ジョージ・ソロス / 投資と慈善が世界を開く

01.ソロス,その人生

 1930年,ハンガリーの首都ブダペストに生まれたソロスは,幼少の頃からかなり強い「救世主的夢想」に取りつかれていた.「自分を森羅万象の創造主,つまり神だと考えることは,一種の病気だと言える.でも私は,もうそのことに不安は覚えない.私は,そのように生き始めたのだから」.

 驚くべきことだ.ソロスは「神」のように生きている.このように述べることのできる人間は,そう多くはいないだろう.まず最初に,ソロスのこれまでの人生を振り返ってみたい.  ソロスの父ティヴォドアは,第一次世界大戦中に志願兵となり,中尉にまで昇進したが,ロシア戦線で捕虜になり,シベリアの収容所に送られた.しかしその死地を脱出し,苛酷な逃避行の末,ある町にかろうじてたどり着いた.ところが今度は,革命の混乱に巻き込まれてしまい,ハンガリーに戻ってきたときにはすでに野心を失い,楽隠居生活を望むようになっていた.父の職業は弁護士であったが,本当に必要なときにしか働かず,顧客から借金して,週末にスキーにでかけたりもした.1939年に第二次世界大戦がはじまると,危険を察知した父は,自分の財産を処分しはじめ,ドイツがハンガリーに侵攻する頃には,すでにそのほとんどを売り払っていた.

 1944年3月,ドイツがハンガリーを占領したのは,ソロス14歳のときであった.その侵攻は銃声のしない平和なやり方であったが,ソロスの父にとって,いよいよ本領発揮のときであった.ナチスの侵攻という危機的な状況においては,通常のルールは適用されない.法律に従う習慣は,かえって危険であり,法律を無視することこそ生き残る道であった.父は家族のために偽造の身分証明書を手配し,生活のための隠れ家を全部で11部屋も見つけ,家族だけでなく周囲の多くの人々を助けた.さらに父は,ハンガリー政府の役人を買収して,ソロスをその息子に仕立てあげた.役人の仕事とは,アウシュヴィッツに連行されたユダヤ系の不動産所有者の財産を没収することであり,ソロスはその役人とともに国内を回った.もし正体がばれていたら,ソロスは生き延びられなかったにちがいない.

 ソロスは後に,この危険な1944年こそ,自分の人生のなかで一番幸せな時期であったと述懐している.生活はエキサイティングで冒険的であり,尊敬する父がいて,人々の命を救っていたのだから.しかし史実によると,1944年から45年にかけてハンガリーでは,6万人のユダヤ人が虐殺されている.欧州全体では40万人の大虐殺であった.しかもナチス当局は,強制連行の命令書を配布する仕事をブダペストのユダヤ人協会に命じており,その任務は幼いユダヤの子供たちが担っていた.ソロスもその一人であり,ユダヤ人大虐殺に手を貸したという重い経験をもっている.戦争が終わると,ハンガリーはソ連の衛星国となった.そこでソロス家は,再び祖国の将来を悲観する.1947年,ソロスは父から出国の資金を得て一人イギリスに渡り,1956年には両親もアメリカに移住することになった.もっともイギリスには頼るべき友人もなく,お金も底をついたので,ソロスはアルバイトを次々とこなさなければならなかった.

 1949年,ソロスはロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に入学する.苦学生であったが,同時に哲学に対して強い関心を示す学生でもあった.大学時代のある夏休み,ソロスは屋内プールの作業員の仕事を見つけた.ところがプールはガラガラだったので,彼は隣にある大きな公立図書館に行き,好きな哲学書に没頭することができた.後に彼は,当時を「人生で最も素晴らしい夏」だったと振り返っている.LSEでは,とりわけカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』[★4]を読んで深く感銘を受けたようである.実際の指導教官ではなかったものの,ソロスはポパーを師として崇めた.ソロスは将来,カール・R・ポパーのような哲学者か,ジョン・M・ケインズ[★5]のような経済学者になることを夢見ていた.しかし彼の成績では,それは難しかった.

 大学を卒業したソロスは,外国人というハンディのために最初は望んだ職を得ることができず,イングランド北部のリゾート地ブラックプールで記念品や土産物や宝飾品などを販売するセールスマンをしていた.彼の経歴のなかでも最低の時期である.ソロスはこのとき,ロンドンのシティにある金融各社に手紙を書き,入社を切望したが,シティは閉鎖的な「血縁主義」で固められていた.ようやくソロスは,1953年にシンガー&フリードランダー社に採用されたが,それはそこのマネージング・ディレクターがハンガリー人だったからである.ところがソロスの命じられた最初の仕事は,複式簿記式のボードに手書きで数字を転記するという退屈な作業であり,給料も以前よりやや少なかった.結局ソロスはこの会社ではあまりよい業績を出せず,同僚の見習社員のつてを頼って,1956年9月,ニューヨークのウォール街に赴くことになる.

 ニューヨークでは最初,国際裁定取引の業務に就いた.ある国で証券を買い,それを別の国で売るという仕事である.1952年に結成されたECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)を母体に,1958年EEC(欧州経済共同体)が発足し,アメリカでは欧州株がブームとなった.当時アメリカでは,対欧州投資に関する情報がまだ少なく,どの投資会社も横並びであったから,ソロスは欧州投資ブームの先駆者の一人になることができた.ドレフュス・ファンドやJ・P・モルガンのような金融機関も,ソロスの分析レポートに基づいて投資の判断を下した.外国証券アナリストとしてのソロスの経歴は,ここに絶頂期を迎えることになる.

 しかし1961年になると,社会情勢は大きく変化する.ケネディ大統領は,アメリカの経常収支を維持するために,対外投資に対して15%の課税を導入したのである.その結果,ソロスのビジネスは引き合わなくなってしまい,ワーサム証券を辞めてアーノルド・S・ブレイシュローダー証券に転職した.すでに欧州の証券ビジネスはすっかり衰退してしまっていた.やるべき仕事があまりなかったので,ソロスは1961年から66年にかけて,自分の学位論文「認識の重荷」[★6]を完成させることに集中する.ところが彼はその内容に満足できず,結局途中であきらめて再びビジネスの世界に戻ることを決心した.

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