ICC Review

ICC Review

身体にメディアが浸透するとき
When Media Permeates the Body

歌田明弘
UTADA Akihiro

ICC NEWSCHOOL 5
──感覚とコミュニケーション

1998年10月3,10,11,13日
ICCギャラリーD
Senses and Communication
October 3, 10, 11, 13
ICC Gallery D



 人と人の直接的なコミュニケーションにもっぱら頼っていたときには,なんと簡単だっただろう.いや,直接的なコミュニケーションだって容易ではない.誤解が山積みだ.しかし,いまや人と人のあいだにはメディアが挟まり,さらにヴァーチュアルな空間が広がろうとしている.複雑さは増すばかりだ.

 10月に東京・新宿で,ウェアラブル・コンピュータのシンポジウムとファッション・ショーが開かれた.そこで発表されたファッションの一つに,そのときどきの感情が外に表われるファッションというのがあった.あるいはまた,すれちがった人々がどんなことに興味をもっているのかプロフィールがわかるファッションというのもあった.インターネットをはじめとするコンピュータ・ネットワークでは,共通の関心をもった人々を容易に見つけられるが,その「街角ヴァージョン」というわけだ.「仲間」を簡単に見つけられ,「群衆の中の孤独」と無縁の未来が生まれる…….

 楽しそうにも思えるが,ほんとうにそれは望ましい世界だろうか.(人に言える)趣味ぐらいならいいかもしれないが,感情となってくるとちょっと考えさせてくれ,という気分がしてくる.とはいえ,そのファッションは,人と人のあいだにメディアが挟まった世界の複雑さを一瞬垣間見せてくれたという意味で,おもしろかった.

 さて,4日にわたって行なわれた今年のICCニュースクール「感覚とコミュニケーション」は,複雑さが増していく時代のコミュニケーションと身体のありようを考えるというものだった.人と人のあいだにメディアが挟まり,さらにそのメディアも大きく変わる.これまでテレビやラジオからコンピュータにいたるまで,メディア空間は,いずれも人間の身体の空間とは分け隔てられていた.メディア空間はスイッチを入れて見られるものであり,人間はメディアの主人として安心していることができた.

 しかし,メディアはこれから少しずつ変わってくるだろう.コンピュータをはじめとするメディアがより自然に,ということは見えない存在になっていくことが予想される.ウェアラブル・コンピュータの例で言えば,身に着ける存在,洋服と変わらない存在になっていく.目には見えないが,そこにはコンピュータが存在し,機能が増幅される.人と人は,いやおうなく日常的にメディアを介し,生まれたときの身体感覚と異なったかたちでコミュニケーションしなければならなくなる.身体は,これまで以上にメディアに浸透されるだろう.
 さて,そうなったときどうなるか.

 そうしたことを端的に考えさせてくれるのが,参加型ワークショップ形式で行なわれた3日目のニュースクールだ.この回は,のっけから意表を突く始まりだった.来た人は踊りながら入場してくれと言われる.そして,床に散らばっている紙やハサミを使って帽子を作り,コミュニケーションについてどう思うかを帽子にひとこと書くように言われる.床に広げられた大きな紙に何か書いて,周りの人と話しをしてみるように指示され,さらに帽子の色にしたがって,少人数のグループを作り,あたりに散らばっている品々を使ってゲームを考えることを促される.隣のグループにそのゲームをさせ,最後に真ん中のステージで,みんなでゲームをしてみる…….

 いったいこれは何なのだろう.床に広がる紙に書かれた文字をあとで見てみると,戸惑いの言葉に溢れている.「保育園じゃないんだぞ」「何なんだ,これは」「いきなりコミュニケーションをしろと言われても」…….

 しかし,甲南女子大学の上田信行氏ら,この回の講師たちによって,最初は一人で帽子を作っていた段階から,具体的な課題を与えられ少しずつ多人数のグループへと発展していくように巧妙に組み立てられていたせいか,最後には,和気あいあいとした雰囲気ができあがった.最後に集計されたアンケートを見ても,満足して帰った人が多いようだ.

 ただ,「今日のことをよく考えてみてください」とだけ言われ,とりたてて説明がなかったので,一種の心理療法が行なわれたと勘違いした人もいたのではないだろうか.

