象的な空間は, 一方でもっとも原初的な空間でもあるわけで,その原初的な空間を囲い込む差 異化の運動がそこで始まり,資本主義の純粋形態ができた.インターネットは あたかもそれを可能にし,可能にしただけでなく全員に見える状態にした.か つてはモノがすべて自由に交換されたように,ネットではあたかもソフトをコ ピーするように情報がやりとりできるなかで,一種の贈与経済みたいなものが 情報経済の中でも夢見られたこともあったが,現在でもそういう部分は多分に ある.その部分にウエイトを置く議論だと,デジタル・キャッシュなどはどう しても囲い込みではないか,暗号化の技術を特定の者が握るのではないか,あ るいはこれまでの国家や資本の歴史を反復するのではないかという議論も出て くるわけですが,それは主義の問題であって,資本主義の原理的な問題ではな いということなのか,それとも,これも考えなくてはいけない問題なのでしょ うか.

岩井――贈与の問題について言うと,実は現在インターネットの上では二つの 力が争っていると思うんです.一方はそれを資本主義化してしまおうという力, もう一方はそれを贈与交換の世界へ引き戻そうという力です.インターネット は,その出発点においては,アメリカ国防省から軍事研究を委託されていた, 研究者の間の科学研究の情報のネットワークであったわけですが,もともとの 参加者である科学者にとっては,インターネットを経済的な目的に使うのは抵 用なるものによって結ばれている世界なんです.科学者がおたがいに論文を交 換する,あるいは科学情報や技術情報を交換するとき,それは同じ科学コミュ ニティの一員としておたがいの名前を認めあっているからです.たとえ個人的 には名前を知らない場合でも,博士号を持っていたり,名のある研究機関に属 している人間であれば同じです.そこでは,まさに名前というものが重要な役 割を果たす信用のネットワークが築かれる.そして,その名前が重要な役割を 果たす世界とは,贈与交換の社会なのです.たとえば,古代ギリシアのホメロ スの叙事詩のなかに出てくる英雄たちは,他人から贈与を受けたら,自らの名 誉を守るために,つまり自分の名前の信用を守るために,必ず贈与をした人間 に対して返礼をする.ここでは,まさにおたがいの名前に対する信用が,人間 と人間との間の交換を可能にしている.贈られるモノそのものに価値があるか ら返礼するのではなく,贈った人間と贈られた人間との間の一種の信用関係を 保つためにモノが交換されるのです.
 昨年,あるコンピュータ・サイエンス の会合に呼ばれて講演をしたときに出会った何人かの人たちは,コンピュータ ・コミュニケーションの世界に資本主義的な要素が入り込んでくるのをなるべ く排除しようとしていました.それは,いうなれば,それを原初における贈与 交換の世界のままに保ちたいという必死の抵抗でしょう.その極端な例が,ソ フトウェアを全部タダにしようと,それをネットを通じてタダでばらまこうと いう動きですね.

上野――コピーレフト[★2]

