ICC Review

ICC Review

夢の効用とリアリティ
The Effectiveness of Dreams and Reality

清水哲朗
SHIMIZU Tetsuo

「彫刻アニメーション 夢のリアリティ
──グレゴリー・バーサミアン」

2000年7月28日−9月10日
NTTギャラリー A, D



グレゴリー・バーサミアンは,初期アニメーション技術の原理を用い,フィルムの1コマ1コマを連続するポーズを表わす彫刻的オブジェに置き換え,それを高速に回転する複数のアーム(鋼鉄のケーブル)の先端,あるいは円筒形の構造体に配することで,彫刻によるアニメーションを制作する.映画技術では1秒間に24コマの像が流れていくが,バーサミアンの作品では1秒間に13個の連続する彫刻的オブジェが,見る者の眼前を通り過ぎていく.原理的には,強烈なストロボ・フラッシュ・ライトが回転する作品構造体に照射されることによって,彫刻的オブジェの形態が,残像効果によって連続的に変化しているように見えるというわけだ.

鋼鉄の人形をモチーフとした作品《ナルシジフォス》(1990)や《フォーンピット》(1990),高速回転することによって扇風機の羽根が止まって見えるユーモラスなパラドックスを思わせる《扇風機:自画像》(1990)などの初期作品は,バーサミアンの作家としての,そしてほかの作品にも通底する作品の質としての,素朴な力強さをよく表わしている.

初期作品以降,バーサミアンは90年代を経由して高度な完成度をもつ作品を次々と生み出していくことになるが,作品を構造上の問題から考えると,大きく二つに分けることができる.

一つは回転構造上のアームの先に彫刻的オブジェが取り付けられているタイプの作品である.天使とヘリコプターが交互に変身を繰り返す《プッティ》(1991)や,40歳という年令を迎えたときに感じた恐怖をバースデー・ケーキのロウソクから変身したメデューサの蛇の頭髪になぞらえた《40歳》(1993),白いテディ・ベアの体の上にクリントンに関する報道記事が現われ,それが新聞紙面へと変わる《孤児》(1998),そして叫びを発する口がしだいに裏返り,頭部が内部と外部を無限に反転させていく《叫び》(1998)がこのタイプの作品に当たる.

もう一つは,円筒形や球形の構造体フレームの何か所かにオブジェを配し,回転させるタイプの作品である.布をかぶせられ視界を奪われた中央の人物に,視力検査表をかざす腕の登場する《ノー・ネヴァー・アローン》(1997)や「覆水盆に返らず(こぼれたミルクを嘆いても無駄)」の諺よろしく引き裂かれた写真上のカップルの片割れがこぼれたミルクとなり,下方で新たなカップルと出会う《ツー・ステップ》(1997),作家と思しき人物の頭部から人型が出現し,逆向きに身体を折り返しながら円や四角形のタイヤへと変身し,あげくの果てにはねずみ取りのような罠へ飛び込む《ベット(わな)》(1998)がこのタイプの作品に当てはまる.

前者の水平方向,および円運動のみのアームの回転による作品のいくつかは,観客の頭上高く設置されており,観客は,その回転円の下に入り,作品を見上げるような位置関係をとる.後者の円筒形,および球形の回転体上に複数のオブジェが配されたタイプでは,観客はその内部に入ることは不可能で,作品は離れた位置に設置されており,観客は高速な回転体に触れないよう安全上の配慮から,透明アクリルでできた壁や鉄の柵によって作品から隔てられている.

このような作品と観客との位置関係を図式的に考えれば,アームの回転するタイプの場合,観客は作品の回転する空間に一元化,内在化されており,円筒,球体回転タイプの場合には,観客は作品から離れ,主・客二元論化,外在化されていると言うことができるだろう.

ここで,バーサミアン作品におけるこの「内在化」と「外在化」の問題を考えていくうえで,ロザリンド・クラウスの示唆的な言説を引用してみよう.クラウスは,1888年刊行の『La Nature』誌に掲載されていたゾーイトロープの図版をもととしたマックス・エルンストのコラージュによる小説『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930)について次のように語っている.夢を見ているとき,あるいは夢のドラマのなかにいるとき,夢を見ている者は,その特殊な感情について他者のように語ることができる.つまり,「君は夢を見ているんだよ」と他者のように自己に語りかけているのだ.だからエルンストは,このコラージュ作品のなかで,そのイリュージョンの内側と外側では同時に少女は修道女になる夢を見るという意味で,ゾーイトロープを使ったのだろう.[★1]

クラウスの分析では,エルンストの作品上の少女は,夢を見ている本人であり,人は夢を見ているとき,同時にゾーイトロープのスリットごしに内部の少女を見るように自己の姿を見ていると言うのだ.

そして,クラウスの夢のメカニズム分析をバーサミアン作品に当てはめてみると,アーム回転型の作品の下にいる観客の位置は,ゾーイトロープとその中にいる少女の関係,つまり,夢の情景をその登場人物として体験している当事者の位置に置き換えて考えることができる.一方,円筒,球体形の作品に対し外にいる観客の位置は,ちょうどゾーイトロープの回転する内部をスリットを通して外側から見ている位置と重なる.それはクラウスの言う,夢の情景を外部から見る他者の位置になるのである.

バーサミアンの作品は,単にクラウスの分析に従って単純化できるものではないが,バーサミアン自身は作品を制作するとき,クラウスが指摘するような,夢の情景の内部(=当事者)と外部(=他者=観察者)によるメタレヴェルの二重構造を,無意識のうちに志向しているのではないだろうか.つまり,観客の位置を,「夢見る者」としての当事者と「夢見る者を見る」者としての他者(=もう一人の自己)として同時に設定し,その二方向から作品の制作のアプローチを考えようとする.そして,結果的に二つの方向からの視線を潜在的に内在化しており,それによって作品を常に二重構造化させようとしていると考えられるのではないか.したがってバーサミアン作品の視覚的体験は,クラウスが言うような夢の空間性を強固に獲得するようになる.だからバーサミアンの作品は,情景として客体視されるだけでなく,内部からの主体的な視覚的体験性を見る者に強く要求してくるのだ.

私たちは,現実を当事者として見ていると思っているが,けっしてそのように現実を見ていない.記号や意味として理解される現実は,不正確で一面的なものでしかない.だから,自己を分身化させ,自在な変容を可能にするもう一つの目を必要とする.私たちは夢を見るように現実を見るほうがよいのだ.


■註
★1──Rosalind E. Krauss, The Optical Unconscious, MIT Press, 1993, p209より訳出.ロザリンド・クラウスのエルンスト作品への指摘についてはICCにおける展覧会カタログに掲載の論文「無意識への旅──夢とパルス」(上神田敬著)を参照した.

しみず・てつお――美術評論.東京造形大学助教授.


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