時間の速度を緩めると空間も広がる

ヴィデオと音楽

LW──デイヴィッド・ロスがカタログに,「私はアーティストであり電子音楽家であるビル・ヴィオラを雇った」と書いています.その頃はどうだったのでしょうか?

BV――1972年のことですね.私は1970年の後半にヴィデオをやりはじめました.それまでロック・バンドでドラムをたたき,それから電子音楽に入れあげていた.初めてヴィデオ・カメラを手にしたとき,「これだ,私は一生これをやっていくんだ」とすぐさまに思ったんです.まったく迷いはありませんでした.それは深い,直観的な結びつきで,そこから新しい世界がまるごと開けてきた.なんというか,心の底にピタッときたときの躍りたつような感じ.最も深い意味での,愛のような,と言ったらいいかな――単に夢中になる,というのではなく,大文字ではじまる「愛」ですね.哲学者の語るような愛.この愛が私たちを,物質的なものに結びつけるんです.それこそが,物質的なオブジェの本当の力ですね.ここでいう物質的なオブジェとは,物質主義に対立するものです.つまり,物質主義というのは,じつは物理的なオブジェに愛をもっていないことなのですから.

それで,私はヴィデオと電子イメージに恋をした.特別な女の人や深くつきあえる友人に会ったのと同じような力を感じました.そういう力を与えてくれたんです.そのときまで,私はとてもひっこみ思案だったのですが,それから人生が変わった.さあこれからは,自信をもって自分を表現できるんだぞ,という気になった.他人の前に立って,自分がやりたいことを述べ,自分でそれをやってのけられるとわかった.小さい頃,私のアートの作品と言えば,いつも他人から逃げ隠れするようなものだったんです.部屋に一人閉じこもって,何時間でも描いていたんです.学校では,後ろのほうの席に隠れるようにしていました.だれか親類の大人とか,先生なんかがそういう絵を見つけると――いや,結局はいつも見つけられていたんだけれど――彼らはこう言うんです.「ほらごらん,すてきじゃないの」.そしてそれをかざして,みんなに見せるんです.私はテーブルの下に隠れるか,あわてて逃げていました.

そんなときにヴィデオを発見したんです.60年代末か70年代初めのことですね.みんなが一緒に活動していました.共通の目的があったのですね.友だちも知らない人も一つの絆で,同じように結ばれていた.若い私たちは,世界を変えようとしていました.私たちがヴィデオをやっていたのは,それがテレビに対抗するものだったからです.あの画一的で,ひとをコントロールしてしまう,エスタブリッシュメントのイメージ・マシン――企業や政治の宣伝道具.私はみせかけ,つまり,みんなの視界をさえぎり,誤った情報と自己満足とで頭を鈍磨させる,でっかいスクリーンの,その向こう側が見られるようになったという気がする.ほかに例のない時代でしたね.人間がもっている最大のエネルギーは,集合的なエネルギーですよ.だからこそ,アートの方程式というのは特殊なんだ――アーティストは,自分だけに訪れる啓示の瞬間を待って制作している.ところが,その成果は,個人的にしろ社会的にしろ,コミュニティのなかで真の効用をもつようにならないかぎり,現実化されて,生命を見出すことはできません.ともかく,あの頃は,ほんとうに強力な集合的エネルギーがありました.私たちみんなを勢いに乗せて運んでいく,生きた力がね.

LW──その頃はどこにいらっしゃったんですか?

BV──私の場合は,シラキュース大学.社会意識の強い時代でした.でも,その渦中にいても,私は,自分がいつも感じていた内的世界がどんなものか,ほんとうは誰にもわかってもらえないという気がしていましたね.その頃脚光を浴びるようになってきていた東洋哲学が,道標としてとても有用なモデルを提供してくれたけれど,私が幼いときからずっともちつづけていたフィーリングとは,ちょっとかけ離れていました.
つまり,内部の認識と外部の認識とは同じではなかった,と言ったらいいでしょうか.それが結びつかなかったわけですよ.この,集団という強い社会的なコンテクストのなかで自分の考えていることを試みたり実現しようとしても,毎回,うまくいかなかった.だから,そこで得た教訓というのは,自分が本当に感じたことをしゃべったり,自分がこうするべきだと思っているとおりになにかをつくりだそうとしても,いつも笑いものにされるか,欺かれるか,とりこまれるか,さもなければ誤解されるかでしかない,ということでした.そこで,しばらくしてから,もう他人のことは気にしないで,自分だけにとどめておくようになった.みんなそれぞれがそれぞれのメガネをかけている,ということですね.私のメガネは他人のと違う.だから,みんなが違う世界を見る,と.当時は,そんな気持ちももっていたんです.

LW――デイヴィッド・ロスと仕事をはじめていますね.

BV――同じ大学へ行ったんです.美術科の教授も同じ.私がこれまでに教えを受けた大事な先生が3人いて,その第一番目がその美術科教授であったジャック・ネルソン.すごいんですよ.本当に自由に考えたり行為したりする必要を感じている人たちを集めて,新しい学科をつくっちゃった.「エクスペリメンタル・スタジオ」と呼んでね.で,彼は融通のきかない学校制度にフラストレーションを感じ,ドロップアウト寸前の学生たちをみんな救いあげた.あらゆる分野から人材を集めたんです.デイヴィッド・ロスはジャーナリズムから来た.私は遅れて広告デザインから.そこはまるで孤児院みたいでした.ネルソンのところへ行くと,とどのつまりは自分のやりたいことが何でもできたんです.自由だった.しかも,自分と同類の仲間に会えた.みんなしてね――この野人と一緒に,あのアカデミズムの牙城の一つの地下室にこもっていたのですよ.学校当局が彼にスタジオとして与えられるのは,そこしかなかったんだな.

ネルソンは,学生の求めにこたえてヴィデオ機材をそろえた.それでデイヴィッドがはじめたんですよ.私のほうは,ネルソンに会う直前にヴィデオを見つけていました.1970年の秋,学生自治会がらみでね.やり手の新委員長が,双方向のインタラクティヴなCATVシステムをキャンパスにはりめぐらせ,学生たちに自前の番組を最新のカラー・スタジオでつくらせようとした.ああいうものの,はしりの一つだったんです.私はその設置の手伝いをして,このメディアの技術的な面をすべて習得しました.もともと,きっちりした技術的なことなら得意なのですが,電子音楽に手を染めていたこともずいぶんと役立ちましたね.のちに,1972年,デイヴィッドが地元のエヴァーソン美術館に世界初のヴィデオ・アートのキュレイターとして雇われた(やはり革新的な新館長,ジム・ハリサスによって)とき,彼は私をテクニカル・エキシビション・コーディネイターとして連れていった――それはもう,信じられないような時代でしたね.なにしろ,トップ・クラスのアーティストたちがこの分野の創造の現場で制作するのを手伝っていたのですから.数年間,そこでたくさんの人に会い,夜も昼もずっとヴィデオを生き,呼吸していた.

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