ICC Review
ARAKAWA/GINS Exhibition 「荒川修作/マドリン・ギンズ展」を歩く
A Walk through the ARAKAWA/GINS Exhibition

如月小春
KISARAGI Koharu

新しい日本の風景を建設し,常識を変え,
日常の生活空間を創りだすために
荒川修作/マドリン・ギンズ展
1998年1月24日−3月29日
ICCギャラリーA
The City as the Art Form of the Next Millennium
ARAKAWA/GINS
January 24−March 29
ICC Gallery A

あなたはその空間の,どこにまず行きましたか? 左右の壁際のスロープに登りましたか? 中央の都市の模型のところですか? あるいは入り口を入ってすぐ左手にある,作り手の「言葉」を読もうとしましたか? それとも…….

それともあなたは,あの空間に足を運びませんでしたか? だとすれば,私と一緒に来て下さい.私の辿った順に歩いて下さい.ではまるでタクシーにでも乗るように,私の身体に乗り込んでみて下さい.

そのとき,体験したことについて,できる限り,平明な言葉で書こうと思う.そのほうがふさわしいと思うから.
その空間の入り口に立って中を覗いたとき,そこはひどく薄暗くて,はじめのうち,何が何だかよくわからなかった.どうやら中央に模型があり,左右にスロープがあり,壁という壁にはコンピュータ・グラフィックスによる都市のデザイン・イメージが,大きく引き伸ばされた状態で,一面に描かれているらしい.
どこかで,雅楽が鳴っていた.笙の響き.時間の感覚を狂わせてしまうような,甲高いロング・トーン.
照明がゆっくりと変化していた.そうか,いまは「夜」なのだな.何となくそう思う.そして,私は,これから「明け方」に向かいつつある,中央の模型にまず近寄っていった.

まるで昆虫の巣のような,あるいは大脳標本,それとも植物の葉脈か.整然としていながら妙に生々しく,しかもめまぐるしい印象を与えるその模型.
しだいに明るさが増してきて,細部がよく見えるようになっていく.周囲を歩きながら覗き込む.中心部になだらかな丘陵を思わせる緑の広場.その周囲に,積み重なり,無数のスロープで結び合わされた建物群.屋上庭園があるかと思えば,小川が流れ,道路が横切っている.照明は流れる雲を描き出し,光はゆっくりと色を変えて,真昼から夕暮れへと滑ってゆく.
じっくりと覗き込むうちに,想像しはじめた.私がもしこの都市に棲んでいるとしたら,いまどこにいるのだろう.夕暮れから夜に向かうこの時間帯に,私だったらどこに居たいと思うだろう.多分,あのスロープの途中に佇んで,暮れなずむ都市の全景を見下ろしているのではないか.それからゆっくりと歩き出し,迷路のような建物群(あの幻の香港九龍城を思わせる)のあいだを抜けて,人工大地に一度降り,そこでしばししゃがみ込み,また歩き出す.この中のどこかにあるわが家に向かって,スロープをゆっくりと登ってゆく……
. そのとき,背後に視線を感じた.振り返ると,会場の壁面に建てつけられたスロープ(模型のスロープと相似の形状)の途中に佇んで,こちらを眺めている人々がいるではないか.

一瞬の目眩.見ている私が見られている!
途端に居心地が悪くなった.なぜだろう.展示された作品を一方的に見る,という美術展にありがちな権力構造が破壊されたからだろうか.作品を覗き込み,無防備な状態で想像に浸っている姿を,一方的に誰かに覗かれていたからか.こうしていつの間にか観客は客席に居ながらにして舞台上の役者へと立場を「反転」させられていたのだ.

ならば,と模型から離れてスロープに向かう.あそこに行けば,私はただの観客でいられるはずだ.あそここそが安全地帯と目星をつけて.しかし,芝生を思わせる色合いと,大地を思わせる柔軟な沈み込みをもつスロープを一歩一歩上ってゆくときに,再び奇妙な感覚に襲われた.それは複雑な感覚だった.一つは,デジャ・ヴュ.私はここを登ったことがある…….それもそのはず.さきほど,模型を覗き込みながら,私は想像したではないか.スロープを登るイメージ.踏みしめる感触.私はまさに,自分のイメージを追体験していたのである.いや,それともいま,こうして歩いていることのほうがヴァーチュアルなのだろうか.イメージと現実のあいだで宙吊りになっているのは,スロープを歩いている私自身の身体感覚.それ以外のものは皆,曖昧な雲のように,その身体感覚を取り巻いているだけなのかも.

もう一つは,覗く側に立つために登ってきたというのに,覗かれているような気がしてならないこと.それも,無防備な状態に解放されている私の「無意識」というハダカを覗き見されているという身体中の神経が泡立つような感覚.スロープを歩いている私を見ているのは誰だ? ジロジロと無遠慮になめまわすように見ているのは,それは,私自身.そうなのだ.ここでもまた,覗いている(スロープの上の)私は(模型を覗きながら想像していた)私によって覗かれていたのである.

幾重にも組み合わされた入れ子構造.反転に次ぐ反転.自分で自分を見る/見られる.しかもその無意識の底の底まで.これはまるで,巧妙に仕組まれた,主観としての私自身を自分の意識によって再照射していくための装置ではないか.
それはいままでに経験したことのないような奇妙に明るく,それでいて張りつめた体験であった.この空間は,何から何まで,どこからどこまで「私」でできている.
「私」が知覚し,「私」が想像し,そしてそういう「私」の構造が面白いほどくっきりと露呈するのを,呆然としながら見つめているものも,また,「私」である.

そう思ったら,さきほどまでの居心地の悪さがするりと消えた.と同時に,心が軽やかになった.ここでは,「私」が「私」を遊ぶことで生きてゆけばいいのだ.それはとても自由で,スリリングな,知覚の冒険.ここにはいままでどこにもなかったような空間が出現している.都市であることと芸術であることと私であることが平然と同居する「日常の生活空間」が.

こうして驚くほど元気になって,私はその空間をあとにしたのだった.

[同展会期中,ICCシアターでは荒川修作/マドリン・ギンズ制作の映画 《Why Not (A Serenade of Eschatological Ecology)》(1969), 《For Example (A Critique of Never)》(1971)が上映された/本誌p.178参照]

きさらぎ・こはる
東京都生まれ.東京女子大学文理学部哲学科卒業.1983年より劇団NOISE代表.「演劇による都市論」という視点で『A・R――芥川龍之介素描』『朝,冷たい水で』などの作品を発表する一方,各地での演劇ワークショップにも積極的に取り組む.92年「アジア女性演劇会議」(東京,京都で開催)の実行委員長を務める.著書=『如月小春戯曲集』(新宿書房),『都市民族の芝居小屋』(筑摩書房),『子規からの手紙』(岩波書店),『八月のこどもたち』(晩成書房)ほか.

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