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ベンワー・マンデルブロ『フラクタル幾何学』

1977
安斎利洋

 自然は一瞬にして形をなすわけではなく,結晶の突起は次の突起の種になるというように,不断に繰り返されフィードバックする生成ループにさらされている.われわれの目にする自然の形態には,そのような複雑なプロセスが畳み込まれ,多くはぐちゃぐちゃとしていてとりとめがない.「雲は球形でなく,山は円錐形でない.海岸線も円形ではないし,樹皮もなめらかではなく,また稲妻も一直線には進まない」

 原題 "The Fractal Geometry of Nature" が示す通り,本書の主眼は自然を記述しうる幾何学の提唱にある.たとえば海岸線を見てみると「小さく描かれた細部と大きく描かれた細部は幾何学的に同一である」.無限に入れ子になった細部をもつこのような自己相似性のある対象は,カントール,ペアノ,コッホ,シェルピンスキーなど,なめらかな世界観の辺境に住む数学者によって今世紀のはじめに姿を露にしていた.本書は,それら数学的なキワ物たちを檜舞台の上に再配置し,数学の棲み分け地図に揺さぶりをかけたのである.

 マンデルブロはしかし,フラクタルを完全に定義しきってしまうことを注意深く避けている.マンデルブロは,それらきてれつな対象にキャッチコピーとヴィジュアルを与えるという(広告マンさながらの)巧みな戦略を用いる.「私はラテン語の形容詞fractusからフラクタル(fractal)という用語をつくった.fractusに対応するラテン語の動詞frangereは『こわれる』,すなわち不規則な断片ができるという意味である」.「代数,algebraという言葉は,アラビア語でひとつにまとめるという意味のjabaraから派生してきているので,フラクタルとアルジェブラは語源的に反意語となっている」

 本書はひとつのエッセイであると宣言されている.そこでは語彙と図像の力によって雑多なテーマが組織され,精密化する前に次の想を得るがごとくイマジネーションを拡大していく.ミルクが白い「凝乳」と透明な「乳漿(乳清)」に分離するメタファーが,フラクタルなクラスター形成に,そしてgalactic(銀河の,乳汁の)への連想を通して宇宙のフラクタル構造の論考へと発展する.読者は,フラクタルというキーワードによって様々な領域を横断するスリルを味わうことになる.

『フラクタル幾何学』は,視覚的な直感の有効性を数学的に恢復する契機でもあった(マンデルブロ自身,この本をまずは図版だけ目で追うことを勧めている).「フラクタル幾何学は,非常にいかめしい数学のなかには,今日まで誰もそのようなものがあるとは思ってもみなかった造形の美を隠し持つものがあるということを明らかにする」

 大きなブームになった「マンデルブロ集合」は,本書で示されたわずかな画像をきっかけにして多数の研究を誘発したし,ランダム・フラクタルによる自然の描画技術は映画産業にも大きく貢献した.美しさは速効性がある.

「ファトゥー,ジュリアの発見が,フラクタル理論のもとになるほど発展していなかったということは,古典解析も発展のためには直感が必要であり,コンピュータの手助けが必要であるということを意味しているのではないだろうか」

 本書の出現以来,コンピュータによる可視化なしでは成立しえない数理科学の対象はどんどん広がりを見せており,そこでは数学者,科学者,芸術家,技術者の境界線はしだいに意味をなくしつつある.本書は期せずして,自閉的な職域に分散し切り刻まれた美のありかを,再編成するきっかけともなったのである.

(あんざい としひろ・CGアート)

ベンワー・マンデルブロ『フラクタル幾何学』(広中平祐監訳),日経サイエンス社,1985.

    

■関連文献
高安秀樹『フラクタル』朝倉書店,1986.
H薜蜒pイトゲン,D蜒Uウペ編『フラクタルイメージ......理論とプログラミング』(山口昌哉監訳),シュプリンガー・フェアラーク東京,1990.
宇敷重広『フラクタルの世界......入門・複素力学系』日本評論社,1987.
クリフォード蘂蜒sックオーバー『コンピュータ・カオス・フラクタル......見えない世界のグラフィックス』(高橋時市郎,内藤昭三訳),白揚社,1993.