Special Article

Opera LIFE

20世紀末のオペラと孤独
坂本龍一・オペラ《LIFE》

椹木野衣
SAWARAGI Noi



 最初に言っておいたほうがよいと思うのだが,坂本龍一がこの世紀の変わり目――それも千年末――に「オペラ」をやるらしい,と聞いたときには,少なからぬ違和感があった.というのも,わたしたちが生きてきた時代にリアルタイムで刺激を受けた現代音楽の唯一の動向であるミニマル・ミュージックの主導者たちが,70年代までのきわめて分析的なアプローチをかなぐり捨ててオペラに手を出してから,ことごとく退屈になっていった(言うまでもなくそのなかでも特にひどいのはフィリップ・グラスである)経緯を知っているからなのだが,よりによってそれが「救済」にかかわるらしい,ということになれば,抵抗感はなおさらのことである.そもそも,「オペラ」といい「救済」といい,即座にワーグナーの《パルジファル》を想起せざるをえないほど,それは20世紀というよりも19世紀的なるものの「終わり」に結びついていたのではなかったか.

それが,鈍重なオペラ的総合の解体を,20世紀におけるテクノロジーの加速感を誰よりも敏感に肌に受けながら推し進めてきたはずの坂本龍一によって標榜されるというのは,いったいどういうことなのだろう,と. 確かに,少し前からローリー・アンダーソンのような存在が,テクノロジーとメディアを駆使しながら繰り広げた「パフォーマンス」のたぐいも,19世紀的なオペラが終焉したことを前提に構成された,今世紀の「マルチメディア・オペラ」なのだと言われれば,それはそれで説得力がないわけではない.またかつて,坂本が今回同様,浅田彰や原田大三郎(当時はラディカルTV)らと組んだ「つくば博」での《TV WAR》や,YMOの散開コンサートでの「ファシズム」を引用したスペクタクルなどを想起すれば,《LIFE》が,これらと同じ系列上に展開され,それらを「総合」するものであろうことはある程度まで予想できた.しかし,それはあくまで「オペラ」と自称しないことにおいて,ある一定の強度をもちえたのではなかったか? いまだ名付けることのできない,雑多で複数的な20世紀メディアの揺らぎとしてこそ,これらはあれほどまでに魅力的だったのではなかったか? かわってそれを,あえて大上段から「オペラ」と呼ばねばならない理由は何か.

そしてそのとき失われるものはなんなのか.だが,公演を目の当たりにしたいまとなっては,こう問い直さなければならないだろう.そもそも《LIFE》は「オペラ」なのか,と.そこには,仰々しい「歌手」もいなければ大げさな「演技」もない.華々しい「舞台」もなければ,感動的な「物語」もない.あるのは,電子メディアで構成された巨大なスクリーンであり,インターネットによって外部の時間と空間に接続されたネットワークであり,その表面を明滅するコンピュータ・グラフィックスでしかない.さらに《LIFE》は,その場で一度かぎり共有される古典的な「オペラ」の時空のほかにも,『SAMPLED LIFE』と題された,空里香/後藤繁雄/中島英樹によるおそるべきヴィジュアル・ブックや,『LIFE IN PROGRESS』と題された,作品の骨組みをシンセサイザー主体で録音したCDなどと「共生」することによって,あえて言えばメディアのオペラのような状況をも呈している.しいて言えば山本耀司による「華麗」な衣装仕立てがオペラ的であると言えないこともないが,その全貌は後に雑誌に紹介されて初めて「見えた」ような状態で,公演ではほとんど目に入ってこない.そればかりか,多くの観衆が期待していたであろう坂本龍一の「出で立ち」すら,一度としてフィーチャーされないまま,実際の《LIFE》はただただ淡々と進行していった.そこでは,武道館,坂本龍一,オペラ,という道具仕立てから連想されるいっさいの「オペラ的なるもの」は,姿を消していた.その徹底して形式主義的な進行は,「世界のサカモト」の「世紀末のオペラ」に酔いしれにきた満場の「大衆」に対する一切の配慮を欠くかのようにすら感じられるものであり,その「裏切り」の放つ緊張感は,公演がはじまってすぐ,静粛というよりは,あっけにとられて声も出ないかのような,場内の張り詰めた感じと相まって,一種異様な雰囲気を放ちはじめていた.

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