デジタル・フロンティア
多文化主義のなかの日本

デジタル・コンテンツの著作権問題

月尾──わたしはじつはデジタル技術との接点は非常に古くて,いまから35年前にコンピュータを一般の人が使える状態になったときに,それを使ってアニメーションをつくっていました.世界的にも一番か二番の早い時期でしたが,日本では最初に,コンピュータでアニメーションをつくりました.それ以来,コンピュータを使って都市計画全体を自動的に行ない,最後に図面まで描くというようなプログラムをつくったりしていました.その頃,わたしたちの仲間では,自分がつくったプログラム――当時はカードで保管していたわけですが――は,誰にでもむしろ自慢して与えるという社会で,大変いい時代でした.速く計算ができるプログラムができたから使ったらどうかと,そのままカードをコピーしてあげるということをやっていました.ところが70年代の終わり頃になって,パーソナル・コンピュータが出現すると,様子が変わって,プログラムをつくった人たちがそれを売りはじめたのです.当時は,違法なコピーをするということがコンピュータを使っている人たちのあいだで大変熱心に行なわれていて,特にゲームなどでは,フロッピー・ディスクのプロテクトを外してコピーすることが流行しました.

非常に矛盾を感じたのは,しばらく前まで,社会は新しい技術に対してその利用方法を共有するという精神が浸透していたのですが,コンピュータが大衆化し,多くの人が使う状況が訪れたとき,逆の方向に急速に動き出したということです.古くから,共有するという社会になじんでいたわたしなどには違和感がありました.同じことが現在,デジタル・コンテンツと言われるような広い領域に起こりはじめているのではないかと思います.それが一体どうなっていくかというのは非常に大きな問題です.もちろんそのソフトウェアをつくることに膨大な労力がかかっているから,それは確かに違法なコピーをすることは法律的には問題ですが,もう少し遠くからそれを眺めると,そのような行為によって新しい文化が次々とつくられてくる.その一方で,一つのプログラムが膨大な利益を上げる仕組みが,今後の社会全体にとって妥当かどうかも考える必要が出てきたのではないかと感じております.まったく無償でということではないのですが,一つの商品によって膨大なお金を稼ぐということが,人間の社会がいろいろな文化を共有していくということに対して適切かどうかそろそろ考える必要が出てきたのです.その点で,このデジタル・アーカイヴというようなものが今後社会でどのような位置づけになっていくか,興味のあるところです.

ヴェルトマン――デジタル・コンテンツのコピーに関する現在の一つの方向性として,研究目的ならすぐに無料で使うことができるというものがあるでしょう.しかし,ポスターや絵ハガキのコピーをしたいと思うと,ミュージアムでポスターや絵ハガキのコピー代を払っていたのと同じように,デジタルなかたちで支払いをしているのです.つまり物事にヒエラルキーが生じているわけです.このモデルは,両方の世界のいいとこ取りをしているように思えます.低いレヴェルでは普及がなされ,高いレヴェルでは支払いがなされる.それで帳尻が合っているわけです.わたしが思うに最も重要なポイントは,コピーライトが現実のものだということ,そして何かをウェブに載せたら,出版社を通じて本を出すのと同様,それを刊行したことになるのだということです.ですから,きれいな絵ハガキをコレクションするのはよいが,そのコピーライトを所有していないのなら,それらをウェブに載せてはいけません.合衆国の美術館の多くは,所蔵作品のきれいな画像を公開したら,誰かが盗んでマグカップやTシャツに不正にコピーし,金儲けをするのではないかと恐れていました.でもそういうことは起こってはいません.いまや米国有数の美術館が,素晴らしく美しい,非常に解像度の高い作品コピーをウェブサイトに載せていますが「これらの著作権は保護されているので不正使用が発見された際には追っ手が来ますよ」と非常にはっきり書いてあるのです.問題は,マテリアルをみなロックしてしまい,使うたびにお金を払わなければならなくなったとしたら,合衆国の学者や批評家がもっている,「フェア・ユース・ディフェンス」という非常に重要な概念は,どうなってしまうのかということです.このフェア・ユース・ディフェンスというのは,特定の方法で使うのなら,許可を求めることなくマテリアルを使用できるという原則です.マテリアルの使用に許可を求める必要はありません.しかし,もしマテリアルがロックされていたら,たどり着くことさえできない.それでいま政府は,一方で暗号化技術の合法性を認めてもいますが,フェア・ユースの重要性も認めつつあります.だからわれわれはいま,長いことかけて聴聞会を繰り返しています.コピーライトとのバランスが大切であること,それからみんなが少しリラックスして,所有者の権利とユーザーの権利を理解することが大切なのだということをデモンストレートしています.ずいぶん血みどろの戦いになってます.それが最近合衆国で起こっていることです.