 メディアを介したコミュニケーションという意味では,帽子であろうとコンピュータであろうと変わりはない.どう自己表現するかが問題なのだ.そして,そのコミュニケーションは,自分の考えを書きこんだ帽子というメディアの存在によってすら変わる.それは考えや感情の表われるウェアラブル・コンピュータでも,自分の考えを書きこんだ帽子でも同じことだ.ハイテクであろうが,ローテクであろうが,メディアを介することで,コミュニケーションは円滑にも,また難しくもなる.紙で作った帽子というローテクなメディアで,コンピュータに象徴されるより深化したメディアによるコミュニケーションの時代を予見させる試みだった.

 第2回は,コンサート形式だ.一見ふつうのジャズ・コンサートのようだが,場所のデータを蓄積したコンピュータでリアルタイム処理され,ヴァーチュアル空間での演奏に変えられている.パリ・バスティーユの新オペラ座から東京駅,さらには伊豆の天城トンネル,高知の鍾乳洞まで,それぞれの場所で演奏したらどうなるか.「音のヴァーチュアル・リアリティ」の研究者,早稲田大学の山崎芳男氏によって,忠実に再現される.後半は,音の研究者,NTT基礎研究所の東倉洋一氏によって,音とは何かが語られた.

 見るものと見られるものを分離する視覚に比べ,音は,主体とメディアのいる空間を分け隔てない.音はいやおうなく身体に襲いかかってくる.聴覚は,メディアに浸透される身体のありようを,他の感覚器官に先駆けて教えてくれる.

 第4回の講師,北海道大学の伊福部達氏は,聴覚研究からスタートして,先端技術を使って身体の障害をサポートするシステムを研究してきた.音を図形や文字に変換して目で理解できるようにする「音声タイプライター」や,指先で理解する「指で聴く機械」を開発している.さらに,音を電気刺激に変換して人工内耳を埋めこみ,神経に直接伝えることにまで研究は向かっている.

 伊福部氏は,そうした研究をする一方,視覚・聴覚・触覚など,一つの感覚がそこなわれたときに,他の感覚を使って代行させる研究も始めた.九官鳥の音声は人間の声と波長は異なるが抑揚が似ているので,人間と同じ言葉をしゃべっているように聞こえる.その現象に注目して人工喉頭を開発した.あるいは,コウモリが超音波を発し,その反射で周囲を知覚していることにヒントを得て,「超音波メガネ」を作った.さらに盲人が音の変化で障害物を察知していることをもとにした,「気配」を人工的に作り出すヴァーチュアル・リアリティの開発まで,人工的な身体感覚の創出は進んでいる.ウェアラブル・コンピュータは「着るメディア」だったが,ここまでくれば,もはやメディアは身体化されている.サイエンス・フィクションの世界でも何でもなく,メディアの身体への浸透は進行しつつある.

 そもそも知覚とはいったい何なのか.アフォーダンス研究の第一人者である東京大学の佐々木正人氏を迎えて行なわれた第1回目は,知覚原論とも言えるものだが,知覚とは人間の内部にある現実ではなく,周囲の環境とのレスポンスと運動の中で作られていくものであることが解き明かされる.佐々木氏の話のあとに登場したジャーナリスト服部桂氏は,最新の人工生命やロボット研究を紹介しながら,コンピュータのプログラムが,周囲の動きに反応してあたかも生きているかのように動き行動すること,あらかじめプログラムを組んでおくよりも,周囲の状況に反応するようにプログラムされた人工生命やロボットのほうが,より効率的に生物らしい動きをすることを示し,アフォーダンスの理論が人工生命の世界で端的に具体化されている様子を明らかにする.知覚の研究とデジタル・ワールドの最新の研究は少々薄気味悪いぐらいに相似的である.

 メディアと身体感覚が浸透しあうばかりか,デジタル空間自体が生物の身体に近い存在になろうとしている.そういう時代とはいったいどのようなものなのだろう.時間をかけて問う間もなく,テクノロジーの進化の加速度は増し,そうした時代はもう目の前にある.


うただ・あきひろ──1958年東京生まれ.雑誌『ユリイカ』の編集人を経て,現在はフリーで編集・執筆活動.著書=『仮想報道』(アスキー),『マルチメディアの巨人』(ジャストシステム)など.

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