岩井――そう,コピーレフトですね.あれはインターネットから資本主義の原 理を排除して,なるべく古き良き贈与交換の世界に留めておこうという動きだ と思います.これがインターネットのなかで働いている一方の力ですが,しか し不幸にして,もう一方の力が厳として存在しており,それはいうまでもなく 資本主義化への動きなのです.そして,コピーレフトに全面的に対抗する手段 となるのが暗号化の技術です.とくに完全な公開性を持つインターネット上で は,暗号化されない情報は,原理的には誰でも簡単にコピーできますから,そ れはまったくタダの情報になってしまう.その場合,何らかの交換が行なわれ るとしたら,それは信用をもとにした贈与交換しかあり得ない.これに対して, インターネット上の情報を先ほども言ったRSAシステムを使った公開キーと秘密 キーを組み合わせて暗号化すると,その情報の内容はまさに秘密キーを持って いる人間だけしか知ることができなくなり,まさにその人間の私有物となる. つまり,ここに所有権が確保され,その所有権をもとにした商品交換が可能に なるというわけです.
 いま,インターネットを舞台にして,この二つの力が 争っているんだと思います.幸か不幸か,私は経済学者ですから,資本主義化 への動きというものがいかに強いものであるかを良く知っています.そして, さらに不幸なことに,じつは贈与交換を維持しようとしている動きには自己矛 盾がはらまれている.なぜならば,インターネットとは,原則としてすべての 人が自由に参加できることを前提にしているわけですが,おたがいの間の信用 を基礎にして成立する贈与交換の世界とは,まさにそれが何らかの意味で閉じ られていることを必要とするのです.たとえば,科学的な情報や知識が,贈与 的な原理によってインターネット上をタダで自由に行き来していくと,それが 誰でも参加できるインターネット上であるが故に,それを欲しがる人間を増や してしまい,そのなかにはもちろん信用のない人間も当然含まれますから,自 らの基盤である信用に基づくコミュニティを破壊してしまうことになる.イン ターネットがこれだけ拡大してしまうと,今度は,贈与的な世界を維持しよう とする人びとは,インターネットから離れた小さなネットワークを作ったり, あるいはもっと皮肉なことに,自分たちのかたきである暗号システムを使って インターネット上に閉じたコミュニティを作ることになるかもしれない.

上野――開こうとすると逆になるということですね.

岩井――基本的には,やはり資本主義的に開いていく力の方が強いとは思いま す.そのような力はまさに資本主義の力であり,しかも暗号化システムという そのための手段はすでに存在しているわけです.

デジタル・キャッシュと発行権の所在

上野――デジタル・キャッシュの出現が資本主義のある種の原理を見えるもの にすると同時に,情報の持っている二面性を明らかにしている.一方で信用と 人格の側面,他方で全員が持ってしまったら情報に意味がないから秘密にする という面がある.情報自体が一方で信用,人格を尊びながら,一方で秘密を招 かざるを得ないという二面性をデジタル・キャッシュが逆説的に明らかにして, この動きはまだ続くだろうということですね.この場合,贈与関係を維持しよ うとする側と資本主義化する側,究極の資本主義化を推し進める側の二つがあ るとして,どちらも開こうとする動きと閉じようとする動きを持っていると思 うんです.一方は全員にフリーにしようとして閉じてしまうし,一方は開こう とするなかで特定の銀行や企業や国家が持っている暗号コードしか知らないよ うな状態になる.ということは,この二つが争うというよりは,事態としては ヘゲモニックに両者が混在するような状態がインターネットという抽象的な空 間で起こりうるということではないでしょうか.

