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時間と空間の織り手
The Hand that Weaves Time and Space

加須屋明子
KASUYA Akiko

金守子(キム・スージャ)の
ヴィデオ・インスタレーション《針の女》

2000年5月26日−6月18日
NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]



韓国に伝わる伝統的なベッドカヴァーの布を縫う,あるいはそれで包む,さらにはただ広げてみせるなどの行為を中心に据えながら,これまで世界各地で作品を発表し,高く評価されてきたキム・スージャのヴィデオによるインスタレーションである.《針の女 (A Needle Woman)》というタイトルからも窺えるように,今回は彼女自身が針となり,縫い合わせるのは布ではなくて,雑踏を行き交う人々であり,また大きな岩の上を通り過ぎてゆく風であったりする.

広い部屋の四方の壁に,計6種類の映像が投影されていて,そのいずれにも,作者自身である細身の女性の後ろ姿が映る.ただし,都会の通りに立つ四つの映像では,彼女の姿は行き交う人々に紛れてしばしば見えなくなる.その中の一か所は東京・渋谷の繁華街である.通り過ぎる人々は,何を目的に急いでいるのか,じっと佇む彼女の姿には,見事に一顧だにしない.「都会の無関心」という言い古された言葉が,にわかに現実味を帯びて思い出される.ニューヨークの雑踏に佇む彼女もまた,群衆の中にあって孤独で異質な存在であり,人々は彼女を無視することによって異者を排除しようとしているかのようにも感じられる.群を抜いて人通りの多いのも,この2都市である.彼女は後ろ姿でしかも上半身しか映っていないために,肩が触れたり人混みに紛れたりする際の彼女の表情もわからず,足下のふらつきも見えない.それがかえって観者である私たちに,あたかも画面の中へ入り込んで彼女とともに雑踏に立っているような感覚を呼び起こす.人波に押し流されないよう,一か所にじっと立ち留まるために相当な体力を要するのではないだろうか,などという不安な気持ちも喚起させる.

これと対照的に,好奇心をむき出しにして,しばしば人々があからさまに振り返り,彼女(そして私たち)の顔を覗き込んだりしてゆくのが,インドのデリー,そして中国の上海である.とりわけデリーの路上では,人々はのんびりとたむろし,ときおり力車も行き交い,子どもたちが何か話しかける.そこでは時間はゆったりと流れる.上海での彼女もまた,人の顔が容易に見分けのつくほどの雑踏に佇みながら,街並みに溶け込んでいる風である.ここで彼女が何のためにじっと立っているのか,といぶかしがった人も多かったのではないだろうか.しかし,彼女はただ,じっと立ちつくすのである.その横を,人々が通り過ぎてゆく.時間が流れる.

向かい合った双方の壁には,じっと川面を見つめる彼女と,大きな岩の上に横になる彼女のやはり後ろ姿が映し出される.川はインドのヤムナ川,岩舞台は北九州である.悠久の歴史を感じさせる川の流れを前にして,佇む彼女は何を考えているのだろうか.これには《洗う女 (A Laundry Woman)》というタイトルがつけられている.川の水は濁っていて,底も見えない.ときおり画面をよぎって流れ過ぎる漂流物,それは人々の生活の痕跡でもあり,またこの川の上流にあるという火葬場のことを考えると,そこから流れてくる「人生の残留物」であるのかもしれない.彼女はそれらを浄化する.それと同時に彼女は,これまで作品に使用してきた布,そして彼女自身をも洗っているのかもしれない.「おばあさんは川へ洗濯に」という素朴な昔話のフレーズが思わず頭をよぎる.物語の昔懐かしいイメージと,幼児期に近くの川で洗い物をしていた叔母のかすかな記憶が甦る.洗う女である彼女を媒介として,観者である私たちの心が洗われてゆくようにも感じる.そしてもう一方の壁に映し出される,岩の上の彼女はじっと動かず,空だけが動き,雲がさまざまに形を変える.まるで空という大きな織物を彼女は縫いつづけているようでもある.

街の雑踏と,かすかな風や水の流れの音を聞きながら,これらの映像に囲まれているうちに,徐々に後ろ姿の彼女に心が寄り添ってゆき,ある深い共感を覚えた.それは同時代に生きる人間として,あるいはアジア人として,または女性として――その理由は定かではないにせよ,それらをすべて含めたうえでの感動である.

あるときには都会に,あるときには大自然の中に,融通無碍に時間と空間を行き来するような彼女の姿勢はノマド的であり,またいつでも「風呂敷包み一つ抱えて」移動可能な身軽さが漂う.この「包み」は,西欧ではいわばトランクに相当するが,アジア文化圏では古くから馴染みの梱包手段であって,特に韓国では引っ越し,移動には欠かせない身近で大切なものであったと聞く.かつてキムの作品でもしばしば用いられたことのある重要な「包み(ボタリ)」,今回のヴィデオでは目に見えるかたちでのボタリは登場しないのだが,立ちつくし,自ら「針」となった彼女によって人々の心が織られ,歴史が織られ,そこに見えないが大きな「ボタリ」――それは,インスタレーションを見る観客も参加して完成される――が生み出されるのではないだろうか.

今回,これらの《針の女》と《洗う女》とを一部屋に展示するという試みは,ICC側からの提案によるものであり,作家にとってもはじめての経験であった.単一の画像を見るのとは異なって,一部屋の四方の壁に六つの映像が同時に投影されているため,どこを向いてもよく,どの順序で見てもよいという自由が観者に与えられ,そのおかげで,作品の意味は重層化した.作家とキュレイターとの見事なコラボレーションの成果だとも言えよう.


かすや・あきこ――1963年生まれ.国立国際美術館学芸員.現代美術,美学.主な企画展覧会=「芸術と環境――エコロジーの視点から」(国立国際美術館,1998年
誌面掲載時1988年を修正[2021.3]


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