特集: 音楽/ノイズ--21世紀のオルタナティブ
架橋される60年代音楽シーン

理論より手法

磯崎──50年代の半ば頃に,「ミュジック・コンクレート」というかたちでの演奏会を,われわれより少し上の世代の人たちがやりはじめていますよね.僕はそれにはちょくちょく通っていました.けれど,「ミュジック・コンクレート」という一種の騒音を入れる音楽の方法と,一柳さんたちの導入したジョン・ケージの「偶然性の音楽」という方法とは,本質的に違うように受け取っています.それはどういうことかと言うと,結局のところ,60年頃に僕が一番関心をもったのは,美術で言えばポロックで,それから音楽ではケージなんですね.なぜかと言うと,ポロックというのは「アクション・ペインティング」でしょう.ケージは「チャンス・オペレーション」ですね.50年代は美術の「抽象表現」とか「アンフォルメル」,音楽で言うと「セリー」などといった一つのイメージされた理論があって,その理論に基づいてつくっていくと違った結果が得られるというやり方でした.ところがこの二人は,やり方しか言っていないわけ.「アクションしかない」とか「チャンスだけしかない」ということは,どういう結果が生まれるかに表現の眼目があるのではない.むしろ表現そのもののやり方しかない,つまりそれぞれのもっている方法・手法がすなわち表現であるという言い方で当時活動を始めたのです.

 僕はそれに一番関心をもって,僕自身の建築という仕事の領域においても目標をもたず,構造を組み立てず,行き当たりばったりの,ある種の不確実性,不確定性の中に建築を放り込むという方向に組み立てようとしはじめたんですね.それは都市論も関連しています.そういう理解は,「ネオ・ダダ」などの連中との単純なつきあいのなかから学びました.僕が建築家として彼らとのつきあいを選んだということは,やはり他の人たちとコースが変わった大きな原因の一つのようにいまだに思っています.

 そのなかに一柳さんはケージの「偶然性」というものをもって立ち現われていたわけで,僕は違和感はなかったし,そういう意味では「ネオ・ダダ」の連中も,とにかく破れかぶれに体を動かすことだけが中心で,それに関しても似たようなことがあったわけです.「暗黒舞踏」の土方巽たちも何かを構築しようなんていうことはないわけで,「つっ立っている死体」を舞踏の基本に据えるということを言っているのですから,そこは似ています.60年代の初めにはだいたい皆そういう思考へ走って,それまでの芸術概念から逃れようとする動きをしたと思います.

一柳──つまり,結果の善し悪しを対象にするのではなく,プロセス,あるいはいまという瞬間を大事にするということですね.これは閉鎖的なイメージやシステムからの解放です.現在の日本に置き換えれば,芸術にも不可欠とされているビッグ・バンの目指すものに近かったと言えるかもしれない.ケージのように,芸術と生活の境界を取り除こうとしていた人たちもいたわけですから.ケージは92年に亡くなったわけですが,そのときドイツの新聞だけが「偉大なアナーキストが亡くなった」と書いたんです.ケージは作曲家だし,社会的な問題にも関心をもち思想的なモチーフを文章で書いているし,絵も描いているし,非常にコンセプチュアルな発想をもっていて哲学者みたいなところもある.それはどれも間違いではないと思うんですが,彼の一番根底にあったのはやはり「アナーキーな生き方」ということだと私も思います.

 同じように前衛として戦後のヨーロッパではいろいろな音楽家たちが出てきますが,特にフランスのピエール・ブーレーズとかドイツのカールハインツ・シュトックハウゼンらは,新しいものを目指していても構築性の線路の上を進んできました.音楽をシステム化するというか,つまり自分がヨーロッパの音楽の歴史を全部背負ったうえに自分の位置がある,という感じなんですね.そのやり方で自分を築き上げていくと,結局その後ろに見えてくるものは国家であるとか権力的なものです.事実ブーレーズにしてもシュトックハウゼンにしても50年代にはさんざん悪口を言われた面もあるわけです.つまりものすごい予算を彼ら二人がふんだくって若い人にまわさないといったことで.もちろんいいこともやっているんですよ.ブーレーズがIRCAMをつくったりとかシュトックハウゼンが電子音楽スタジオをつくったりとか…….しかしともかく国家の後ろ盾を得て,権力の中に入ってしまったんです.

 そこがアメリカにいたケージとは根本的に違います.アメリカの美術は後年政府の後ろ盾もかなりあったと思いますが,前衛音楽はそういう恩恵を一切受けていないんですね.だから最後まで貧しかった(笑).ケージが多少ゆとりができたのはじつはかなり晩年になってからで,89年に京都賞をもらって,やっと少しゆとりができた.といっても彼はその後財団をつくって,それを若い作曲家の支援にまわしたりしてましたが…….だからケージの場合はおそらく政府から何か言ってきても拒絶したと思いますね.そういったアナーキーな生き方は,それがヨーロッパなり日本に波及してきたときに失われていると私は思ったんです.

磯崎──大まかな流れから言うと,60年代というのは日本で言えば一種の反体制というかたちの活動と,それぞれの領域における前衛性が重なり合っていたようなところはあると思います.逆にヨーロッパでは民族国家がかなり力をもっていて,フランスなどではとりわけ中央集権的に固まっています.例えばル・コルビュジエのように建築家としてパリやフランスの国家や制度に反対しつづけた人も,死んだらアンドレ・マルローが国葬にしちゃうというように,国が新しい活動を吸い上げてしまう.そしてそれが国の表現になる.それはミッテランの「グラン・プロジェ」に至るまでつながっているんです.ブーレーズなどのポジションというのは明瞭にその中に位置づけられていて,国民国家のバックアップがある.まあ日本で言えば平山郁夫さんみたいなポジションですよね(笑).