岩井――そのことを考える上で一番わかりやすい手がかりを与えてくれるのは, やはりデジタル・キャッシュです.それをいったい誰が発行するのかが非常に 重要な問題になるわけですね.つまり,一般に,貨幣の貨幣としての価値は, つねに貨幣のモノとしての価値を大幅に上回っている.とくにデジタル・キャッ シュについては,その実体は電子情報にすぎないからモノとしての価値はゼロ です.もっとも初期投資としては,コンピュータや磁気カードを作成しなけれ ばなりませんが,それらは一度作ってしまえば,何千回,何万回と使えるわけ です.だから,銀行なり企業なり個人なりがデジタル・キャッシュを発行する 権利を得ると,その経済力は相当なものになってしまう.なにしろインターネッ ト上を走るまったく原価ゼロの電子情報を人びとが貨幣として受け入れてくれ さえすれば,それによってこの世のありとあらゆるモノが買えることになるわ けですから.そして,このデジタル・キャッシュの発行元は,インターネット を舞台にして拡大していくポスト産業資本主義に対して,ほぼ独占的に資金供 給者としての地位を確保することができてしまうことになる.これこそ,さき ほど上野さんが触れられた,原始的蓄積過程にほかなりません.ただし,たと えば,かつてのイングランド銀行が大きな役割を果たしたイギリスにおける原 始的蓄積は産業資本主義の原始的蓄積であったわけですが,デジタル・キャッ シュの場合は,同じ原始的蓄積過程がポスト産業資本主義的な形態で繰り返さ れるということになるわけです.デジタル・キャッシュに関しては,デヴィッ ド・チョムの提唱したものだけではなく,他にもたくさんの種類のプロポーザ ルがあって,激しい主導権争いを行なっている.誰が勝つかわからないんです が,なぜいま争っているかというのはよくわかる.貨幣発行に関しては初めが 肝心です.最初に主導権を握れば,あとは累積的に独占力をつけていくことが できると予想されるからです.
 インターネットは,いわば新たな経済領域へ と発展していく可能性がある.いままでは,地球という地理的,物理的な制約, さらには国家という制度的な制約があるから,伝統的な意味での経済領域はな かなか新たには作れない.新しく経済領域を作るためには,他の経済領域を削 らなければならないわけですね.その結果,必ず地域間,国家間の戦争がひき おこされることになる.ところが,このインターネットの世界とは,地理的な 場所も国家的な保護も必要としない情報空間ですから,大げさに言えば,その 拡大はこの地球上に新たな大陸,新たなフロンティアが作られたことに等しい. しかも,先ほどから述べてきたように,このインターネット上で,商品を交換 することも貨幣を流通させることも可能です.それは,まさに,旧来の地域や 国家を超えた,新たな資本主義経済圏の創出にほかなりません.
 それでは, このインターネット資本主義とははたしてうまく行くのだろうか? この問い に対しては,わたしは必ずしも確信をもってイエスとは言えないのです.それ どころか大いなる危険を感じているのです.なぜかというと,資本主義とは, それが純粋化すればするほど不安定になってしまうという本質的な逆説を抱え たシステムであるからです.たとえば,貨幣の発行を考えてみましょう.現実 の資本主義で,もし貨幣発行権を独占した人間なり銀行なりが,他の人間や企 業と同様に私的な利潤を求めて動くとしたらどうなるでしょうか.その場合必 ず貨幣を過剰に発行してしまいます.なにしろ,貨幣の貨幣としての価値は モノとしての価値をはるかに上回っているわけで,それを発行すればするほど 儲かるからです.このような貨幣発行権を持っている人間が,新しい貨幣を発 行することで得られる利潤のことを,英語では君主特権を意味するシニョレッ ジ(seigniorage)と呼びますが,それはかつては貨幣発行の特権を王様が握っ ていたことを意味します.そして,経済の歴史をひもとけば,王様が貨幣を過 剰発行したり,その品質をどんどん悪くしていった歴史に満ち満ちています. この誘惑に勝てる王様は少ない.そして,多くの王様はこの誘惑に負けて貨幣 を過剰発行し,インフレーションをひきおこし,国家崩壊の危機を招いてしまっ ています.
 話が脱線しますが,いま,アメリカがそれと同じことをやり始め ていて,ちょっと心配なんです.アメリカは世界資本主義の中で基軸通貨国の 地位を占めている.ドルはアメリカの通貨だけれど,同時に世界中の取り引き の支払い手段として使われている基軸通貨です.ということは,アメリカがド ルを発行すると,それを他の国でも使ってくれるわけで,アメリカは自分の国 力に見合った以上のものを世界から買えることになる.だから,基軸通貨国に はつねにもっと貨幣を発行したいという誘惑がある.たとえばいま,ドルの為 替レートが日本円やドイツ・マルクにくらべてどんどん下がっているでしょう. それは,外国に対するアメリカのドル建ての借金の価値をどんどん下げること になる.ドルを多く発行して,ドルの為替レートを下げれば下げるほど自分の 借金が減っていくという,こたえられないほどうまい話なのです.これは昔の 王様が虜になった誘惑と同じです.たしかに,かつてアメリカには基軸通貨国 としての矜持があって,自分の国家の利益のみを考えるのではなくて,ドルの 発行をある程度コントロールし,それによって世界経済の安定性を保っていこ うという意思があった.同じことは,かつてポンドが基軸通貨だった頃のイギ リスや,ギルダーが基軸通貨であった頃のオランダにも言えました.ある国の 貨幣が同時に世界資本主義の基軸通貨として機能するためには,その国の政府 や中央銀行がその発行に関して,国家利益を離れて行動することが絶対に必要 なんです.ところが,冷戦構造の崩壊後のアメリカは,このようなメタ国家的 な意思を失いつつあるように思う.その結果がドル安であり,これは結局,世 界資本主義的なインフレーションにほかならない.まだ,ハイパーインフレー ションには達していませんが,これは世界資本主義の帰趨を考える上で大変心 配なことなのです.
 話を戻すと,同じことはインターネット資本主義のなか でデジタル・キャッシュの発行権を握ることになる人間や銀行に関しても言え ます.もちろん,それほど遠くない将来においてインターネットのなかにも国 家論理が入り込み,貨幣発行権を私的利益のために使ってしまうことを規制し ようとする動きが起こるでしょう.でもインターネットはそもそも国家を超え た存在であるわけで,規制はなかなか難しいですね.

