デジタル・フロンティア 多文化主義のなかの日本 |
言語が文化に及ぼす影響 柏倉──わたしはNHK在職時代に7年間フランスに滞在いたしました.そしてそのために子供はフランスで教育をうけ,いまフランス人になった孫──つまり娘がフランス人と結婚したものですから──がいるわけですが,それぞれが一体何語で考えているのか,という問題があります.当然わたしは大部分の時間,日本語で考えておりますし,夢もほとんど日本語で見るわけですが,ときどきフランス語で夢を見ることもあります.しかし娘に何語で夢を見るかと聞くと「日本に帰ってきてしばらくすると日本語で夢を見るし,フランスにいるときはフランス語で夢を見る」と言っています. 幼かった娘に「友だちが迎えに来たよ」と言うと「いま来ます」と言っていました.これは日本語としてはおかしな表現ですね.つまり「いま行きます」と言わなければいけないわけですが,彼女の頭のなかでは,これはまちがいなくフランス語の“J'arrive”が翻訳されて日本語になっていたということだと思います. また,はたしてわれわれは漢字でものを考えているかどうかという問題があります.わたしは,パソコンで文章を書くときに,ローマ字で入力しています.すると,例えば「馬」とか「牛」という象形文字をまず思い描いて打ち込んでいるわけではなくて,間違いなく「uma」と,カナを使ってわたしは文章を書いているのではないかという気がします.そういうふうに,新しいテクノロジーがどんどん,わたしたちの感性やものの考え方を変えていっている.それは決して悪いことではありませんが,変えていっている現実があると思います. ヴェルトマン――それは確かに心構えの問題です.合衆国に行って一世代たつとすっかりアメリカ人になってしまい,もとの言語を話さなくなるという集団もあります.すると皮肉屋たちは,彼らは自分たちの夢も失ってしまったと言ったものです.わたしは5か国語で夢を見る,わたしは5か国語で講義をする,ほかにもまだ5か国語できるし,読むだけならまだほかにも5か国語が読める.世界には6500の言語があります.ヨーロッパでわたしが知っている最も面白い人たちは,子供たちを3,4か国語で育てています.わたしのスイス人の友人には,5か国語を完璧に流暢に話す子供たちがいます.どうしてそんな教育ができるのか? ルールは一つだけでした.子供たちが混乱しないよう,家に着いたら一つの言語だけで話すこと.ですからわたしたちが行きますと,「では今晩はフランス語で話しましょう」とフランス語で言って,そうなる.それはドイツ語でもいいし,何でもいいわけです. 月尾──文化をつくるという側面を考えると,人間の脳でかなりの部分をつくるということだと思います.もちろん「彫刻をつくる」というように手先の問題はありますが,それは脳が手をコントロールしていると考えれば脳の問題です. 最近,急速に大脳生理学が発達して,脳の構造や発展過程がわかりはじめました.例えばわたしが習った脳の知識は,人間には500億くらいの脳細胞があって,その数パーセントを使って生涯思考するというものですが,新しくわかってきた知識によれば,脳は500億個まで細胞分裂して止まるのではなく,兆という単位までいったん細胞分裂して,そのあと,0歳から20歳くらいのあいだに,いろいろな物事に応じて,必要な部分を残して不必要なものを消し去っていく,というかたちで最終的に脳が形成されるということです. 例えば,日本人は“r”と“l”の発音を聴き取るのが下手だとか,発音できないと言われているわけですが,このような音を聴き分ける能力というのは非常に早い時期に決まるそうです.小さなときに“r”と“l”という二種類の音が入ってこない環境で生活した人は,どのように努力しても原則的には聴き取ることはできないということです.ですから,中学校になってから英語の発音やヒアリングの勉強をしてもそれは効果がないのです(笑).それではわれわれはどのようにして聴き分けているかというと,いろいろな知識を総動員して,こういう単語のときは“l”だとか,“r”だということを補って,かろうじて聴き分けているわけです.さきほど柏倉先生のお嬢さんのお話がありましたが,例えばフランス語で「わたしは来る」という表現は,もう少し高い年齢のときに覚えるものなので,小学校くらいの時期に習うと,それがそのまま考え方のなかに残ってしまう.だからお子さんをもたれるような年齢になっても日本語のなかにそういう表現が出てくるということです.対象によっては20歳くらいまで脳細胞に機能が保存されていて,その時期に使うか使わないかによって消し去るか残すか決定される,という部分があることがわかってきた. もしそういうことが本当だとすれば,何が大事かというと,いろいろな年代に応じて,脳の能力を発揮させるための環境が世のなかに存在しているということです.つまり,“r”と“l”の発音を使う環境が,ある民族や地域にはある一方,それを使わない環境もある.しかし代わりに別の音声を使う環境がある.そういうなかでいろいろな人間が育っていくということが,結局多様性を残すということになります. 伝統的な歌舞伎は明治の初期に絶滅したと言う人がいます.それはなぜかというと,日本人は長年,五音音階で音楽を聴き,感情を表現してきました.ところが,明治になって十二音音階という西洋の音楽を小学校から教えるという教育に変わったために,五音音階で聴いたり発音する能力をほとんどの子供が小学校の段階でなくしてしまい,十二音音階で発声し,聴く能力を得ることになった.そうなると,五音音階に基づく歌舞伎本来の抑揚や表現法は消滅するということです. そういうことを考えると,文化をつくりだす基礎的な要件は,多様な環境を維持することだと考えなければならない.つまり子供のときからの生活環境が,すべて英語になってしまうということは大変大きな問題を起こすことになると思います.そして,さらに高次の能力,例えば筋書きにそって物語をつくりだすとか,感情を表現するために音楽をつくりだすという能力は,もっと後に脳に固定していくので,そのときに,いろいろな刺激をさらに受けるということがより重要になるわけです.つまり,日本の音楽だけをずっと聴いていると,確かに伝統的な音楽はできるけれど,そこからさらに新しい音楽をつくりだす能力はない,ということになる.そうなると,ある時期からはいろいろな文化の刺激を受けるということがより重要になると思います.わたしたちがやるべきことは,脳の基礎的な部分が固まっていく段階では,なるべく世界のなかに伝統的な環境を保持するために努力する一方,文化をつくりだすような年齢になったら,今度はいかに多くの異なる文化の刺激を受けるかということを考えることが重要になってくる.そういうことで,「つくる」ことと「伝える」ことの役割をもう一度明確に考えて,そのためのさまざまな環境を用意していくことが大事だと思います. |
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