柏倉──結局この問題は,コンテンツ・ホールダーをどう納得させるかということだと思います.例えばデジタル・アーカイヴ構想がさまざまな地域あるいは団体でいま進行していますが,そういうデジタル・アーカイヴの内容を豊かにするためにも,コンテンツをもっている人たちに積極的に参加してもらわなければなりません.結局どう説得するかという問題になってくるのだろうと思います.

NHKは,いま所有している膨大な番組やニュースの録画をデジタル化していく構想をもっています.かつてラジオの送信所があった埼玉県川口市に大きなデジタル・アーカイヴをつくり,これまで制作された番組・ニュース等を保存するだけでなく,それを使って新しい研究をやる機関にするという構想です.それと同時に,では一体どうやってNHKが蓄積しているデジタル化された情報を,二次利用できるかという著作権上の問題があります.放送した番組のデジタル化自体に膨大な金がかかるわけですが,ある種の情報やドキュメンタリーは,著作権者の集合体なのです.例えば,最近,劣化が進んでいるフィルムで撮られた番組のうち「新日本紀行」をデジタル化して修正し再放送しようとしているのですが,20年経って放送するとき,その了解を得るために一本の番組につき何と300人の方とコンタクトをし,その了承を得ないと放送できないといいます.そういう人たちの了解を得るための費用は膨大です.そのため,なかなか放送以外の二次利用を無償にすることは難しいのです.

しかし考えてみますと,やはりそれだけの膨大な,言ってみれば戦後の歴史が記録されているものにわれわれがアクセスできないというのは望ましくない状況だと思います.そうなってくると,いかにしてアクセスの仕方を簡単にするのか.研究用とそれを使って利益を上げるものとを区別してコピーライトを決める,ということも一つの方法でしょう.そういうことがこれからもっと緻密に考えられていかなければならない.さきほどお話が出ておりました,コピーライトを有料にするということと,有料にした場合にそれが盗用されないように暗号技術を付加する,という問題以前に,誰がその貴重な資産を保存し,それを活用できるようにするのか,そしてその費用は誰が負担するのか,ということを考えなければならないのだと思います.

月尾──当然ですが,コンテンツをつくる人は膨大な努力をして,そのために金銭も使うし時間も使う.そのことに対して報いる方法を考えることは当然です.コンテンツがもっている問題も社会的には考えるべきだと思いますが,多くの人がより多く利益を上げられるものへ,より多くの精力を注ぐのは当然です.しかし,それはコンテンツの均一化をもたらします.例えばハリウッドの映画は巨額の資金をかけてつくりますから,世界中の人が見たいと思うような映画にしなければならないという大きな制約条件があり,似たような映画が次々にできてしまうということになるわけです.その結果,フランスやドイツや日本では映画をつくる力がなくなっていってしまった.それは,世界中を相手にするような能力がコピーライトを背景に社会的に大きな力をもつことによって,一方ではなくなっていくものがあるという問題をわたしたちはどう解決するのかという基本的な課題です.

したがって,現在のコピーライトの方式と別なかたちで経済的な補償ができる仕組みを考えるということも出てくると思います.二つほど最近の有名な例がありますが,一つはLinuxというオペレーティング・システムです.従来マイクロソフトのWINDOWSという,世界で90パーセント以上を占める,コピーライトで守られた独占力をもつものに対して,まったく違うかたちで新しいものをつくりだすことが行なわれてきている.その新しいやり方とは,多数の人々が,多様性のために自分の努力は無償で提供するというかたちです.例えばマイクロソフトが1万人,2万人を投入するという努力と比較して,何百万人という人がわずかな時間や能力を出すことによって,新しいものをつくるという仕組みをつくった例です.また最近は,非常に長い時間の蓄積をもった膨大なデータベースを無償で提供する代わりに,広告というかたちでその補償を得る方法も新たに出てきたわけです.どちらもインターネットをはじめとするデジタル・メディアが存在することによって可能になった方法であって,従来のメディアの状況のなかでは出てこなかった新しい解決法だと思います.