上野――最終的に誰かが権益を握ったとしても,ドルが抱えているような問題 がまた再び起こる可能性は十分あるわけですよね.

岩井――十分あります.インターネットだとそれが純化されたかたちで起こる. インターネットの世界とはまったくプライヴェートな個人の集まりで,まだ国 家的な制度はありません.というか,そもそもインターネットとは国家規制を 嫌う人の集まりですよね,本質的に.たとえば,デヴィッド・チョムはラディ カルなまでの個人主義者です.彼が導入しようとしているデジタル・キャッシュ の最大の特徴は,そのほぼ完全なまでの匿名性です.彼の提唱した乱数署名と は,誰がどこでデジタル・キャッシュを使ったかを,それを発行した銀行すら トレースできない仕組みです.このように,インターネットはありとあらゆる 手段を使って国家の介入を排除しようとしている.したがって,いったん一つ の銀行がデジタル・キャッシュの発行権を握ったら,その発行権を外部から規 制するのはたいへんに難しい.しかも,インターネットがメタ国家的な色彩を 帯びていることは,国家の介入を嫌うマフィアとかヤクザとかいった裏経済の 人たちがこれにどんどん参入してくるはずであり,そういう連中がたとえばデ ジタル・キャッシュを使い始めると,彼らの要求に突き上げられて,その発行 がさらに不安定になる可能性が増してしまう.この意味で,インターネット資 本主義においては,貨幣発行をめぐる不安定性が,一国経済の内部よりはるか に増幅されたかたちで出てくる可能性がある.

上野――個人でも負い切れなく なるということですね.デジタル・キャッシュでは税金が取れないという話が ありますが.

岩井――デジタル・キャッシュは完全に税金逃れの手段に使われますよね.あ る意味でインターネットとはブラック・ホールです.ここは一国の国家権力か ら少なくともいまのところ切り離されています.そして,ここは純粋に情報だ けがやりとりされる世界であるわけですが,すでに繰り返し述べたように,イ ンターネット上でやりとりされる情報は原則的には誰でもコピーすることがで きるものです.だが,ここで逆説があり,ここでは情報が純粋な公開性を持っ ているから,逆にそれを純粋に匿名的にする暗号システムが導入されることに なる.インターネットの外の国家経済において使われる貨幣に関しては,金属 であったり紙であったりという若干の実体性を持っているから,それに匿名性 を確保する試みもある程度中途半端になってしまう.たとえば,われわれの使っ ている日本銀行券をよく見れば,ちゃんと番号をふってあり,その意味では完 全なコピーは不可能です.だから,誘拐事件などで,身代金に支払われた銀行 券の番号から犯人の足がついてしまったりすることがあるわけです.

上野――あまりにも純粋な資本主義すぎて,実際には実現不可能であって,だ から,どこかでまだらな不純なものを巻き込みつつ,贈与経済の部分はそのま ま,ある程度実体的に見える経済は実体的なままにという,落ち着きどころは そんなところかと(笑).

岩井――僕もそう思っています.

上野――あまりに原理的でありすぎるがゆえに無理があるわけですね.

