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![]() A Walk through the ARAKAWA/GINS Exhibition 如月小春 KISARAGI Koharu
新しい日本の風景を建設し,常識を変え, |
あなたはその空間の,どこにまず行きましたか? 左右の壁際のスロープに登りましたか? 中央の都市の模型のところですか? あるいは入り口を入ってすぐ左手にある,作り手の「言葉」を読もうとしましたか? それとも……. それともあなたは,あの空間に足を運びませんでしたか? だとすれば,私と一緒に来て下さい.私の辿った順に歩いて下さい.ではまるでタクシーにでも乗るように,私の身体に乗り込んでみて下さい.
そのとき,体験したことについて,できる限り,平明な言葉で書こうと思う.そのほうがふさわしいと思うから.
まるで昆虫の巣のような,あるいは大脳標本,それとも植物の葉脈か.整然としていながら妙に生々しく,しかもめまぐるしい印象を与えるその模型.
一瞬の目眩.見ている私が見られている! ならば,と模型から離れてスロープに向かう.あそこに行けば,私はただの観客でいられるはずだ.あそここそが安全地帯と目星をつけて.しかし,芝生を思わせる色合いと,大地を思わせる柔軟な沈み込みをもつスロープを一歩一歩上ってゆくときに,再び奇妙な感覚に襲われた.それは複雑な感覚だった.一つは,デジャ・ヴュ.私はここを登ったことがある…….それもそのはず.さきほど,模型を覗き込みながら,私は想像したではないか.スロープを登るイメージ.踏みしめる感触.私はまさに,自分のイメージを追体験していたのである.いや,それともいま,こうして歩いていることのほうがヴァーチュアルなのだろうか.イメージと現実のあいだで宙吊りになっているのは,スロープを歩いている私自身の身体感覚.それ以外のものは皆,曖昧な雲のように,その身体感覚を取り巻いているだけなのかも. もう一つは,覗く側に立つために登ってきたというのに,覗かれているような気がしてならないこと.それも,無防備な状態に解放されている私の「無意識」というハダカを覗き見されているという身体中の神経が泡立つような感覚.スロープを歩いている私を見ているのは誰だ? ジロジロと無遠慮になめまわすように見ているのは,それは,私自身.そうなのだ.ここでもまた,覗いている(スロープの上の)私は(模型を覗きながら想像していた)私によって覗かれていたのである.
幾重にも組み合わされた入れ子構造.反転に次ぐ反転.自分で自分を見る/見られる.しかもその無意識の底の底まで.これはまるで,巧妙に仕組まれた,主観としての私自身を自分の意識によって再照射していくための装置ではないか. そう思ったら,さきほどまでの居心地の悪さがするりと消えた.と同時に,心が軽やかになった.ここでは,「私」が「私」を遊ぶことで生きてゆけばいいのだ.それはとても自由で,スリリングな,知覚の冒険.ここにはいままでどこにもなかったような空間が出現している.都市であることと芸術であることと私であることが平然と同居する「日常の生活空間」が. こうして驚くほど元気になって,私はその空間をあとにしたのだった. [同展会期中,ICCシアターでは荒川修作/マドリン・ギンズ制作の映画 《Why Not (A Serenade of Eschatological Ecology)》(1969), 《For Example (A Critique of Never)》(1971)が上映された/本誌p.178参照] きさらぎ・こはる |
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