インタラクションとの再会


 全体を通じて言えることは,20世紀を代表する人物による歴史的肉声や映像,レクチャー,詩の朗読,そして映画からの台詞のサンプリングといったものが,旧来の「オペラ」における「歌」や「演技」にかわって全編に組み込まれ,20世紀という百年の「物語(ヒストリー)」ならぬ,一種の「写像(モデル)」をかたちづくっているということである.

例えば第一部.チャーチルやオッペンハイマーらによる歴史的な演説の映像や音声が,はたまた「いまこそ来たれ,火よ」というヘルダーリンの詩の一節を読むハイデガーの声が,そして「そこに灰がある」という「ホロコースト以後」のデリダの声が挿入される.
第二部では,共生進化について語るリン・マーギュリスや,ガイア思想についてレクチャーするジェイムズ・ラヴロックが自説を語り,
そして第三部では,埴谷雄高が,ローリー・アンダーソンが,ピナ・バウシュが,ダライ・ラマが,その姿とともに,20世紀をかたちづくった「複製メディア」に乗って,続々と「登場」してくるのである(当初の案では,ここにサルマン・ラシュディによる自作の朗読が加えられるはずだったらしいのだが,主催者である朝日新聞社・テレビ朝日側からの「公演の安全」に対する「配慮」によって,坂本の激怒にもかかわらず最終的にこの部分はカットされてしまったと聞く.かわって,「共生」というテーマと矛盾するかのような主催者の「配慮」への「抵抗」でもあるかのように,その部分だけしばらく狂ったように文字が表示され,語りのランダム・サンプルが流れるシークエンスが挿入されているのだが,それがじつはラシュディの掌篇によるものらしい.「朝日」のジャーナリズムとしての姿勢にかかわる問題や,坂本が「検閲に譲歩した」のか否かについては別に考えなければならないだろうが,その表現の効果と相まって,こうした「現実」との格闘は,結果的に《LIFE》の掲げる「共生」を,より「リアル」なものとしているように思われる).

こうして書いてきて,最大の見せ場と言えるのは,やはり,第一部であるように思われる.そこには,19世紀末から始まり第二次世界大戦を経て,「音楽史」が一定の役割を終える60年代後半に至る20世紀音楽史の圧縮版が,一種の持続的サウンドトラックとして用意されている.それは,公演直前まで流されていたサティからすでに始まっており,それを受けるかたちでルッソロ,ドビュッシー,ストラヴィンスキー,ヴァレーズ,バルトーク,シェーンベルク,メシアン,ケージ,ヴェーベルン,リゲティ,ペンデレツキ,武満,ブーレーズ,シュトックハウゼン,クセナキス,ライリーに至る,いわば,20世紀音楽史によって語られる20世紀の歴史なのである.例えばバルトークに乗せてチャーチル,ハイデガーに続いてシェーンベルク,最初の原爆実験を回顧するオッペンハイマーの演説のあとには核以後の時代の音楽であるセリエリスムというふうに,ここで使用されている歴史的なサンプリング映像や音声は,20世紀音楽の「余白」に組み込まれるかたちで再構成され,「音楽史」は文字通りの意味で「音楽=歴史」に再構成されている.さらに驚かされるのは,いま触れてきたような作曲家たちの「作品」は,電子的にサンプリングされたものではなく,それらの作曲家たちの「個性」を生み出す楽曲の潜在的な構造を「計算」したうえで,坂本龍一によって新たに再構成されたシミュラクル群だということである.

以上のように,《LIFE》は,外見上の形式主義的展開と,他方での情報過多にもかかわらず,全体としてはかなり骨太な構想と構造をもった,ある意味ではきわめて正統的な作品である.にもかかわらず,見終わったあとに何か不満が残るとしたら,それは,本作が20世紀末になしうる音楽的総合のかたちをあまりに「正しく」トレースした結果あえて言えば21世紀を切り拓くに足るだけの「野蛮」さをもちえていない,ということにあるように思われる.《LIFE》は,わたしたちがいま,21世紀にもなお有効なコマとして何をもっているかを,これ以上ないほどシャープに示すことに成功した.が,同時にその「理論的正しさ」と,自身に対する外部性の欠如において,「ここ」から先に進むことを禁じられ,奇妙なかたちで「20世紀末」に閉じ込められている.その種の閉塞感には,それがどんなに力技であっても,どこか耐えがたいものを感じることも,率直に表明しておきたいと思う.


[《LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999》(構想・作曲・指揮=坂本龍一)公演は1999年9月4日−5日,大阪城ホールで,1999年9月9日−12日,日本武道館で行なわれた]

さわらぎ・のい
1962年生まれ.美術評論家.
多摩美術大学専任講師.
水戸芸術館現代美術センター企画運営委員.
著書=『シミュレーショニズム――ハウス・ミュージックと盗用芸術』(河出文庫),『ヘルタースケルター――ヘヴィメタルと世紀末のアメリカ』(トレヴィル),『資本主義の滝壷』(太田出版),『日本・現代・美術』(新潮社)など.
1999年11月20日−2000年1月23日にわたって水戸芸術館で開催される「日本ゼロ年」展ではゲスト・キュレーターを務める.

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