コピーレフトの果たす役割

岩井――まさしくそうなんです.結局,資本主義の見方には二つあり,一つは 資本主義というのは自由放任にしておいても「見えざる手」の働きによって自 己完結性を保っていくシステムであるというもので,アダム・スミス以来の伝 統的な経済学の立場です.これに対して,私が『不均衡動学』以来論じてきた ことは,純粋資本主義というのは自己矛盾的なものなんだということなのです. それは,まさに貨幣経済であるということから,完全な自由放任にまかしてお いては,必ず恐慌におちいったりハイパーインフレーションへと暴走してしま う可能性を持っているということです.ところが,現実の資本主義経済は,絶 えざる景気循環を経験しているのだけれども,なかなか崩壊しなかった.大恐 慌は1930年代に1回経験しただけだし,ハイパーインフレーションには何回もお そわれましたが,それはすべて局所的で,全世界をまきこむものではなかった. それでは,現実の資本主義がこのようにチョボチョボの安定性を保っていたの はなぜかと言えば,それはどこかで不純なものを含んでいるからだというのが, 私の考えです.たとえば,労働市場で市場原理が働いていないとか,国家が存 在しそれが必ずしも利潤動機で動いていないとかいったことが,結果として, 資本主義が自己崩壊することから救っているのです.しかし,これに対して, インターネット上の資本主義はまさに純粋化された資本主義です.そして,そ れだから,そこでは資本主義が本来抱えている不安定性がはるかにはっきり出 てくると思う.せっかくデジタル・キャッシュを作ってもそれが発行元の貪欲 によって過剰に発行されてしまって,その価値が消えてしまうとか,突然マフィ アが国家経済からインターネットへと参入し,デジタル・キャッシュが不足し てしまうとかね.もちろん,インターネット上での資本主義はようやく始まっ たばかりだから,まだ遠い先に発現するであろうその不安定性についていまか ら心配する必要はないかもしれませんがね.
 ただ,ここで皮肉なことは,こ のようなインターネット資本主義の不安定性を救う主として,コピーレフトが 何らかの役割を果たす可能性があるということです.たとえば,市販されてい るソフトウェアと同じものをインターネットで自由に配布するというような動 きは,結局,インターネットの世界が資本主義化していく力に対して何とか抵 抗しようとしているわけですね.しかし,まさにこのような動きが,インター ネット資本主義をあくまでも不純なものに保ち,それを純粋資本主義の持って いる本質的な不安定性から救い出す一種のかすがいの役割を果たすことになる かもしれない.

上野――その二面性はデヴィッド・チョム自身の二面性でもありますね.究極 のアナーキストであると同時に究極の商人資本家かもしれないという.いま思っ たのはたとえば,昔マイケル・ライアンがSDR(特別引出権)に関して,これにx は贈与の経済の部分があるのではないかということを,『デリダとマルクス』 (今村仁司他訳,勁草書房,1985)で言っていたことがあると思うんですけれ ど,SDRのような国家間の経済の動きには情報経済というのは適している部分も あるわけですよね.

岩井――インターネットの世界においては,ある意味で国家と国家の隙間がワーッ と広がってしまったわけで,それが再び一つの国家にならないでうまくいくか どうかというのは難しい話です.ただ繰り返しになりますが,そういう国家間 の隙間が広がってインターネット資本主義を作り上げていくわけだけれども, そもそも世界資本主義自身がやはり情報の発達によってポスト産業資本主義化 してしまい,個々の国家を超えた存在となっている.だからインターネットは 純粋化された資本主義を実現しつつあると言っていますが,それを取り巻く世 界資本主義自体が,昔に比べてはるかに純粋化されるようになり,資本主義の 持つ不安定性を増幅させている.結局,世界資本主義の不安定性がインターネッ ト資本主義において集中的に表現される,という感じになっているのかもしれ ません.いまに世界資本主義がすべてインターネットに吸収されて,それに国 家が付録のようにくっついて,国家とは労働するとか食べるとかそういう経済 の実体的な部分のみをコントロールする場になってしまうかもしれません.

