インタラクションとの再会 |
全体を通じて言えることは,20世紀を代表する人物による歴史的肉声や映像,レクチャー,詩の朗読,そして映画からの台詞のサンプリングといったものが,旧来の「オペラ」における「歌」や「演技」にかわって全編に組み込まれ,20世紀という百年の「物語(ヒストリー)」ならぬ,一種の「写像(モデル)」をかたちづくっているということである. 例えば第一部.チャーチルやオッペンハイマーらによる歴史的な演説の映像や音声が,はたまた「いまこそ来たれ,火よ」というヘルダーリンの詩の一節を読むハイデガーの声が,そして「そこに灰がある」という「ホロコースト以後」のデリダの声が挿入される. こうして書いてきて,最大の見せ場と言えるのは,やはり,第一部であるように思われる.そこには,19世紀末から始まり第二次世界大戦を経て,「音楽史」が一定の役割を終える60年代後半に至る20世紀音楽史の圧縮版が,一種の持続的サウンドトラックとして用意されている.それは,公演直前まで流されていたサティからすでに始まっており,それを受けるかたちでルッソロ,ドビュッシー,ストラヴィンスキー,ヴァレーズ,バルトーク,シェーンベルク,メシアン,ケージ,ヴェーベルン,リゲティ,ペンデレツキ,武満,ブーレーズ,シュトックハウゼン,クセナキス,ライリーに至る,いわば,20世紀音楽史によって語られる20世紀の歴史なのである.例えばバルトークに乗せてチャーチル,ハイデガーに続いてシェーンベルク,最初の原爆実験を回顧するオッペンハイマーの演説のあとには核以後の時代の音楽であるセリエリスムというふうに,ここで使用されている歴史的なサンプリング映像や音声は,20世紀音楽の「余白」に組み込まれるかたちで再構成され,「音楽史」は文字通りの意味で「音楽=歴史」に再構成されている.さらに驚かされるのは,いま触れてきたような作曲家たちの「作品」は,電子的にサンプリングされたものではなく,それらの作曲家たちの「個性」を生み出す楽曲の潜在的な構造を「計算」したうえで,坂本龍一によって新たに再構成されたシミュラクル群だということである. 以上のように,《LIFE》は,外見上の形式主義的展開と,他方での情報過多にもかかわらず,全体としてはかなり骨太な構想と構造をもった,ある意味ではきわめて正統的な作品である.にもかかわらず,見終わったあとに何か不満が残るとしたら,それは,本作が20世紀末になしうる音楽的総合のかたちをあまりに「正しく」トレースした結果あえて言えば21世紀を切り拓くに足るだけの「野蛮」さをもちえていない,ということにあるように思われる.《LIFE》は,わたしたちがいま,21世紀にもなお有効なコマとして何をもっているかを,これ以上ないほどシャープに示すことに成功した.が,同時にその「理論的正しさ」と,自身に対する外部性の欠如において,「ここ」から先に進むことを禁じられ,奇妙なかたちで「20世紀末」に閉じ込められている.その種の閉塞感には,それがどんなに力技であっても,どこか耐えがたいものを感じることも,率直に表明しておきたいと思う.
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