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序文 - ルーディ・フックス
変移する境界線 - ティモシー・ドラックレイ
序論 - レイネ・コエルヨ
アート,メディア,メディア・アート
マリエケ・ファン・ハル

入場料
展示作品
参加作家
 
1998年11月13日(金)〜12月27日(日) [終了しました.]





変移する境界線 - ティモシー・ドラックレイ


「時間は運動を測定するが,もはやそれと関係しない.だが運動は時間によって条件づけられ,それに関係している.これが『純粋理性批判』におけるカントの第一の偉大な逆転である」

(ジル・ドゥルーズ)

アナログからデジタルへのメディアの移行によって引き起こされた「革命」に関しての,統一的な美学理論は現われていない.そればかりか,累加される電子メディアの影響は,芸術の創作や,その伝達,テクノロジー,メディア,流布,一時性などとの関係についての前提の多くを揺るがし,消散させた.この10年ほどの間に成熟を見せてきた作品の広がりは,真剣な再検討を迫っている.表象の批評理論とポストモダン体験の余波を受けて変質する美学的言説のうちに,コンピュータ・アニメーションやデジタル・ヴィデオ/サウンド/画像処理,電子ブック,ハイパーメディア,インタラクティヴィティ,サイバースペースといった,電子的なことがらを語るための新しい用語を組み込まなければならないのである.テクノロジーと芸術の融合によって,芸術体験がいかになされるかに関して,いくつかの重要な問題が提起されている.テクノロジーは,文学や映画からエンターテインメントまで,さまざまな芸術にわたり,遠隔美学とでも呼ぶべきものの登場を促しているのだ.

この加速する変移が及ぼす効果を評価するのは難しい.だが文化の変質はつねにテクノロジーとともに起こってきたのであり,今後多くの創造的実践は,おそらくネットワークやエキスパートシステム,人工知能,そして没入感やインタラクティヴィティ,さらには遺伝生物学といった手法に依拠することになるだろう.コンピュータと表象との関係にそれがどれほど関わることになるかが,発展するハイパー/インタラクティヴ/サイバー/ヴァーチュアル/ネットワーク・メディアに取り組むために枢要な点となるのである.デジタル・メディアやネットワーク,テクノロジーの発展は,まさに社会的コミュニケーションを大きく基礎づけている.そしてもし,テクノロジーの発展によって全世界的なデジタル交換システムが(あり得ることだが)作り出されたとしたなら,コミュニケーションに関する広大な視野に立った批評法が必要となるだろう.それはテクノロジーの文化的な意味について,それが美学的ないし政治的に生み出す意味という点から説明するようなものになるだろう.電子的な文化における表象の刷新は,新しいコミュニケーションの複雑で微妙な状況をとらえる鍵を握っているのである.

デジタル・テクノロジーの発展をふまえて,いくつかの重要な努力目標が設定されている.文化の理論や経験との関係という視点から,変移するテクノロジーの歴史を適切に説明すること,これらの変化の形を明らかにするための批評的フォーラムをつくること,テクノロジーの言説のうちに社会的,美学的な問題を組み込むこと,自主製作活動を率先して支援すること,創造的なプロジェクトのための流布手段を見つけ出し明らかにすること,そして深い必然性をもった長い電子的芸術の歴史を脈絡づけること,などである.

デジタル・メディアによって,伝統的なもののうちにもある種の変化がもたらされている.モンタージュ法,物語法,一時性,そしてイメージの記号的構成をめぐる問題の再検討や拡張,電子機器における「時間限定的空間」への関心といったものである.

電子メディアにおいては,新たな問題領域が現われてきている.それは空間的,時間的な階層/重層におけるテキストやイメージ,サウンドに関しての,並置や連想といった形式的な問題だけでなく,それらの相互作用(あるいは衝突)についての問題である.単一化に帰着されるのではなく,連想の流れが一時的な物語の断片として生まれる.ハイパーテキスト(一つの例として)は,たんなるテキストベースのメディアから,多価的なメディアへさまざまなかたちで展開した.こうしてダイナミックなメディアに関与する作品は,ハイパーテキストにおけるようにテキストを相互参照するかわりに,テキスト,サウンド,イメージの間の境界線の多くを崩壊させ,ユーザーを同化作用とフィードバックのただ中に置くのである.その効果は,帰着ではなく,移行によって特徴づけられる領域を提起することになり,そこでは,経験は認識論的な存在と一時的な偶然性の間を揺れ動く.