ジョージ・ソロスとケインズ

上野――今号で別稿にも書いたことなのですが,ジョージ・ソロスという投機 家が東欧にものすごい寄付をしていて,彼はポパーを援用しながら非常に社会 主義的なことをやっている.それこそオプションで稼ぎ出したお金をピースミー ル・エンジニアリングに使っているんですが,その政策の一つひとつは非常に 社会主義的なのです.彼は非常に両義的な人物であって,デヴィッド・チョム の二面性に似たおもしろさとうさんくささを持っている.彼もインターネット に膨大なお金を使って活動をしているのです.そういう人間が究極の商人資本 家なのか,東欧を食い物にしようとしているハイエナなのか,あるいは現代の ある種の義賊なのかわからなくなる.パーソナリティの側にも,情報や貨幣の ような二面性を持った人が出てくるということがあるのかもしれないですね.

岩井――ソロスはハンガリー系のユダヤ人ですよね.彼はデリヴァティヴに非 常に巧みに投機してお金を儲けているが,おもしろいのは彼の投機の基本原理 は新古典派経済学批判なんですよ.どういうことかというと,この近代におい ては,すべての人間は,たとえ投機家であっても,好むと好まざるとにかかわ らず,アダム・スミスの「見えざる手」の神話の虜になっている.だから,投 機というものについても,どこか自己安定的なものとみなしてしまう.だが, そうではなく,資本主義というのは本来不安定的なものであり,そのなかのさ まざまな資産価格に関しても不連続的な動きを見いだすことができ,その不連 続点をつかまえることによって大きな投機が可能になるというものです.つま り,この世の中は新古典派的に動いていないのだから,新古典派的に動いてい ると思っている大多数の投機家の裏をかいて大儲けすることができるというの です.つまり,自らの投機の成功によって新古典派経済学の誤謬を実践的に証 明していることになる.もちろん,これには多分に自己弁護もあると思うので すけどね.いずれにせよ,そのような思想を持っている人物が,ある意味で反 資本主義的な贈与経済を援助するということは,決して矛盾してはいないと思 います.そう言えば,あのケインズも,投機に関しては誰にも負けないプロで して,それは彼がその当時の誰にもまして資本主義のメカニズムを知っていた からです.ケインズの経済学とは,徹底した新古典派経済学批判ですが,彼は まさに資本主義がアダム・スミスの言うように安定的には動いていないことを 理論的に証明し,そして投機によって実践的に証明したわけです.じっさい, 彼は投機をやった儲けで,自分が所属するキングス・カレッジをケンブリッジ 大学で一番の金持ちのカレッジにしたりしている.そして,ケインズは資本主 義の不安定性をよく知っているから,これをたんに自由放任にするのではなく, 何らかのかたちでコントロールしようとした.たとえば,彼は,経済の投資活 動を国家的にコントロールすることによってしか,資本主義は不況から自由に ならないと考えていました.このへんでも,ソロスと相通じるところがあると 思います.というか,ソロス自体がケインズに一番影響を受けているとどこか で書いていますね.いずれにせよ,驚くべきことは,ケインズの経済学のよう な徹底的な新古典派経済学批判が,少なくとも一時的にせよ経済学の主流を占 めたということです.なぜならば,新古典派経済学とは,まさに,西欧の近代 思想のミニチュアであるからです.結局,それは,ケインズという人間が当時 の新古典派経済学のメッカであるケンブリッジ大学の中心人物であり,彼自身, 最初自他ともに認めるもっとも世界で優秀な新古典派経済学者として出発した からですね.その点では,あくまでも世界の周縁にしか居を構えることのでき ないソロスとは違いますけどね. 

[1995年4月19日,東京大学経済学部岩井研究室にて]

(いわい かつひと・経済学/うえの としや・社会思想)


★1
デジタル・キャシュについては本誌13号 渡辺保史氏の論考を参照.

★2
本誌、粉川哲夫 + 武邑光裕 対談「デジタル・ダンディズム」を参照のこと.


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