時間の速度を緩めると空間も広がる

母の死

LW──あなたはこうおっしゃっています.「あとに吸入を伴なわない発散は,私がこれまでに経験してきた最も奥深いことの一つだ」と.

BV――ここでお話ししなければならないのは,私の母の死のことです.私はそれまで,人間の最期を見たことがありませんでした.1991年のことです.心を圧する個人的な悲しみをいくらか乗り越えて,この事態について考えだすと,それがいっそうはっきりと見えてきた.おそらくこれが,それまでに目撃した最も深いこと――真に奇跡的なこと――に違いない,とそのとき思ったのです.ふつう,われわれは,こうした感情を子供の誕生と結びつけて考えますね.たいていの人の思いのなかでは,誕生はポジティヴなことであり,死はネガティヴなことです.でも,実際には二つは同じですね――奇跡的で,不可知だ.それらはいずれも,一つの状態からもう一つの状態への変転についてのことです.死は本当に,私が受けた最も深い教えであり,それがとても多くのことをパースペクティヴに,個人的な認識の形式に,引き出してくれました.母の死去を経験したのは,私が自分の研究から得てずっと抱きつづけてきていた哲学的な考えが,もうこれ以上はないと思われるほどリアルになったときでした.哲学的な考えとか宗教的な表現というのは,単にリアルなものごとをのちに記述する段階にすぎません.その源泉は,風や洪水,満月,あるいは嵐と同じようにリアルなのです.それを理解しようと思えば,経験するしかない.だから,東洋の精神的修業が肉体的な経験にかくべつ重きを置くわけですね.

母の死は個人的なこと,悲しいできごとでした.自分の全生涯の感情をいっぺんに合わせたようでした.それからあとで,そのことを考えてみると,そうした感情がどこから出てくるかがわかります.母が死んだとき,私にとって本当にショックだったのは絶対的な静けさです.私は見て,気づきました.この人はもう二度と動くことはないだろう,と.それは,じつになんとも,最期,という感じなんです――とてつもない,永遠の凍てついた瞬間のような.永遠とは,そういうものです――時間の終わり.現実生活のなかで動きが止まるのを見るのは,とても強烈で深遠なものです.生はこの動き,われわれが「魂」と呼ぶこの力とつながっている.「魂」とは,「アニメーション」とか「アニメイト・オブジェ」とかいう場合のように,もとのラテン語は「アニマ」です.この言葉は運動や息から派生しているんですね.

こうした言葉,こうした認識は,こういう瞬間から直接に出てくる.抽象的な概念ではない.そこに存在したものの観察にもとづいている.水を「濡れている」とか火を「熱い」とか言うように論理的なんです.息を生の力としてとらえる考えは,その全体が,多種多様な古代文化のなかにくりかえし見られるような,複雑な宗教/哲学体系の一部です.でも,実際経験をもてば,わかるわけですね.「そうだ,最後の息が吐かれると,生命力はなくなるんだ」と.じつに明快――詩的な解釈などではない.こうしたことは,直接,世の中から出てくる.本に書いてあるのではない.心のなかで組み立てる観念ではない.自然そのものなんです.

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