因果関係に基づく線形モデルから相対主義的モデルへの移行に立ち向かう作品において興味深いのは,創作のプロセスが意味的,物語的な熟達というよりは,相互的な系になっているということである.このような経験的アプローチに大きく依拠するということは,電子機器の領域での,空間と時間に関する言説の境界の崩壊を評価することを意味している.ヴィリリオは書いている.「拡張や運動の規準は,いまやほとんど,もっぱらテクニカルなヴェクトル,すなわちその経路における時間と空間を非同期化させるコミュニケーションとテレコミュニケーションの様式による規準のみとなった.」しかし,空間的なものと時間的なもののあいまい化は,コミュニケーションの問題にとどまらず,文化の問題となる.再形成された主体が進んでゆくのは,物質の一時性のうちで物理法則という足場が不確かなものとなり,その非空間化された作用も存在の喪失とはならないような,仮想化された系の中なのである.

歴史,記憶,虚構と言説の間の相互作用は,まさに電子メディアの意味に関する本質的な問題を提起する.連関の形成を数学的に方程式化するのではなく,物質を挿話的なものとして組織化するアプローチが登場しているのである.このことを考察するには,文学理論の展開だけではなく,文化的研究,とりわけフーコーやドゥルーズ=ガタリの著作を参考にすべきかもしれない.フーコーは情報と権力との関係をアーカイヴというかたちを使って立証し,それを説明するための考古学という方法論を提起した.彼によれば,「考古学が明らかにしようとしているのは」,言説のうちに隠されたり明かされたりしている「思考や,表象,イメージ,主題,先入観ではなく」,そうした言説自体,いくつかの規則に従う実践としての言説なのである.それは言説を記録として,何か他のものの記号として,透明であるべき要素として扱うことではない.そうではなくて,ついには本質的なものの深みに,それが留保されている場所に,到達しなければならないのだとすれば,多くの場合その望ましからぬ不透明さこそ洞察されなければならない.それは,言説をそれ自体の量感において,モニュメントとして扱うことだ.それは解釈的な学問ではない.巧みに隠された別の言説を探すことではないのだ.「それは寓意的であることを拒否する.」『知の考古学』[邦訳:河出書房新社1981年]

挿話的な,あるいは配列された情報とは,統合されたイメージやテキストというメタファーが全体性として作用することができず,個々の出来事それ自体が,経験と意図と解釈による複雑な構成物であることを示唆するように作られている.この意味で,電子機器による物語とは,線形の可能態ではなく,非線形の動態なのであり,帰着ではなく移行を提起するものである.こうした作品を記述する,ナヴィゲーション,ハイパーリンク,アーカイヴ,データベース,アルケオロジーといった言葉のうちには,まさにその含意が告げられているのだ.

ドゥルーズ=ガタリは,「千のプラトー」というメタファーの中で,デジタルメディアにおける経験を理論化する方法,「リゾーム」を見つけ出した.彼らによれば,「世界はその軸を失ってしまっている.主体はもはや二分法さえ行なえないが,アンビヴァレンスあるいは重複決定のうちに,その主体の次元に対してつねに補完的な次元にある,より高い統一に応じることになる.(……)このような系はリゾームと呼ぶことができるだろう.(……)リゾームはまったく特異なものだ.地図であって,透写図ではない.(……)リゾームのもっとも重要な特徴のひとつはおそらく,それがつねに多様な入口通路を持っているということだ.」[邦訳:『千のプラトー』河出書房新社1994年]

この「入口通路」は連想的ネットワークによって連結されており,そこでは一時的な結合が因果律的な飛躍に取って代わっている.こうして,電子メディア作品の多くは,相互参照をするかわりに,テキスト,サウンド,イメージの間の境界を崩壊させ,ユーザーを同化作用とフィードバックのただ中におくのである.挿話的であることにより,あるいは配列されることにより,この情報は,統合されたイメージ,テキスト,空間あるいは時間の有用性が,全体性として作用することができず,連結された個々の出来事それ自体が,経験と意図と解釈による複雑な構成物であることを示唆するように作られている.この意味で,電子機器による物語とは,表象的な実践であると同時に,経験的なものの「圏」において拡張される思考の本質的な言説として現われてくる生産手段として,線形の可能態ではなく,非線形の動態なのである.