数億人という規模で広がったインターネットが,さらに倍増し,数十億という人々が一つのメディアでコミュニケーションできるような社会になったとき,努力に対して報いる別の方法が出てくるのだと思います.わたしは,そういうものを探す一方,世界中が了解している著作権法があり,それを無視する必要はないけれども,何億という人が同時にコミュニケーションできる技術が社会に出てきたことによって,違う解決方法というものを考え,新しいコンテンツをつくる努力を積極的に推し進めることを考えていく必要があると思います.

武邑──いまコピーライトをめぐる問題というのは,一つは商業的観点から,もう一つは文化的観点からと大きく二つに分かれると思います.さらにユーザーという観点からすると,わたしたちは,地球規模で速やかにしかもコストレスに分配される,新しいソフトウェアや,新しいブラウザや,新しいフリーウェアのコンテントを手に入れ,その利便性を確認し,日常的にそれらを使うという情報環境のなかで生きていて,しかしどこかでそれらの利益が,その生産者に対して還元される仕組みが成立していたりするわけです.フリーウェアというのは,別な補助的なストリームで経済を成立させている.ただこれも月尾先生がおっしゃったようなもっと新しい仕組みへ向かっていかないと,いろいろなフリクションが起こる可能性があるのではないでしょうか.

グリーン――ビル・ゲイツの私有企業コービス社が,多くのミュージアムに,ある脅迫観念を植えつけようとしているのは面白いことです.コービス社がやった最悪のことは,自分たちが金の卵を産んでいると,この莫大な商業的可能性がエネルギーになりうると,ミュージアムに思わせたことです.実際はほとんどの合衆国のミュージアムは,商業的な画像をごく少数しか所有していないのであって,ほとんどのミュージアムのほとんどの画像は,商業的可能性をもってはいないのです.合衆国で最も興味深いプロジェクトの一つは,AMICO(Art Museum Image Consortium=美術館イメージ協会)のものです.デジタル・ライブラリーをつくるプロジェクトなのですが,現在のところこれは5,6万の画像から成っていて,30のミュージアムがこのデジタル・ライブラリーをともにつくっています.ここに実際に商業的価値があると主張することを,彼らはすっかりあきらめています.ミュージアムはただデジタル化しているだけです.金銭的には赤字です.しかしやるのです.これが教育的使命だからです.

月尾──2001年にアメリカの輸出のトップが長年1位であった農業を抜き,自動車を抜き,ソフトウェアになるという予測が発表されています.産業構造全体でみても,アメリカは既に70パーセント以上の人が第三次産業と呼ばれる分野で働いている.日本でも65パーセントを超えることになる.それらの人々は,何らかのかたちで情報を扱い,何らかのかたちで文化というものをつくることに関係していると考えると,それが貿易産品になることは避けがたいことだと思います.農産物だけの貿易ですむ時代ではないということになる.ただそれがどのような貿易の仕組みによって行なわれるかということによって,良い面も悪い面もあるのだと思います.一種の独占的な力が働くとか,一つのものだけが強く普及していくという貿易になれば,おそらく人間の最も根元的なもの,広く生物世界にとって根元的なものである,多様性が失われていく.それが一体何をもたらすのかを考えるべきです.

武邑──いま,世界最大のデジタル・アーカイヴは何かと考えると,多分人間のゲノム解読がもたらす生体情報の次世紀転換であろうと思います.記憶の外部化を劇的に促す文化という遺伝子も,わたしたち自身の内部的景観を圧倒的に変化させていくのだろうと思います.どうもありがとうございました

翻訳:篠儀直子

[1999年12月21日,京都みやこめっせでのシンポジウム(モデレーター:武邑光裕)の発言に加筆・再構成]

協力:デジタルフロンティア京都実行委員会
株式会社情報工房


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