 日本では,音楽に関して言うと歴史がないから,おそらく日本国家というものがサポートしきれないままできたのではないかという感じがします.第一,サポートするシステムも,最近の国立劇場ができるまでは明瞭に見えてきていない.そうなってくると60年代の動きというのは,アメリカと日本ではある意味で歴史を背負うことはなく,国家というものの枠組みも,他の領域では強いんだけれど実感としてはそこに及ばないものになっていた.社会的にマイナーなポジションで動いているという状態だったのではないでしょうか.

一柳──多分そうでしょうね.特にニューヨークは多民族国家の象徴みたいな場所ですから,いわゆるオーヴァーグラウンドとアンダーグラウンドがかなりはっきり分かれています.一方にエンパイア・ステート・ビルディングとかブロードウェイとかウォール・ストリートというアメリカのステータス・シンボルがあって,それに対してまたオフ・オフ・ブロードウェイとか,あるいは新聞で言うと『ヴィレッジ・ヴォイス』といったものがあり,それぞれが違う価値観をもっています.その辺ははっきりけじめがあるという感じがしました.

磯崎──特に60年代は,例えばヴェトナム戦争があったわけですから,それに対する反対,ヒッピーのような動き,またサイケがからんでいました.60年代の特に後半に,一種の反体制,反社会性,ドロップ・アウトという動きはかなりあったと思います.その一方でやはり,アメリカン・アートを組み立ててアメリカのヘゲモニーにもっていこうとする,つまり美術で言うと60年代の作家たちが美術館のポジションを占めていくプロセスとかなり近いもう一方の動きがあった.ちょうど68年頃は,それが衝突してどう転んでそれぞれどちらに行くかという態度決定を考えさせられるような時期だったという気がします.

 僕は一柳さんとはニューヨークで会いましたね.帰りにサンフランシスコに行って,こうした動きの中にちょうど巻き込まれていって,一柳さんも帰ってきたら髪の毛のスタイルが変わっていて……(笑).あれは67年でしょう.それが世界的には68年の動きになったような,何かあったんですよ.

 そういう意味で言うと,当時はエスタブリッシュメントを批判する動きが出てきたわけですけれど,もともと前衛出身の人はある意味で最後はエスタブリッシュメントに行こうとしていたのに対して,ケージのようにエスタブリッシュしようがないような仕組みを自分で組み立ててしまって,どんどん低空飛行していく人間も出てきた.上へ行く人と下へ行く人に分かれたんですよ.

一柳──いまはコンサート・ホールが雨後の筍みたいにどんどんできてますが,60年代後半にできたのはディスコテックですね.ディスコテックもその頃のものはただ音楽があって踊るというのではなくて,非常に解放された空間になっていたと思います.

 私も二つばかり関与していたのですが,そういう場所をトータル・シアターのように演出することができないかという発想をしました.赤坂にあったスペース・カプセルというディスコテックで,唐十郎や寺山修司のグループを呼んできて,バンドが休憩しているあいだにパフォーマンスをやったりとか.土方巽さんにも踊ってもらった.

 当時,ポップやサイケとクラシックを等価に扱おうと思って,例えば東京文化会館で「オーケストラル・スペース現代音楽祭」[★12]の2回目にロックとオーケストラを共演させたりということをやっているんですよ.すごい顰蹙を買って(笑).つまり,特に日本では,音楽というのは一番種類の多い分野なんですよね.だからなんとなく暗黙のヒエラルキーがあるんです.一番上はヨーロッパのクラシック音楽で,一番下は日本の歌謡曲という感じで,中間にロックとか民族音楽とかジャズとかが入っているわけですね.とにかくオーケストラは一番上だと思っているから,ロックが同じステージに出てくるということにすごい抵抗があるんですね(笑).

 その《アップ・トゥ・デイト・アプローズ》という曲ですが,当然電気を使っているから,電波が固体伝送音になって,床を伝わってオーケストラのほうに行くんですね.そうするとヴァイオリンみたいに手で支えている楽器はいいんだけれども,チェロのように床に付けている楽器はビリビリ来るんですよ(笑).それで板がはがれるから弁償しろ,なんて大騒ぎになったことがありましたね.

 そのときは指揮を武満さんにお願いしていました.そうしたら,彼はチェロを弁償させられてはかなわないと思ったのか,ロックの部分をほんのちょっとやって止めちゃったんですね.それでオーケストラだけが延々と残って,曲としては意味不明のことになってしまいました.ちょっと武満さんを弁護しておくと,武満さんはロックがあまり好きじゃないのでロックを短くしたのか,それとも彼はあまり演奏家としての経験がない方だから時間の配分がわからなくて……(笑).いま思うともしかしたらそういうことだったかもしれないなとも思います.

 60年代の後半は,音楽的に言うといわゆる前衛の連中が全部外国に出てしまったんですよ.高橋悠治も小杉武久も秋山邦晴[★13]もみんな留学してしまって.僕らは63年に,「ニュー・ディレクション」という演奏グループをつくって演奏シリーズを始めたんですが,みんないなくなって運営するのが難しくなってしまいました.

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