レジス・ドブレイは,近著『Media Manifestos』の中で,メディアの持つ社会的な意味を特徴づける広範な枠組みの概要を示している.ロゴスフィア,グラフォスフィア,ヴィデオスフィアはそれぞれ,「筆記以後」,「印刷以後」,「視聴覚以後」という異なった「体制」に対応するものである.そのような歴史的な特徴づけには問題があるにせよ,ドブレイはイメージに関する重要な文化的問題を指摘している.彼は次のように書いている.「こうして人工的イメージは,西洋の知においては,3つの異なった存在様式——存在(偶像を通じて存在する聖人),表象,そしてシミュレーション(科学的な意味で)——を経ることになるが,知覚される像は,超自然的,自然的,ヴァーチュアルという,継起する3つの包括的なパースペクティヴによる媒介的な機能を果たしていたのである.」このある種の再帰的モデルは,ドブレイが歴史主義というよりはメディオロジーの著作であると認めていることに合致するものである.しかしその問題の広がりは,これら2つの学問の限界を越え,社会的認識論や経験心理学,そして科学的方法論の領域へと拡大してゆく.ドブレイによるこの概要は,こうしたイメージを形作るテクノロジーや,表象の認識論的な効果との衝突などが説明されていないにせよ,イメージの仮想化には象徴というものに根ざした歴史があることを示しているのだ.

テクノロジーの発展とイマジネーションとの間の関係が引き起こす問題は,文化的伝統に対する激しい異議申し立てとなる.コミュニケーションや人工知能,合成生物学,サイボーグ・アイデンティティ,仮想的集合性,あるいは電子的民主主義などといったシステム理論は,電子的文化,そして電子的芸術の意味を完全に包含するには十分ではないであろうことは明らかである.むしろコミュニケーション理論の方を,インタラクティヴィティや分散,そしてテクノロジー的表象という点から再構成する必要に迫られるだろう.強力に推進される,これらのテクノロジーは,追い立てられたモダニズムの文化を救済し,安定した政治的帰属と日和見な協調関係への回帰と対決するものであるかのようである.アイデンティティと同等にイデオロギーに関わることによって,テクノ「圏」は,サイバー社会学の新しい問題という以上のものとなる.それは,帰属の分散と権力の分担を条件とする,歴史的アイデンティティを打ち立てることができる場としてあるのだ.

ネットワークは,2地点間に制約された電話通信の支配を破り,放送メディアの優位を打ち崩す.それに取って代わるダイナミックなシステムにおいては,場所を持たないことは,どこにも存在できないことではなく,また表象とは現実の喪失を示す記号ではない.

実際,空間と時間の問題がモダニズムの言説を支配していたのに対して,インターフェースと持続という関連した問題は,さらに錯綜した状況を示すものとして,ポストモダニズムの中に立ち現れている.公共「圏」という擦り切れた伝統,ポスト工業化時代の社会学,そして離散的なアイデンティティは,稠密に分布する自己というかたち,あるいは遠隔文化のメディアスケープの中への自己の没入といったものに取って代わられている.それは,物理的空間内にその境界が位置づけられないようなコミュニケーションの実践を生み出すはずである.新しいメディアのテクノロジーは,知覚や受容の,そしてコミュニケーションの輪郭を位置づける.それらは,物質の支配が一時的なものであり,その空間内での位置は希薄であり,その一時性は分断された瞬間のうちには位置づけられず,そしてその存在は偶然の場所の一致というよりは参加するという行為のうちに示されるような,そのような領域に生じるものなのである.

(政治評論家,ニューヨーク)

翻訳:白井雅人