ジョージ・ソロス / 投資と慈善が世界を開く

04-b.批判的人間

 では,「開かれた社会」とは,どのような道徳を要求する社会なのだろうか.ソロスはポパーを継承しつつ,「開かれた社会」の思想的基礎を「批判的合理主義」[★24]においている.「われわれは,誤っているかもしれないし,正しいかもしれない.そしてお互いに努力すれば,よりよい真理に到達できるだろう」.批判的合理主義はこのように,自らの理性の「可謬性」[★25]を承認し,批判的理性の共同行使によって,よりよい社会を模索するという道徳を要求している.ソロスによれば,投資家としての自己と,「開かれた社会」の啓蒙家としての自己を首尾一貫したものにする観点は,こうした「理性の可謬性」に対する信仰にある.「自分が常に間違っているのではないかと考えるんだ.そうすると『不安』になる.不安感があるから,いつも状況に敏感でいられるし,自分の間違いをすぐに正せる.これには二つのレベルがある.抽象的には,自らの誤謬可能性を基礎にして,綿密な哲学を築く.もっと個人的なレベルでは,私は,自分自身についても他人についても欠陥を探し回る,非常に批判的な人間だ」.

 例えばソロスは,1983年からファンド・マネージャーとして雇ったジム・マルケス(当時33歳)に対して,一日の取引が終わると厳しい反省会を行なっている.ソロスはマルケスを質問攻めにして,予測の仮説を批判的に検証した.反省会はしばしば深夜にまでおよび,ソロスの批判は,マルケスの行動の自尊心を傷つけるほど厳しく続けられたのであった.このように,ソロスの「可謬性」に対する信仰は,批判的理性を行使するパートナーにもきびしく要求するものであり,ある種の知的格闘技でさえある.「何しろ私は非常に抽象的な人間だし,自分自身について考える場合も含めて,ものごとを外部から眺めるのが本当に楽しいと思っている」.

 ソロスの批判的理性は,しかし単なる知識人タイプのそれではなく,市場社会を生きるための「野性」的な能力でもある.「私は,市場での出来事に対し,ジャングルに生きる動物のように反応する」「精神を集中させるためには,危険を冒すのが最も有効だ.物事をはっきり考えるために,リスク絡みの興奮が私には必要なんだ.私の思考能力にとって不可欠な部分だね.リスクを冒すことは,私が明瞭に物事を考える上で必須の要素なんだ」.

 こうした可謬性に基づく批判的理性は,しかしともすれば過剰になるだろう.ソロスは「可謬性」の概念を,次の二つに分類している.一つは,「開かれた社会」を正当化するために必要なもので,批判的検討によって社会をよりよくしていこうとする穏当な要求である.もう一つは,いかなる精神や制度にも必ず欠陥があるという悲観的な信念であり,社会を不安定化させるような,過剰な要求である.ソロスの再帰性理論は,この後者のような特徴をもつ点で,批判を免れない.というのも再帰性理論は,それ自体が再帰的に作用するという自己破壊的メカニズムをもっているので,本質的な価値への信念をぐらつかせてしまうからである.人々がみなソロスのように行動すれば,市場経済は不安定なものになるだろう.

 「開かれた社会」においては,各人は批判的に認識することを課されているものの,批判の過剰に陥ってはならない.近代社会は,伝統社会を脱却するために,主体の自律的反省を促してきたが,しかしそうした反省が増大するならば,そこに再帰的メカニズムが働いて,社会はかえって不安定化してしまう.伝統社会や閉じた共産社会に対して批判的思考の重要性を掲げたのが「第一近代」のフェーズであるとすれば,増大するリスク(不安定性)に対して主体的・社会的に対処していこうとするのが「第二近代」のフェーズである.第二近代は,自律的反省意識の行為化が孕むリスクの問題を中心としている.その問題圏においては,ますます不安定化するグローバル資本主義に対応して,政治的・道徳的な対処法が求められている.「開かれた社会」とは,まさにこの課題に取り組むための理念である.

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