その眼が赤を射止めるとき/トリン・T・ミンハ・インタヴュー

 

リピット──あなたの映画を通して見てみると,一本一本が完結しているというより,互いに特徴を分かち合っている,そういう意味での一貫性が窺えます.観念として捉えてみると,全体がはっきりとした形をもっているというか,ある形を成しているように見える一方で,作品を個別に見ているかぎりは,いろいろな意味でまったく違う.
それでも,作品の動機づけとなった欲望というか想いには,共通したものが一貫してあるんですね.例えば,あなたの作品のどれを取ってもはっきりと現われているモチーフに,旅の美学や旅に対する信条というものがある.また,何かと出会うこと,何かをありのまま描くことというモチーフもある.描くといっても,必ずしも人や場所だけでなく,場所との関係を描くこともあるわけで――あたかも観客自身が見つめられているかのように――見ている人に,描かれているのは自分だと思わせることにもなるんです.

焦点も力点もまったく違う完全に別個のプロジェクトなのに,映画のなかで息づいている共同体的な場は一貫しているという,あれもこれもといった感じがおもしろいなと思うんです.あなたを特定のコミュニティに属する一員として位置づけようとするインタヴューをよく目にしますが,それは無理なような気がします.あなたの作品には,場所から場所へと移動する運動量だけでなく,それこそ流れさまよいながら思考し,ものを作っていくパワーにおいても,根っからノマド的なところがあるように思うんですよ.

トリン――私の作品を通して浮かび上がってくるもの,個々の映画において直観でしか表わしえないものというのは,おそらく作品の可能性を押し広げていくなかで,その構造が立ち現われたときにはすべてが無に帰してしまうほどの危うさを肌で感じられるくらい,作品をギリギリまで追いつめてしまうところにあるんだと思います.形を取るものは,どんなものであれ,形式を示すためだけに形を取っているわけではありません.

その意味から言えば,形を取るものなど何もない.映画作りという互いに変容していくプロセスとは,あるものに向かいながら,それを自分にたぐりよせていくことですから,ただ単に「形式を与えている」わけではないのです.形を取ることが到達点ではないし,漠然としたものをはっきりさせることが問題なのでもない.そうではなく,形になるということは,常に形などないという事実を伝えるための手だてなのです.形式とは無形の一例であり,無形とは形式の一例でもあるんですよ.

旅すること,さまようこと,一つの集団にしっくりと収まらないことについてお話になりましたが,これも私の課題というようなものではなく,むしろ自分の生き方とか,生き延びるために身につけざるをえなかった術とか,自分とは何かという感覚にあたる直観的なものなのです.形のないものに形を与えることには,まったく興味がありません.これをめざしているクリエーターの姿をよく目にしますけど,私の場合むしろものを作るプロセスに引き込まれているわけで,この過程を経てたどり着いた形式そのものが,形ある世界のはかなくも限りない現実に――すなわち,生と死という現実に――激しく訴えかけてくるのです.

この限りないという感覚を,映画のなかにいかにして取り込むか.もちろん,私たちには常に始まりと終わりが必要ですし,映画を作るということはまずは流れを止めるというか,形式を示すことであるのは承知していますが,ここがとてもおもしろいところなんです.形式を首尾よく閉じ込めてしまうような完結点をめざすより,微妙に移ろいゆく現実を枠にはめることなどできないんだと言ってしまえば,閉じ込めることが同時に開いていくことにもなりうるんですね.こうしたことが私の映画ではいつも起こっている,と考えることもできるんですよ.

あなたがおっしゃったもう一つの点は,ご指摘いただいてとてもうれしいのですが,私がアフリカで撮った2本の映画はよく似た作品だと思われることが多く,一つの番組のなかで続けて上映が組まれることもままあるんです.でも,これは大変な間違いです.観客の創造力や批判精神に訴えるのなら,《ルアッサンブラージュ》と《Naked Spaces》の2本はできるだけ切り離して見てもらわなければなりません.こういう番組の仕方は映画の受け止め方にとって罪深いものですが,同時に人がいまだ何にも増してテーマという観点から映画を見ていることをよく物語っています.しかし,2本の映画の成り立ちと目にしたものが身体に与える影響とは,まったく別物なんです.前にも言いましたように,出会いというのはいつも,その内実を表わす要素しだいでまったく変わってしまうので,道中の折々に生まれたものや,さまざまな人や状況,土地との交わりから生まれたものと,まったく同じものを作り直すなんてことはできません.出会いの独自性があるからこそ,それぞれの映画は異なった駒のように動いていくのです.言い換えれば,一つ一つの映画には独自の……エネルギーの場があるんですよ.

リピット──生命力があるということですね.それにしても,《ルアッサンブラージュ》と《Naked Spaces》を同じような映画と考えるなんて,ビックリしてしまいますね.ところで,作品のテーマそのものに力があると,ほかの要素が伝わらないというか,影響を被ると感じることはありませんか.あなたの場合,強烈なテーマを選ぶことがよくありますよね.

トリン――そのように言っていただくと,とてもうれしいですね.私の場合,何らかのアイディアを念頭においたり,政治上の課題をあらかじめ定めたうえでプロジェクトに入るわけではないので,内容はさして重要ではないと思われがちなのですが,そんなことはないんですよ.どの作品でも,テーマに関しては心を砕いています――しかし,これもまたあらかじめ用意されたものではなく,映画を作ることとともに生まれてくるものなのです.実際,私の映画が好き勝手な作りをしていることに戸惑って,「こんな映画なら,どこででも作れるじゃないか」という感想を返してくる人がよくいます.でも,それにはやはり「作れませんよ」と答えざるをえない.どのような作品でも,特定の場所や動き,事件や人と結びついているかぎりは,ほかではマネができない独自の姿態を見せることになるのです.

しかし,テーマがドンと前に出てしまうと,構造や形式だけでなく,プロセスと呼んでいるものすら見えにくくなってしまうというのは,確かにおっしゃるとおりです.もちろん,こんなものはどうでもいいということでは決してなく,むしろすべてのものが一緒になって働くのが映画なら,形式と内容を別々の存在として語ることはもはや不可能,ということなのです.

ここから,あなたが先ほど触れたもう一つの点を思い出してみたいのですが,映画を撮る主体とは,常にものを関係づける――というか,ものを作り,新たに示す――過程に入り込んだきり,ほかの場所には決して姿を現わさない存在なんですね.とすれば,私の映画はすべて,映像とともに,映像の内部で進行している過程を表に出す試みということになる.この「常に何かと関わりのある」状況とは,息も詰まるようなものですから,初めからそこにいて「そのまま」釣り上げられるのを待っている獲物を扱うように,テーマを弄んでばかりはいられないのです.映画空間というイリュージョンでは,往々にしてテーマが映画のリアリティに取って代わってしまうものなのですが,見るものをそこから救い出せるような一種の裂け目が,必ずどこかにあるはずなんですよ.

前のページへleft right次のページへ