ダンス・フロンティア――身体のテクノロジー/フィリップ・ドゥクフレ |
身体・ダンス 確かに僕自身の興味は,最近は映画とか映像のほうへより傾いてきているかもしれません.肉体に興味がないわけではないのですが,それはさまざまな違い,個性をもっている点においてです.僕の大好きなトッド・ブラウニングの映画《フリークス/神の子ら(怪物団)》,あれを見ていて思うのは,いわゆるノーマルな身体よりも,むしろアブノーマルであったり人と違った身体のほうに意味があるのではないかということです.以前,モーリス・ベジャールのところでどうしても踊りたいという女性のダンサーが,オーディションで胸が大きすぎると言われて手術で胸を切ってしまったという話を聞いて,ひどい話だなと思いました. クラシック・ダンスとの比較で言えば,どれだけ速く回転するかとか,どれだけ高く飛ぶかということとは反対のことを僕はやろうとしているし,社会の問題だとか男女の問題を表現しようというのが前の世代のコンテンポラリー・ダンスだとするなら,僕はそういうことには興味がありません.僕自身のかなり曖昧でいい加減な定義によると,「ダンス」とはありとあらゆる「実用的でない動き」のことではないでしょうか.例えばコーヒー・カップを渡すときに,普通に渡せば「実用的な動き」ですが,こんなふうにしたら[直線コースを取らずにくねらせる],その場でダンスができてしまった,というのが僕の考えです. 映画的記憶 子供の頃はハリウッドのミュージカル映画をしょっちゅう観ていたので,記憶に残っているわけですけれど,アルベールヴィル・オリンピックの仕事をやったときにはバスビー・バークレーを何度も見直しました.彼は集団のコレオグラファーとして最高の人だと思います.実際,500人や1000人の人間を振り付けなければいけないときに,自分の「クラシック」に戻って研究したことはよかったと思う.《プティット・ピエス・モンテ》のインスピレーションの一つは,フレッド・アステアが壁や天井を使って踊るシーンです.それをなんとか舞台で実現できないかと思い,回転するセットをつくってみたり,レールを使って人間を天井からぶら下げるような仕掛けをつくったわけです [★2].今回の舞台でも「鏡のシーン」[★3]はオーソン・ウェルズの《上海から来た女》ですしね. ただ,アメリカ的なエンターテインメントは,「押しつけがましさ」というか,支配的な面が強いのではないでしょうか.僕の場合は「ここで笑え」と意図しているわけではない.しかもこれはエンターテインメントであると同時に芸術的なリサーチでもあるわけです.僕の作品の「諧謔的」なところは多分に「フランス的」だと思います.影響としてはダダとかシュルレアリスムなどの絵画や映像作品ですね.それと,メリエスは大好きです.どちらかというと文字よりも視覚的なものの影響のほうが強いのです.打ち明けてしまうと,本を読むことはあまり好きではないのでね(笑). [1999年3月27日,神奈川県民ホール]
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