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デビッド・マー『ビジョン....視覚の計算理論と脳内表現』

1982
朝倉暢彦

 本書は,視覚に関する脳の情報処理を理解する上で,計算理論というものの必要性を初めて明確に打ち出したものである.デヴィッド・マーは小脳の研究をした後,視覚の研究を行ない,この分野で多くの優れた業績を残した.本書は,白血病で余命いくばくもないことを知った彼が書き残した遺稿である(享年35歳.本書はその2年後にMITにおける彼の同僚たちの努力で刊行された).現在,心理学,神経生理学,計算機科学などの多方面から脳研究が盛んに行なわれているが,本書で提唱された計算論的アプローチは,視覚のみならず広く脳の情報処理様式を理解するために欠くことのできない方法論となっている.

 計算理論とは,情報処理における計算の目的は何か,またその計算が可能になる仕組みはどうなっているのかということを定式化したものである.マーによれば,この計算理論が情報処理を理解するための最上位の水準であり,この下に計算を行なうアルゴリズムを決定する水準,そのアルゴリズムを実現する機構(ハードウェア)を理解する水準が存在する.なぜこの計算理論が必要なのかを理解するには,彼のあげた次の例がわかりやすい.「知覚を神経細胞の研究のみによって理解しようとすることは,鳥の飛行を羽の研究のみによって理解するようなもので,決してうまくいかないのである.鳥の飛行を理解するためには,空気力学を理解しなければならない.そうしてはじめて羽の構造が理解でき,異なる形状の翼の意味がわかるようになるのである」(p.29).

 マーはこのような計算論的視点から,視覚情報処理の目的を2次元網膜像から外界の3次元構造を再構築することであると捉え,そのために視覚系は外界の物理的な制約をうまく用いてその計算を行なっていると考えた.この考えは,本書において,(1)2次元画像の重要な情報を明示する原始スケッチ,(2)観察者中心座標系において可視表面の特性を表現する21/2次元スケッチ,(3)物体中心座標系での形状およびその空間的構造を記述する3次元モデルという3つの階層的な処理段階を想定して説明されている.

 本書が刊行されてからすでに10年以上が経過し,一部の結果については現在かなりの修正をせまられているものもある.しかし,本書で解説されている画像の輪郭を見つけるためのマー・ヒルドレス・オペレータや,ランダム・ドット・ステレオグラムから面を復元するマー・ポジオ・アルゴリズムは,現在でもコンピュータ・ヴィジョンの分野で主流な方法であるだけでなく,人間の心理データを解釈する上で一つのたたき台となっている.また現在に至るまでマーの思想に追従する,あるいは批判する形で視覚研究が発展してきたことは間違いなく,本書で展開されている理論体系,あるいは理論の定式化の過程を理解することは視覚研究を志すものにとって不可欠であると言える.

 視覚の研究は脳の研究であり,脳の研究は人間の本質を理解するための研究である.本書では脳を言わば情報処理課題を遂行する計算機と捉え,その機能を理解するための方略が議論されている.一見あやういこの議論についてマー自身は次のように述べている.「脳が計算機であるということは正しいことなのですが,誤解を招きやすいのです.脳は実際,高度に特殊化された情報処理装置か,あるいはむしろ,その集合全体なのです.我々の脳を情報処理装置と考えることは,人間の尊厳を傷つけたり否定したりするものではありません.むしろその考え方は人間的価値を支えるものであり,最終的にその考え方によって,情報処理の観点からすれば人間的価値が実際に何であるのか,それが選択的価値をもつのはなぜか,遺伝子から授かった社会習慣や組織に対する能力に人間的価値がどのように結びつけられているのかを理解することができるかもしれないのです」(p.403).

(あさくら のぶひこ・心理学)

デビッド・マー『ビジョン....視覚の計算理論と脳内表現』(乾敏郎+安藤広志訳),産業図書,1987.

    

■関連文献
乾敏郎『Q&Aでわかる脳と視覚』サイエンス社,1993.
川人光男『脳の計算理論』産業図書,1996.
下條信輔『視覚の冒険』産業図書,1995.