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26
マルティン・ハイデガー『技術論』

1962
竹内孝宏

 語源研究の知識によって裏打ちされた何やら怪しげな言葉が,ひとつ,またひとつ,たがいに等置され対置され,整然とした論理的関係を維持しながら緻密な網目をなしていく....そんな『技術論』のテクストをクリアーに見通すには,むしろ周縁的と言ってもいい"Bestand"なる概念に注目するのがよさそうだ.著者自身によって「ただの『在庫品(Vorrat)』よりも以上の」意味を与えられたこの語は,邦訳では「役立つもの」という日本語に変換されているが,現在のわれわれならばいっそのこと「ユーティリティ」とでも訳してしまったほうがわかりやすいと思う.無論,人間にとってのユーティリティである.

 するとこういうことになるだろう.近代技術は,自然の中に匿われたエネルギーを開発し,それを変形し,貯蔵し,分配し,転換する....これをハイデガーは "herausfordern"(ここに出てこい/ここに出せと要求する.邦訳では「挑発する」)という語で括った....ことによって自然をユーティリティ化し,その結果,かつてのギリシア語のピュシス(自然)においてその最高の発現をみたポイエーシス....このギリシア語は,いまならさしずめ「自己生成能力」とでも訳せようか....を隠蔽した.そしてその背景には,自然を数量の関係として表象する近世物理学の誕生があった,というのではない.自然をユーティリティとして「挑発」しようとする強迫観念を内部に組み込んでいたがゆえに,近代技術は近世物理学的な自然の表象を利用することができたのだ.「自然に関する近世物理学理論は,何も技術の先駆者ではない」

 しかし事態はもっと深刻である,とハイデガーはただちに付け加える.近代技術を駆使して自然をユーティリティ化しようとする人間そのものが,そのようなものとしてすでにユーティリティ化されているのだとしたら? 1955年に行なわれた講演を文字に起こした,このさして新しくもない書物には,現在もっともアクチュアリティをもっている問題が,見事に指摘されている.「実は人間こそ自然よりもさらに根源的に,役立つもの[ユーティリティ]に属しているのではないか.人間資源(メンシェンマテリアル)とか,たとえば病院の臨床例(クランケマテリアル)とかに関する現今の流行語は,そのことに与している」

 では,この近代技術の悪循環を断ち切り,そのユーティリティ化のヘゲモニーに風穴を開けるにはどうしたらいいのか.そこに芸術....ギリシアにあっては「テクネー」の名を「技術」と分かち合った「芸術」の役割がある,とハイデガーは言う.「技術への本質的な思念も,また技術との決定的な対決も,一方では技術の本性と類似しながら他方では根本的に相違している領域のなかで,生起しなければならない.かかる領域が芸術なのである」.だからといって,芸術が単純な自然回帰を可能にするというのではない.「技術は打ちのめされもしなければ,ましてや打ちこわされはしない」.むしろ芸術は,ユーティリティ化する技術がついに到達できない外部を,夜を,暗闇を提示することによって技術と「対決」するだろう.この圧倒的な外部=夜=暗闇を,「芸術作品の起源」(1935−36)のハイデガーは,すでに「大地」と呼んでいたはずだ.

 自己生成するギリシア的ピュシスが,いわばトータルなテクノロジー環境となって回帰し,「技術」も「芸術」も,「テクネー」としてのかつての連帯を取り戻したとしか思えないいま,3度目のギリシア時代とも言うべきいま,技術を論じて芸術を語るこの危機のテクストは,新たな開け(Lichtung)を刻まれ,新たな光(Licht)のもとに晒されるのを,じっと身をひそめて待ちかまえている.

(たけうち たかひろ・表象文化論)

マルティン・ハイデガー『技術論』(小島威彦+ルートヴィッヒ・アルムブルスター訳),理想社,1965.

    

■関連文献
ジョン・ケージ,ダニエル・シャルル『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』(青山マミ訳),青土社,1982.
宮川淳『宮川淳著作集 I』美術出版社,1980.
小林康夫『光のオペラ』筑摩書房,1994.
マルティン・ハイデガー『杣径』(茅野良男,ハンス・ブロッカルト訳),創文社,1988.